さるぶつGOO

宗派や宗教団体の壁をガン無視して、自由な「信仰のある生活」を楽しみたいと思います。

【阿弥陀如来の呪い】

2020-07-12 12:23:43 | 仏教講座
阿弥陀様が我々に掛けた呪いは、ずばり!
「生きろ!」
という呪いです。
「生かしておいてやるから、生きろ!」
ということですよ。
「死んだら成仏させてやるから、死ぬまで生き抜け!」
って、あれだけ「苦しい」「苦しい」と言ってる、この世界でですよ。
これを「慈悲」と言うべきか?「呪い」と言うべきか?
「呪い」と言わずして、何と言えば良いのでしょうか?


しかも、ですよ。
生きれば良いというわけではないのです。
「やがて成仏する身であると自覚して、生きろ!」
「生かされて生きる身であることを感謝して、生きろ!」
と、仰るわけですよ、阿弥陀様は。
この、地獄である娑婆をですよ。
酷くないですか?


親鸞聖人は、こんな、阿弥陀様から、私たちへの御命令を、
「勅命である!」
と、御教示くださっておられます。
今時、「勅命」ですよ?
「勅命」、ご存じですか?
絶対に逆らえない御命令だということですよ。
拒否権、無し!です。
そもそも、「南無阿弥陀仏」は、阿弥陀様との契約です。
「南無」=「服従させていただきます」
ですからね。


「生かしといてやるから、生きろ!」
「はい、ありがとうございます。南無阿弥陀仏。」
ですよ。


その上、
「生かされて生きる身であると自覚して生きる」
というのは、
「自分以外のすべての物に感謝することを忘れずに生きる」
ということなんですよ?


これが、そのまま、阿弥陀様が、私たちに与えてくださる「道徳規範」になるのです。
言うなれば、阿弥陀様の「戒律」です。
阿弥陀様に信じられている私たちに与えられた、「倫理規範」です。
「無戒」の代償が、これですよ。
この世界のすべてを「感謝」の対象とする生き方に、挑め、と。


それは、ブラジルのスラムの少年がギャングとなって殺し合いに明け暮れるのも、今後の少女がゲリラにさらわれて殺人マシーンにされてしまうのも、全部、他人ごとではなく、自分のこととして痛み、自分に何ができるのかを考え、そして行動する、という生き方です。


映画を観てたせいで、例えが少し極端かもしれませんが、この世に不幸な人がいる限り、
「私は幸せだ」
なんて、思っちゃいけないんですからね、理屈では。


そこらに立ってる、
「世界人類が平和でありますように」
という、白い棒を見るたびに、私は考え込んでしまいます。
「本当にそうだよな。こういう気持ちになれなきゃいけないんだよな。」
そう、頭をぶん殴られるわけです。
「あれは、カルトが立てた棒だ」
と、笑っている人もいるかもしれません。
でも、誰が立てた棒だとしても、そこに正論があるのであれば、
「そうだよね」
と、頭を垂れるしかないでしょ?


その昔、愛人作って奥さんを泣かせていると評判の大先輩から、
「君はなぜ、平和を求める運動に協力できないんだ?それでも演劇人か?」
と、詰め寄られ、
「戦争反対とか、偉そうに言う前に、家庭の平和をなんとかしろ!」
と、怒鳴った記憶があります。
が、怒鳴った私も、気が付けば、先輩と同じようなレベルでしたよ。


小さな平和も守れない私に、
「世界人類が平和でありますように」
なんて、思えるわけがない。
だから、白い棒が重いんですよ。


もちろん、阿弥陀様だって、そんなことはお見通しです。
それでも、地獄で這いまわる、餓鬼で畜生で阿修羅な私たちを、
「できなくても諦めるな、やれ!」
「一秒でも長く、人でいろ!」(生きてろってことじゃないよ)
と、叱咤激励して下さっているのですね。
そして、
「できない自分に痛み続けろ!」
「至らない自分を恥じることを忘れるな!」
「自分の愚かさに悲泣(ひきゅう)せよ!」
と・・・・・・・・・。
それでも!
「仏に成るために、地獄を生き抜け!」
「仏に成るべき身として、娑婆の只中を生きろ!」
と・・・・・・・・・・・・。


厳しくないですか?
阿弥陀様も、阿弥陀様のそこに気付いた親鸞聖人も。


「ごめんなさい、戒律守りますから」
「もう、無戒でなくていいです。勘弁してください。」
って、頭を丸めたくなりますよ。


「イヤーーーーーーーっ!」
と叫びながら、次回へ続きます。

(見真塾サルブツ通信Vol.0034より)


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