◆
06/17 14:57 wed
まだ比較的新しいデジタル表示の目覚まし時計は正確な時を知らせる。
彼女は今日の午後三時過ぎには来ると言っていた。ここまでくればもうどうしようもない、逃げられない。そもそもその必要があるかといえばそれは全くないのだろうけど。必要なものは全て揃っているのだから。
粗末な台本(スクリプト)と薄弱な覚悟、それと以前彼女がくれた幸せのキノコと同じ物。彼女いわく幸せになれるというこのキノコには効果に個人差があるらしく、言ってしまうと僕は幸せにはなれなかった。摂取して一時間ほどで激しい頭痛とイラだちに襲われ、感情を制御出来なくなった末に衝動に任せるまま近くにあった目覚まし時計を床に叩きつけて壊したりした。
そんな役立たずなキノコも、この時ばかりは役に立つはずだった。どれほどの意志を、どれほどの覚悟を、どれほどの決意を持って事に臨んでも土壇場で足がすくむ僕だけど、今日ばかりは――
――そのとき玄関のドアのチャイムが鳴った。彼女が来たのだろう。
僕から告白して彼女と正式に付き合い始めたのはもう半年前のことだ。陰気で引きこもり気味な僕のつまらない話を笑って聞いてくれた、小さな体から受ける印象通りに大人しい彼女。
その彼女との関係が少しずつ壊れ始めたのは三月末のあの時からだった。彼女と付き合い始めてから僕は性格も少し明るくなり外にも少しずつ出るようになった。言葉を交わす程度だった友達とも呼べない知り合い達とも、一緒に遊びに行く程度には仲良くなれた。そんなこともあって僕はその日、花見という名の飲み会に誘われた。待ち合わせ場所が分からず迷ってしまったけど、携帯電話という便利なナビゲート機器のおかげでそのバッテリーと引き換えに合流することが出来た。引きこもってばかりだから迷うんだよと笑われたが別に馬鹿にされている訳ではないことは人付き合いを始めてから分かった、これは挨拶みたいなものなのだ。
楽しく飲んで騒いで疲れた僕は家に帰るとすぐに眠ってしまった。翌朝目を覚ますと、昨日バッテリーの切れた携帯電話を充電し忘れたことに気づいてとりあえず充電機に繋いだ。しばらくするとメールの着信音、携帯電話の待ち受け画面を開いて僕は驚いた。
未読メール、143件。全て彼女からだった。
そういえば任意の三桁の数字を二回繰り返して六桁にすると、その数字は必ず143で割り切れる。さらにいえば全ての自然数は143個以下の7乗数の和で表すことが出来る。そんなどうでもいい思考の底に落ちてしまう程に、僕は衝撃を受けた。
内容は、「今何してるの?」に始まり、「どうして返事してくれないの?」に続き、「生きてる? 大丈夫?」と僕の心配をし、あとは「淋しい」という意味のメールが百通以上。
――そのあと僕は彼女に電話してひたすら謝って許してもらったが、あの時からだ。
僕が彼女の内側にある何かを恐れるようになったのは。
ドアを開けるとそこには彼女が立っていた。僕は台本の通りに彼女を招きいれた。彼女は僕が頭の中で描いたとおり、ゆったりとしたピンク色がかった白い長袖のカットソーを着ていた。リストカットの痕を隠す長袖であることを、僕は知っている。そう、僕だけが――知っている。
彼女は小さなテーブルの前に置かれたクッションという名の座布団の上に座り、何かをテーブルの上に置いている。僕はそれを彼女のお気に入りの紅茶を入れながら伺う。彼女に気付かれないように、台所のわきに置いておいたものを隠し持つ。
僕は彼女の正面に座り、二つの紅茶をそれぞれの前に置く。
彼女はテーブルの上に広げたパンフレットのような紙を見ながら何かを僕に言っているが幸せのキノコのせいだろうか、イラだちが抑えられない。壊したくて壊したくて仕方がない。もう限界だった。僕は隠し持ったもの――包丁――を取り出す。あとは壊して、毀して、コワすだけ――。
僕の破壊行為は一瞬で終わった。何といえばいいのか分からないが、ただあっけなかった。飛び散った血液が狭い部屋の中を汚していた。後始末が大変そうだと思ったが、幸いそれをすることになるのは僕ではない。手中の包丁を見る、見事に血まみれだった。まあいいだろう、汚れていたからどうというものでもない。幸せのキノコの効力はまだ続いている。今の僕は何かを壊したくて仕方がないのだ。
そして僕は包丁を逆手に持ち替え、自分に突きたてようと――
「ダメよ、それだけは許さない」
声のした方を見るとそこには――白いカットソーを着た、無傷の彼女が立っていた。
「――どう……して……?」
僕は驚きのあまり声がうまく出せない。言葉がうまく紡げない。やっと発したのも短い疑問だけ。
「どうしてって、あなたが私を呼んだから」
そうだ、僕は彼女を呼んだ。殺すために。そしてそれはすでになされたはずだった。彼女は死んだのだ。それが何故――僕はあるはずの死体に目をやる。
死体はあった。黒いスーツを身に纏った女性の死体。――黒いスーツ?
記憶どおりなら白のカットソーを着ているはずの彼女、その死体。彼女でないのなら一体この死体は誰なのだろう。
「やっぱり私の思ったとおり、あなたは私を殺そうとしてたみたいね。でもまさか、訪ねてきた保険のセールスウーマンを私と間違えて殺すなんて、そんな愛のないことをされるとは思わなかったけど」
――間違えた。何を。殺す相手を。
「あなたになら殺されてもいいと思ってた。あなたなら私を殺しても決して私を一人にしないと。その考えは間違ってなかったけれど、でもやっぱり――物足りないのよ」
――物足りない。彼女はそう言った。時々彼女は僕の理解できないことを言い出すことがあった。確かに愛し合っている間柄なはずなのに、通じあっていないような感覚があった。
でもこのときだけは、僕は彼女の言った言葉の意味が分かった。
彼女は僕に殺されて、僕が彼女の後を追うという結末では物足りないと言っているのだ。
僕は彼女を見る。
彼女は目を光らせ、口元に笑みを浮かべている。そして一歩ずつ近づいてくる。ゆっくりとした歩み。しかし部屋は狭い。すぐに僕のそばまで来て、そして返り血に汚れた僕を優しく抱きしめる。
僕は悟った――今から僕は彼女に殺されるのだ。
彼女は僕を優しく愛して。そしてその愛ゆえに、僕を自分だけのものにするために――彼女は僕を殺すのだ。
僕の背中に回っていた彼女の腕が解かれ、彼女の手が僕の首に伸びる。
「大丈夫。私を理解してくれたのがあなただけなのと同じように、あなたを理解できるのも私だけ」
彼女の手に力がこもる。僕の手には包丁が握られているが、こんなものには何の意味もない。こんなものでは彼女を《殺せない》のだから。
「安心して、何も怖くないわ。だって世界に冷たくされた私達にとって、これ以上の幸せな結末(ハッピーエンド)なんて存在しないでしょ?」
僕達は世界に冷たくされたのだと彼女は言う。でもそうじゃない。世界を遠ざけたのは僕達の方だ。世界を、現実をちゃんと見なかったのは僕達の方だった。
それでも僕は彼女に違うということは出来ない。首を絞められていることもあるが何より僕は、これ以上の幸せな結末が存在しないという部分には、この上なく同意見なのだから。
そういえば、どうして彼女を殺そうと思ったんだったっけ。
――そうだ。僕は彼女を愛せなくなってしまう前に、壊れた彼女との関係まで壊れてしまう前に、僕は彼女と幸せな結末を迎えようとしたんだった。
台本の通りにはいかなかったが、奇しくも彼女の手によって僕の目的は果たされるのだ。
「愛してるわ。あなたを一人になんてしないから――」
彼女は確かにそう言った――
――そして、僕の意識の中にあった何か致命的なものが切れた。
◆
[Tips]
マジックマッシュルーム
肉体的作用
脱力感、悪寒、瞳孔拡散、嘔気、腹痛
視覚的作用
視覚の歪み(幻覚)、聴覚の歪み(幻聴)、色彩の鮮明化、皮膚感覚の鋭敏化
感情的作用
感情の波が激しくなり、自身での感情のコントロールが難しく、偏執に捕らわれる。基本的には多幸感が伴うが、感情の波がネガティブな方向に向かってしまう薬物経験(バッドトリップ)になるとパニック症状を起こしたり、ネガティブな偏執に捕らわれたりする。
摂取より1時間ほどで効果が現れ、5から6時間ほど持続する。環境や精神状態により作用は変化する。
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まだ比較的新しいデジタル表示の目覚まし時計は正確な時を知らせる。
彼女は今日の午後三時過ぎには来ると言っていた。ここまでくればもうどうしようもない、逃げられない。そもそもその必要があるかといえばそれは全くないのだろうけど。必要なものは全て揃っているのだから。
粗末な台本(スクリプト)と薄弱な覚悟、それと以前彼女がくれた幸せのキノコと同じ物。彼女いわく幸せになれるというこのキノコには効果に個人差があるらしく、言ってしまうと僕は幸せにはなれなかった。摂取して一時間ほどで激しい頭痛とイラだちに襲われ、感情を制御出来なくなった末に衝動に任せるまま近くにあった目覚まし時計を床に叩きつけて壊したりした。
そんな役立たずなキノコも、この時ばかりは役に立つはずだった。どれほどの意志を、どれほどの覚悟を、どれほどの決意を持って事に臨んでも土壇場で足がすくむ僕だけど、今日ばかりは――
――そのとき玄関のドアのチャイムが鳴った。彼女が来たのだろう。
僕から告白して彼女と正式に付き合い始めたのはもう半年前のことだ。陰気で引きこもり気味な僕のつまらない話を笑って聞いてくれた、小さな体から受ける印象通りに大人しい彼女。
その彼女との関係が少しずつ壊れ始めたのは三月末のあの時からだった。彼女と付き合い始めてから僕は性格も少し明るくなり外にも少しずつ出るようになった。言葉を交わす程度だった友達とも呼べない知り合い達とも、一緒に遊びに行く程度には仲良くなれた。そんなこともあって僕はその日、花見という名の飲み会に誘われた。待ち合わせ場所が分からず迷ってしまったけど、携帯電話という便利なナビゲート機器のおかげでそのバッテリーと引き換えに合流することが出来た。引きこもってばかりだから迷うんだよと笑われたが別に馬鹿にされている訳ではないことは人付き合いを始めてから分かった、これは挨拶みたいなものなのだ。
楽しく飲んで騒いで疲れた僕は家に帰るとすぐに眠ってしまった。翌朝目を覚ますと、昨日バッテリーの切れた携帯電話を充電し忘れたことに気づいてとりあえず充電機に繋いだ。しばらくするとメールの着信音、携帯電話の待ち受け画面を開いて僕は驚いた。
未読メール、143件。全て彼女からだった。
そういえば任意の三桁の数字を二回繰り返して六桁にすると、その数字は必ず143で割り切れる。さらにいえば全ての自然数は143個以下の7乗数の和で表すことが出来る。そんなどうでもいい思考の底に落ちてしまう程に、僕は衝撃を受けた。
内容は、「今何してるの?」に始まり、「どうして返事してくれないの?」に続き、「生きてる? 大丈夫?」と僕の心配をし、あとは「淋しい」という意味のメールが百通以上。
――そのあと僕は彼女に電話してひたすら謝って許してもらったが、あの時からだ。
僕が彼女の内側にある何かを恐れるようになったのは。
ドアを開けるとそこには彼女が立っていた。僕は台本の通りに彼女を招きいれた。彼女は僕が頭の中で描いたとおり、ゆったりとしたピンク色がかった白い長袖のカットソーを着ていた。リストカットの痕を隠す長袖であることを、僕は知っている。そう、僕だけが――知っている。
彼女は小さなテーブルの前に置かれたクッションという名の座布団の上に座り、何かをテーブルの上に置いている。僕はそれを彼女のお気に入りの紅茶を入れながら伺う。彼女に気付かれないように、台所のわきに置いておいたものを隠し持つ。
僕は彼女の正面に座り、二つの紅茶をそれぞれの前に置く。
彼女はテーブルの上に広げたパンフレットのような紙を見ながら何かを僕に言っているが幸せのキノコのせいだろうか、イラだちが抑えられない。壊したくて壊したくて仕方がない。もう限界だった。僕は隠し持ったもの――包丁――を取り出す。あとは壊して、毀して、コワすだけ――。
僕の破壊行為は一瞬で終わった。何といえばいいのか分からないが、ただあっけなかった。飛び散った血液が狭い部屋の中を汚していた。後始末が大変そうだと思ったが、幸いそれをすることになるのは僕ではない。手中の包丁を見る、見事に血まみれだった。まあいいだろう、汚れていたからどうというものでもない。幸せのキノコの効力はまだ続いている。今の僕は何かを壊したくて仕方がないのだ。
そして僕は包丁を逆手に持ち替え、自分に突きたてようと――
「ダメよ、それだけは許さない」
声のした方を見るとそこには――白いカットソーを着た、無傷の彼女が立っていた。
「――どう……して……?」
僕は驚きのあまり声がうまく出せない。言葉がうまく紡げない。やっと発したのも短い疑問だけ。
「どうしてって、あなたが私を呼んだから」
そうだ、僕は彼女を呼んだ。殺すために。そしてそれはすでになされたはずだった。彼女は死んだのだ。それが何故――僕はあるはずの死体に目をやる。
死体はあった。黒いスーツを身に纏った女性の死体。――黒いスーツ?
記憶どおりなら白のカットソーを着ているはずの彼女、その死体。彼女でないのなら一体この死体は誰なのだろう。
「やっぱり私の思ったとおり、あなたは私を殺そうとしてたみたいね。でもまさか、訪ねてきた保険のセールスウーマンを私と間違えて殺すなんて、そんな愛のないことをされるとは思わなかったけど」
――間違えた。何を。殺す相手を。
「あなたになら殺されてもいいと思ってた。あなたなら私を殺しても決して私を一人にしないと。その考えは間違ってなかったけれど、でもやっぱり――物足りないのよ」
――物足りない。彼女はそう言った。時々彼女は僕の理解できないことを言い出すことがあった。確かに愛し合っている間柄なはずなのに、通じあっていないような感覚があった。
でもこのときだけは、僕は彼女の言った言葉の意味が分かった。
彼女は僕に殺されて、僕が彼女の後を追うという結末では物足りないと言っているのだ。
僕は彼女を見る。
彼女は目を光らせ、口元に笑みを浮かべている。そして一歩ずつ近づいてくる。ゆっくりとした歩み。しかし部屋は狭い。すぐに僕のそばまで来て、そして返り血に汚れた僕を優しく抱きしめる。
僕は悟った――今から僕は彼女に殺されるのだ。
彼女は僕を優しく愛して。そしてその愛ゆえに、僕を自分だけのものにするために――彼女は僕を殺すのだ。
僕の背中に回っていた彼女の腕が解かれ、彼女の手が僕の首に伸びる。
「大丈夫。私を理解してくれたのがあなただけなのと同じように、あなたを理解できるのも私だけ」
彼女の手に力がこもる。僕の手には包丁が握られているが、こんなものには何の意味もない。こんなものでは彼女を《殺せない》のだから。
「安心して、何も怖くないわ。だって世界に冷たくされた私達にとって、これ以上の幸せな結末(ハッピーエンド)なんて存在しないでしょ?」
僕達は世界に冷たくされたのだと彼女は言う。でもそうじゃない。世界を遠ざけたのは僕達の方だ。世界を、現実をちゃんと見なかったのは僕達の方だった。
それでも僕は彼女に違うということは出来ない。首を絞められていることもあるが何より僕は、これ以上の幸せな結末が存在しないという部分には、この上なく同意見なのだから。
そういえば、どうして彼女を殺そうと思ったんだったっけ。
――そうだ。僕は彼女を愛せなくなってしまう前に、壊れた彼女との関係まで壊れてしまう前に、僕は彼女と幸せな結末を迎えようとしたんだった。
台本の通りにはいかなかったが、奇しくも彼女の手によって僕の目的は果たされるのだ。
「愛してるわ。あなたを一人になんてしないから――」
彼女は確かにそう言った――
――そして、僕の意識の中にあった何か致命的なものが切れた。
◆
[Tips]
マジックマッシュルーム
肉体的作用
脱力感、悪寒、瞳孔拡散、嘔気、腹痛
視覚的作用
視覚の歪み(幻覚)、聴覚の歪み(幻聴)、色彩の鮮明化、皮膚感覚の鋭敏化
感情的作用
感情の波が激しくなり、自身での感情のコントロールが難しく、偏執に捕らわれる。基本的には多幸感が伴うが、感情の波がネガティブな方向に向かってしまう薬物経験(バッドトリップ)になるとパニック症状を起こしたり、ネガティブな偏執に捕らわれたりする。
摂取より1時間ほどで効果が現れ、5から6時間ほど持続する。環境や精神状態により作用は変化する。