「岡崎正義のかわら版」

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宗教・信仰に関するお話。・・・「幸せの為の信仰」なのに、怠けたり辞めると「罪悪感」が出る不思議

2014年07月16日 10時24分37秒 | 宗教・信仰

 皆さんこんにちは。なかなか記事を更新しない、怠け者の「スピリチュアル占師」スピンクルです。(笑)

 他のスピ系の方々が、毎日に近いペースでブログ等を更新しているのを見たら、純粋に「凄いな・・!」と感心します。
それだけ多くの情報を世の中の方々にお伝えしたいんだろうな・・。と、尊敬もするのですが、私個人としてはその時間を「セッション」に充てたいなと思っておりますので、皆さんお許しください。(笑)

 さて!久々のブログ更新ですが、本日のテーマはタイトルの通り。
個人が、様々な思いを抱きながら励んでいる「信仰活動」。その信仰から一旦遠ざかったり、はたまた「辞めた」場合、なぜに人は一種の「罪悪感」を抱いてしまうのか?
「幸せになるために」活動をスタートしたはずなのに、場合によっては段々と「活動のギャップ」を、気持ちでは感じていても、辞めるに辞められない「ストレス」を抱えながら、日々を過ごしていく。
若しくは、 辞めたとしても「不幸になるのではないか・・・」と、ある種の「恐怖感」を抱いてしまう。それはなぜか? その辺りを触れてみたいと思います。

 以前も、このブログで触れました「宗教・信仰」というテーマについてですが、私が客観的に見て率直に感じる事は、「なぜ、そこまで信仰活動に人生を振りまわされているの?」なんです。

 その方が信仰している宗教や所属団体によっても若干の違いがありますが、 大抵は朝早くや夜まで「信仰活動」に時間を費やしている。
普通の「一般の方」なら、子供と遊んでいたり、家族との団欒を楽しんでいる時間にです。
 
 もちろん、その方が信仰している「宗教」を全面否定するつもりはありません。しかし、冷静に考えて頂きたいのです。そもそも「信仰」を始めようと思ったきっかけは何だったのか? 多くの方は、「信仰の動機」があったわけです。

 「子供の病気を治したい」
 「家族との関係を良好に保ちたい」
 「今より幸せになりたい」
 「経済状況を改善したい!」

 その動機でもって、信仰活動に勤しみ、中には抱えている問題を「克服」された方もおられるでしょう。素晴らしいことだと思います。ここまでは私も大いに「賛成」致します。(笑) まさに、信仰がその方にとって「人生を豊かに歩むための補助ツール」になり得ていますから。(笑) 

 しかし、ここからが問題をややこしくする部分を、「宗教・信仰」は持っているんです。いわゆる「のめり込み」というやつです。
 
 人というのは、自分自身に「プラスの恩恵」を与えてくれた物・人・出来事に対し、「執着」を持つ習性があります。
以前より若々しく綺麗にしてくれた「化粧品」のファンになる(笑)。  優しくしてくれた「人」を好きになる。 そして、自分を「素晴らしい状況」にしてくれた出来事を繰り返そうとする。

 物質的な効果がある「物」だったりすると、プラスをもたらしてくれる間は良いけれど、過去に起こった「肌トラブル」などがあると、たちまち「執着」は無くなるんです。
しかし、「内面的な部分」である人との関係や、今回取り上げた「信仰」の部分になると、簡単には「執着」が取れないんです。

 プラスをもたらしてくれた「人の態度」や「信仰活動」においては、「よりプラスが欲しくなる」為に、若干状況が変化しても「そんなはずはない」、「まだ私の態度・行動が足りないのかもしれない」という気持ちが働き、より「のめり込む」事になるのです。
 今回のテーマとは違いますが、「恋愛関係」もそれに近いですよね?(笑)

 で、「恋愛関係」なら相手に対し「嫌悪感」や「違和感」を憶えたら、「別れる」という選択肢も気持ち的には辛いですが行動に移せると思います。
そして、「新たな人生を歩む」方も多いのではないかと思います。

 しかし、「宗教・信仰」に関しては、これが物凄く難しい。 その最大の理由は、大なり小なりその宗教の「波動エネルギー」が、魂に深く「食い込んでいる」からなのです。 いわば「とりこ」になっているわけです。

 「いがみ合っている家族が仲良く暮らせるように」始めた信仰で、活動を続けていくと、確かに「仲良くなってきた」。心も穏やかに落ち着いて暮らせるようになった。
表現としては、「功徳が出てきた」、「カルマを解消できた!」なんでしょうけど(笑)、ここまでは、その宗教が持っている「波動エネルギー」が、その方の魂に「プラス」へと働いた結果なのです。 素晴らしいですよね?(笑) 人生豊かに暮らせるんですから。

 そして、次の段階で「この喜びを、他の人にも味わってもらいたい!」という感情が働き、「布教活動」に励み始めます。(笑)
まあ、ここまでは「許容範囲」としましょう。(笑) だって、化粧品でも何でも「自分が良くなったから、お勧めしたい!」という感情は湧きますからね。(笑)

 で、その感情をマックスに保ちながら、頑張るわけです。「絶対良くなるから!幸せになるから!」と。近くの友人から通りすがりの人まで。(笑)

 でも、人によっては波動が「合わない」。化粧品によっては「お肌が逆に荒れる・・・」。 
だから、勧められても断る方も中にはいらっしゃるんです。「私にはちょっと・・」と。

 相手が「私のお肌には合わないみたい・・。ごめんね・・」と、化粧品なら「あらそう? 残念ね。良い商品だと思ったのに」と引き下がるのに、こと「信仰」となると、こうなったりするんですよ。

 「私が『幸せ』になったんだから間違いないわ! あなたも絶対!幸せになるわ! この有難さ気付かないあなたは不幸よ!」(笑)

 いやいや(笑)、 だから!「お肌の体質」が合わないんですってば!(笑) その宗教が持っている「波動」の質が。(笑)
無理やりお勧めして、「魂のお肌」をボロボロにするおつもりですか??(笑) そもそも合っていれば、勧誘せずとも「使い始める」のが自然なんです。化粧品だろうと、信仰だろうと。(笑)

 けれど、当の本人はめげずになお一層のめり込むわけですよ、「布教活動」に。 場合によっては「理解しない相手が悪い!」というマイナスを吐き出しながら。(笑)
しかし、そんなエネルギーを出しながら良い結果を得られるはずがありません。 段々と状況が「元通り」、場合によっては以前より「悪化」するわけですよ。
それも当然ですよね。(笑) 「家族が仲良く!」という動機で始めた信仰で、「家族をほったらかして」活動に励むわけですから。(笑)

 しかも、勧誘された相手からの「無理やり勧められた!」という、マイナスエネルギーをダイレクトに受けるわけですから、以前より状況が「悪化」するのは必然というわけです。

 そんな状況になって初めて気付き始めるわけです。「あれ?おかしいな・・。なんか違うぞ・・」と。(笑)
でも、その段階では「ガチっと!」魂は縛られているわけですよ、その宗教に。

 で、そのあとは「違和感」をどこかに感じながらも「活動」を続けるわけです。 感じつつもかつては「恩恵」をもたらしてくれた「相手」ですから。(笑)
この部分は「夫婦関係」にも似ていますね。(笑) 「ちょっと嫌な部分があっても、少し我慢すれば済む。離婚する方がデメリットがある」みたいなね。(笑)

  でも、決定的な事態になれば、長年連れ添った夫婦といえど、「離婚」を視野に行動しますよね。若干未練はあれど、新しい人生に踏み出していく。
しかしね、これを「信仰の世界」で実行しようとすれば、なかなか難しい。「罪悪感」が生まれるんですよね、不思議と。(笑)

 それは、先程お伝えしたように「魂の奥深くまで」、その宗教が持つ「波動エネルギー」が食い込んでいるからなのです。 まるで、お風呂場の壁に食い込んだ「カビ」のように。(笑)
 
 「カビ」なら、「強力洗剤」を買ってきて、一晩吹きかけておけば落ちますよね?たいがいは。
でもね、こと「信仰」に関しては、なかなか「落ちて」くれない。それは、そのエネルギーが食い込んでいると同時に、その方自身が「手放していない」からなんです。
 自ら手放していない以上、どんな「強力洗剤」を使おうと、落ちるわけがないんです。

 だから、「手放したい自分」と「手放せない自分」が魂で葛藤し、「こんな気持ちになる自分が悪い・・。」という罪悪感が生まれるんです。

 もうひとつ例え話をすると、庭の雑草がうっとうしくなったので「除草剤」を撒いているのに、それにも増して「万能肥料」を与える自分に対して「自己嫌悪」に陥っている滑稽なシーンになるんですよ。「庭の雑草を駆除できない自分が悪い・・」と。(笑) なら一刻も早く肥料を与えるのを止めれば済む事なのです(笑)

 最後に皆さんにお伝えいたしますが、私は決して「宗教否定論者」ではありません。むしろ、精神世界と密接な関係がある「信仰・宗教」に関しては、積極的な「肯定論者」です。(笑)
 
 なら、なぜ記事の内容があたかも「否定的」な論調になるか? それは要するに人生を送る際の、単なる「魂のツール」に縛られるな!って事なんです。(笑)

  野球選手が、割れたバットや破れたグローブをいつまでも使って、「打てない!取れない!」と自己嫌悪に陥っている姿と一緒ですよ!という事なんです。
バットが折れたら新しいバットを使えば良い。グローブが破れたら取り換えれば良い。(笑) うじうじしている選手を見るより、「ホームラン」や「ファインプレー」で活躍している姿が見たいじゃないですか。(笑)  

 化粧品だってそうですよ。(笑) 20代の時は「20代向けの商品」。50代には「アンチエイジング化粧品」って、ちゃんと揃っているわけですから。(笑)
それを、50代になっても20代用化粧品を使って、「この商品、最近お肌に刺激が強いのよ!」って クレーム付けるのと一緒ですよ!ってことです。

 ずーっと長年「使用」していても、自分にとって「デメリット」が出てきたら、あっさりと「手放して」、今の自分に合う「商品」を探すか、「ナチュラル」な日々を過ごす方が「幸せ!」というスタンスでいる事が大事ですよ!と言いたいわけです。

  こと「宗教・信仰」に関しては、気付きにくく手放し難いので、あえて触れましたが、一番大事なのは「信仰」ではなく、「あなたが設定してきた人生」をどう歩んでいくかなんです。
 決して「人生を豊かに過ごせるツール」に、逆に振り回されないように、いかに楽しく有意義な人生を過ごせるかを考えて頂ければと思います。

 それでは又の機会に! 

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宗教・信仰との関わり方。・・・本来は、「依存」ではなく、人生の「糧」であるべき

2014年02月16日 15時37分58秒 | 宗教・信仰

  こんにちは、スピンクルです。

久しぶりの休日となりました。

 さて今日は、皆様の身近なジャンルでもある、「信仰・宗教」について触れてみたいと思います。 

 皆様の周りでも、ご友人やご家族、もしかしたらあなた自身も、何かしらの「信仰」を持っているかもしれません。
そして、巷には把握できないほどの「宗教」も存在しています。

 この、宗教や特定の「信仰」とは、本来どうあるべきか、またどう付き合うべきか?

  私が日々感じている事は、あまりにも「信仰」に依存している方が、少なくないということです。
 そして、どちらかというと、「教義」よりも「教祖」もしくは「その宗教のリーダー」に心酔しているということです。
 仏教・キリスト教・イスラム教・・・等、数多くの宗教・宗派がありますが、もともとは、「人生をより充実して過ごす方法」
という点で、みな共通の「目的」を持っていたと思います。

 しかし、さまざまな歴史を辿ることで、多くの宗教・宗派に分派して現在に至っておりますが、
場合によっては、自分達の「正統性」を主張するために、同じ宗教・宗派同士対立している状況もございます。


 ここ日本では、さすがに外国のように「聖戦」と称して戦争をする事はありませんが、対立派・教団に対しては、
 言葉による「聖戦」を繰り広げている点では、あまり大差はないのかもしれません。
さすが「精神を重んじる日本」ならではの戦いだと思います。(笑)

 では、なぜ本来あるべき「人生を豊かに過ごす」為の宗教・信仰が、対立の火種になるのか?

 それは、その宗教に「依存」しているのに他ありません。
加えて、宗派・教団の利害関係がそうさせているのです。

 さらに言えば、とても素晴らしい教義を持っているのに、実態はそうでない場合、たいがい「教団のリーダー」に
「依存」している場合が、その最たる理由なのです。

 人が信仰に目覚める際、最初は「素晴らしい教義」に惚れこむのだと思います。
そして、真剣に「人生を豊かにしようと」信仰活動に励むのだと思います。

 ですが、もしかしたら多くの方は「教義」ではなく、その教えをもたらした「リーダー」や「教団」に惚れこむ、すなわち
「依存」していっているのではないのでしょうか。 

 ですので、その宗派や教団が問題なく信仰に励んでいるうちは良いのですが、一たび他の宗派や教団と対立関係になった時、
若しくは、当初の教義とずれ始めた時、なかなかその信仰から距離を置く事が難しいのではないでしょうか。

 第三者から見れば、「早く離れたら良いのに・・」と思っていても、その当事者がそうしない時、心の中ではどんな事が起きているのでしょうか。

 それは、「崖っぷちの私を救ってくれたあの教祖様・リーダーを見捨てる事は出来ない・・」、、もしくは「私がこれまで信仰してきたこの教団が間違いを犯すわけがない!」という、物凄く大きな「集団依存」が働いているからです。

 冷静に考えれば、教義や活動方針が変わった時点で、その信仰から離れるのが、当初の目的であった「幸せになるため」を実現するための近道なのですが、残念ながらそうならないのが、多く見受けられます。

 日常生活でもそうです。
親と兄弟と友人と家族と楽しく幸せに過ごすために始めた信仰のはずなのに、場合によっては「対立の火種」になる事がある信仰。
本当は、豊かな心をはぐくみ、この世の人生を楽しく過ごすための「ツール」でなければなりません。


 では、本当の「信仰」とは何でしょうか?
それは、「自分を信じて」、「無限の可能性を気付かせ」、「自分の力で乗り越える事が出来る」事を、教えてくれる教義です。

 では、そのような宗教・信仰は存在するのでしょうか?

 実は、遥か昔すべての宗教は、そこを原点として出発しているのです。
もちろん、表現方法は異なりますが、教祖・宗祖と呼ばれている方達は、もれなくその「教義」に基づいていおります。

 決して、どこかの見えない「神」や「仏」に、ましてや「自分」に、「依存しろ」とは一言も言っていないのです。

「この世の仕組み、あの世の仕組みを理解して、どんな状況でも乗り越える能力がある事に気付き、充実した人生を送れる己を
まず信じなさい。」と、言っているだけなのです。

 それが、その教えを守るべき弟子たちや信仰者たちの伝聞や、誤解を含んだ「解説書」が時を経て重みを増し、
時には「教義」が変化し、時にはその「教祖」が神となり、現代に伝わったのだと思います。

 
 最後に、「信仰」とは決して「救われる」ものではありません。奇跡が起きるものでもありません。
 
 「確かに病気が治った!」
 「命を救われた!」
 「経済状態が好転した!」

 もしかしたら、こう思う方もいらっしゃるかもしれませんが、これは全て「あなた自身本来の能力」なのです。
その能力を、その信仰している宗教が「引き出した」に過ぎません。

 信仰は何が正しくて何が間違いという事はありません。
自分にとって、周りにとって、「より良い人生を歩めるツール」かどうかが、判断のベースになるべきなのです。

 周りに迷惑を掛けず、自分に迷惑がかからない信仰を、皆さんも心掛けていって下さい。

 それでは、本日はこの辺で。 

  


  

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