あかさたなにくそ

がんばるべぇ~

チェ・ジウに寄せる想い

2005-12-08 23:29:09 | Weblog

冬のソナタのチェ・ジウにはすっかり魅惑された。本当に素晴らしかった。
今年はチェ・ジウ本人としての露出度が高かったが、好感を寄せる声が多い一方、反韓流の悪口があちこちから響いてきて、チェ・ジウのイメージが知らない間に自分の中で悪くなってしまった、というか、変質させられてしまったのを否定し得ないのをとても残念に感じる。
やっぱりチェ・ジウみたいな女優はドラマの中での魅力が大事であって、日本の芸能界みたいな場に出入りして「素」のイメージを前に出すことを強調するようになると、かえって嘘っぽくなる。等身大などということを言われると、なんとなく作為というか、押し付けがましく感じてしまうのだ。別に人間なのだから「姫」でなくってあたりまえだし、はしゃいでみせたり、無理しなくていいと思うのだ。
もっとまずかったのは日韓親善大使でありながら、公式の行事をキャンセルしたり、それなのに自分の高額なコンサートを大規模に行い、日本のドラマなどにも出るという行動ぶりだ。スケジュールや体調の都合、新しい事務所の意向もあるだろうし、自分は悪い方に想像したくないのだが、もともと反感を持っている人たちには、それらの事実はいい攻撃材料になってしまっている。
現在の日韓の関係を考えると、地味な文化交流を通してという道筋で日本に出入りするのはいいのだが、最近のやり方を見ていると商業的な匂いもして、少し道をはずしていて危ない橋を渡っているような気がする。根強いファン層に支えられて、今も最も人気がある韓国女優であることは確かだが、冬ソナ一色の頃の反応とは今は、情勢が変わっているのも確かだろう。
今後日本でのチェ・ジウのイメージはどうなっていくのか、自分にはよく想像しかねる。しかし日韓合作のドラマといっても、中途半端なものしかできないと思う。仮に冬ソナとは違って明るく活発なイメージを新たに売り出すことができたとしても、冬ソナのファンにとっては、まずイメージダウンとなることは間違いないと予想がつく。
もうひとつ、最近のチェジウの画像など見る限り、やはり多少の容色の衰えというか、寄る年端には逆らえないものだなと感じることがある。30を超えたのだから、ここはやはり本国でしっかりと腰の据わった体制で、年齢なりにじっくりと演技に打ち込んでもらいたいと思う。不用意に日本に入り浸りになってイメージをおとしめるだけの結果にならないことを、ファンとして切に願うものである。
冬ソナのチェ・ジウは、とてもとても美しかったものだから…。


都市の幻想 続き

2005-12-08 22:38:36 | Weblog

昨日書いたことの補足。

リアルタイムでなくて、思い出しながらだったからちょっと違うところがある。というか、実際現場にいると例えば高層ビルの高度感や大きさ、まっすぐでキラキラ無機的に連続して平気で長い距離と広大な面積内積を稼いでそびえ立つあの感じに圧倒されて、まずは感動すら覚える。そんな感じだろうか。
まあ、とにかく見た目の威圧的な印象に圧倒されずに色々想像をめぐらしてみるには、一呼吸必要だということがある。自分があまりに小さいのでつい外部の「とてつもなくスゲーもの」という風に見てしまいがちなところで、その印象を押し返すように思いなおして見ることが必要。
いくら圧倒的だといっても積み上げたのは人間なのだ。化合物や組み合わせを膨大な規模で機械と技術を扱って積み上げたのは、それぞれのちっぽけな人間であり、個々の仕事はすごいといってもやはりちっぽけなもので、高層ビルの偉容にひとりひとりの仕事や姿を重ね合わせてみたところで、どう見ても釣り合わないし、うまく結びつかないというものだ。
だから、奇跡的偶然のようだというのだ。不思議とできてしまっている、というようなものだ。釈然としないといえばまったくその通り。でも、できあがって現にある。びっくり玉手箱から飛び出したおばけのようなものだ(ひとりひとりの人間の大きさからするとこのぐらいの表現がぴったりではないか)。しかし騙されてはならない。ひとりひとりは全体を知らない部分であり、部分を着実にに成したというだけのことなのだ。前も知らなければ後ろも知らない、もちろん現の全体も想像がつかない。それが事実であってそれ以上のものではない。
そんなこと分かりきっているって? 分かりきっているがもはやどうにもならない、取り込まれてしまっているんだから、今更そんなことを叫んでも意味がない。だからせめて小さな楽しみでも見出してぼちぼちやるさ、今更大げさに、みっともないんだよ。そんな気持ちなのかな…。
しかし、自分の見る限り、意味がないというところでなんだか問題が終わってしまっている、というか、巧妙にすりかえられてしまっているような気がするのだ。最近の文学とか目に付くところでは、なげやりのような思い付きの爆発のような表現も様々あったりというのが、肝心のこういう問題意識(もちろんこればかりが重大な問題ではない)と繋がっているはずなのが、いつの間にかそれ自体の好事的な道にはまっていて、理由づけとしてだけこういう問題は上がってくる。
何かへンだ。問題意識が明瞭にあるんじゃなくて、問題意識の看板が立てられているから矢印のこっち側にいるみたいな、他人事みたいなところがある。こういう問題は常に新しく何度も何度も突き上げられる切実さを持っているはずなのに、当事者でなく借りてきたような言葉を語っているような気がする。はっきりはいえないが、この問題に限らず自分ら庶民にも伝わるはずの生々しい、痛々しいまでの切実な声がなぜか聞こえてこない。
最近の有名な偉い人っていうのは皆、巧妙に過ぎて保身術に長けている以上のものを感じさせる人が少ないのではないか。マスコミに何度も顔を出してボロが出ないって言うのもできすぎな感じがする。