あかさたなにくそ

がんばるべぇ~

都市の幻想

2005-12-07 21:14:59 | Weblog

田舎から都会にふいに行って、ビルの谷間で人ごみに紛れてみると、めまいのするような奇妙な感覚に襲われる。
そこいらのビルの建築ひとつとってみても、誰もこのひとつを総体として全ての関係を絵に描くことができ、全ての仕事の手ごたえをなぞらえることができないことは確かだ。大まかにすらできない。あまりにも明瞭にそういえるほどの威容である。
しかし、それはシャレじゃないが異様なことでもある。誰一人全体を見れないようなものがそこらじゅうにボンボン立って、さらにそれぞれが関係して連携を形作っている。まるでお化けだ。誰にもとらえれらないし、したがって制御もできないこれらのシステムが平然と成り立って、いちおう破綻することも無く稼動しさらに増殖していくばかりなのだから、不思議だ。このシステムの成り立ちは個人の手を完全に離れている、そして制御できない。大勢の手によってはいちおう制御されているが、個人が無力なのは確かだ。そして人間は連携するといってもあやふやなもので、結局は個人なのだ。だから個人レベルから観るとこれらは奇跡のような総体であり、成り立っていること自体は偶然という感覚にも近いものがある。
しかし、こういうめまいのするようなシステムの都会にいながら、日々一応平然と正気を保って生きて、有用に仕事ができる人間というものは不思議なものだ。ある種の人々にとっては、これらの威容は希望であり、安心であり、未来を保障するものにさえ感じられているようだが、こういう信頼感はどこから来るのだろう。それはもう実感というのにはあまりに希薄で、幼稚な気分で染められたようなバーチャル的実感というものではないだろうか。
そこで生活し働いていることは確かで偶然ではない、仮想でもない事実だ。しかし、自分の感覚として手ごたえを持ってなぞらえることも、無理なく延長していくこともできない。そういう個人の能力を完全に超えて、そういう意味では完全にあっちにある世界の中でのたよりない目に見える近景であり、手に触れられる身近な事象でしかない。とり囲んでいるのは目に見え、話に聞くこともできるが、ほぼ幻想にも等しい。
都会人であれば(今や田舎でも程度の差があるだけだが)、おそらくこの仮想的実感を日常的に生きている。ここで正直な人間は追いつかない頭、とどかない目、触れられない手を感じないわけにはいかないだろう。全幅な信頼を持っているようにそこで揺ぎ無い人間は、都会育ちで感覚が狂ってしまったのか。
しかし結局、仮想の現実は個人の能力が追いつかないというだけで、まごうことなき現実なのであり、現実である限り、法則として自然に従っている。自然の法則にのっとって着々と時を刻むその中で、巨大なシステムが誰にもその全体をそのはっきりとした意志をとらえられず、みとがめられずに進んでいく。都市はしかし自然の意志を持つわけではない。だから、無限に生成していくというのは、ありえない。システムをつなげているのはバラバラな意志であり、複雑な歯車であり、部分は部分しか知らない。とすればこれがますます際限もなく大きくなり加速していくところでは必ず破綻が来よう。
同時多発テロの映像を見て、「ハリウッド映画のようだった」などという感想が多かったが、実際新宿の高層ビルを眺めている感覚は、すでにハリウッドの大スペクタクル映画を見ている感覚と変わりないところがある。
ただ、作り物ではない本物なのだということが分かっている。しかし、頭でわかっているだけで感覚は追いつかない、なぞらえない。あまりにも貧しいイメージを膨らませ、それもすぐに引っ込み、慣れてしまい、関心の外となって次第にさわることもなくなるのだろう。なんでも慣れてしまう。慣れてしまうのは自然だ。
しかし対象と人間とのかかわりはこれではおかしいのだ。狂っている。自分達人間がが歴史的にまた集合し関連して成したものが、巨大なものとして立ちはだかっているのに、あまりにもバカだ。
政治家でなくても手順を知っている。責任者を出せ、仕組みを見直せと訴える。しかしいくら威張っても法的手段を知っていても、他人まかせなのであり、感知するところは誠に貧しくたよりないものだ。システムが巨大になればなるほどこうした経路は数多く、また複雑になり、感知するところがますますなくなり、限りなく他人任せになる。それは機械まかせになることでもあり、相手方はもう全く見えない、分からない、そんな見えないものに向かっていかめしく命令したり怒ったりするのは、なんだかもう笑える。もうほとんどおまじない呪文をとなえているようなものだ。
それなのに、その居心地の悪さみたいなものをほとんど感じていないのはどういうわけだろう。もう完全に切れてしまっているので居直っているのか、と思うとそんな意識はなさそうで、むしろこの巨大化した奇獣のような社会に安住しているように見える。誰でもこう話せば分かるだろう。しかし、分かるくせに不安にならない。天に運命をゆだねている信者のように。
しかし相手は大自然ではない、人工社会なのだ。天が奇獣のような人工社会。全員が全員のんきな方向音痴でどこに向かうとも知らない、なんのおかげも分からない。政治家だろうが、経済学者だろうが、科学者だろうが、大企業の社長だろうがいくら能力のある人間でも、ただの専門家である。解釈や効力を一義的に知ったり扱ったりできるだけである。
歴史の集積を重ね、人知を積み上げてきたはずの人間達が実は視点を変えればこんな姿だ。本当の本当にそうなのだ、それだけははっきりしている。そうではないか。まるでバカである。しかしそう思ってみたところでなにも始まらない? それはそうだ、すでにこの社会に生きている以上この歯車にはまるしかない。しかし、こういうバカをはっきり自覚する人間がいないわけがない。そして世に偉大と言いうる人たちがいるのなら、少なくともこのバカを自覚して自分の気持ちを戒めていなければおかしいと思う。どう考えてもこれを自覚できないのは致命的だと思う。ところで、自覚している人たちは何をしているのだろうか、どこで警鐘を鳴らしているのだろうか。その姿があまり見当たらないように見えるのが恐ろしい。
こういうことを考えると、自分の目に付く限りでは今の文学なんてずいぶんのんきなことをやっているような気がするのだ。