あかさたなにくそ

がんばるべぇ~

子供達をとりまく現在の環境

2005-12-27 20:32:52 | Weblog

マンガの話にも関連するが、自分の子供の身の周りのことなどを考えてみると、また気が重くなる。
自分が居を構えているここは、田舎で自然環境に恵まれた土地柄でもある。しかしご存知の通り最近は子供狙いの物騒な事件が頻発しているので、田舎だからといって油断はできない。いやこの辺でも変質者が何度か出没しているので、他人事でなくなった。自分としては子供には外で思い切り遊んでもらいたいのだが、うちの場合、娘が二人なので、ほおっては置けないのだ。
それで学校から帰ってきても家の中にばかりいる。部屋の中にはテレビにビデオにファミコン、パソコン(これは子供のものではない)、雑誌やコミック本、おもちゃやぬいぐるみも、いつの間にか捨てるほど山になっている。上の娘は中学生になってケータイを手放さず、ファッション雑誌とマンガに夢中だ。部屋は明るく冷暖房がきいていて居心地もいい。それで、帰ってくると今日はどれにしようかと品定めに迷うだけで、家の外に出ることなど考えもしない。遊びの次には宿題、勉強。塾にも隔日で通う(おっと部活もやっている)。遅い時間に風呂に入り、シャンプーしてドライヤーがけをするともう12時というのが普通で、いくら注意してもなおらない。勉強が忙しいからといわれると確かにそのようなので説得力がない。下の娘も真似したがるばかり。
こういうと親がだらしないように見えるかもしれないが、ここみたいな田舎でもこうした環境は普通であり、むしろ自分のところなど品揃えとしては質素なほうだ。すべてにおいてうるさく言う方。最低限のところでなどといいながら、実体はこんなものなのだ。この状態から品数を減らすと友達とアイテムを共有できなくなる。すると、多分話が通じなくなり、乗り遅れ、おそらく仲間はずれにされるようになる、で、隙をみせようならいじめにも遭おう。親の主義で子供を縛りすぎて子供にかえって負担をかけてしまっている例も見ている。そういう親の気持ちも分からないではないが、子供は子供でこの社会に適応して生きていかなければならない。情けない話だが実情はそのようで、こういう時代の趨勢である以上ある程度周りに同化して、ある程度ほったらかしで見守っていくしかないかなと思っている。
しかし、子供はこういう環境でも外見上は破綻なく育っていくかもしれないとしても、こんなことでいいのかという疑問が自分にはいつもあり、それが割合はっきりした形を取っている。それはこうした環境の中では子供の物事へのかかわり方がほとんど2次的であるというようなこと。つまり直接かかわることなく、誰かのおかげでできあがってあたりのいいところでしか物事に触れていない。スイッチを押せば、スティックを動かせば目的が達せられるということばかりで、スイッチがどう繋がって目的に達するのか、そのしくみを理解することもなく、しくみをつなげた手間や苦労も想像することもない、まして自分がそのしくみにかかわるなど夢にも思わない。こういうことなのだ。
モノを買うのにも小さいうちは親に頼っているものだから、なにも労せずして楽しいことがはじまってしまうのだ。準備立ての面倒は一切なしに、またそんなことを意識することもなく、夢の世界に突っ走る。そうした経験を積み重ねると、子供はなんでもものごとはすでにしっかりとできあがっている、自分は自分に直接かかわりのない前のことや後のことや大それたそんなことを一切考える必要もない、と思い込むだろう。うまくいかないのは自分がマニュアルを読み忘れたか、あるいはめったにないはずれに当たったかで、その場合はクレームをつければいい。
というわけで、お膳立てがどうなのかなどという余計な頭は回す必要がない。そして、そういう頭の使い方が実際できなくなるだろう。なにしろ経験自体がぬくぬくとご都合のいい枠の中にすっぽりおさまってしまうようなものだから。一方その分柔軟な頭でゲームやインターネット、ドラマやマンガ、メール、音楽やおしゃれ世界など、知識を広げワザを磨き、大人の想像もつかないほど遠くまで自分らの世界を押し広げていくだろう。
おかげを被って受け取っていること、享受していることに恐ろしく無意識なのに、享受したうえでの制限のない経験の積み上げによる恐るべき堪能さ。どうも最近の子供達の顔を見てるといかにもさりげない、いかにも安定した涼しげな表情をしている下に、こうしたアンバランスが不気味に透けて見える気がする。切れているとよく言うが、子供達はまさしくこうして人口的な枠組みのなかで守られて育ち、その下の地道なところや地面とも切れてしまっているのではないか。

最近また年末で忙しく、書きたいことはたくさんあるのだがなかなか手が出ない。
この続きはまた明日以降…。