はんしろう の消音カセットテープ

徒然では決してない日常のなか、少し、書いてみます。

考える。

2012-07-12 01:25:05 | Weblog
7月10日付 朝日新聞朝刊掲載「声」欄の記事を読んで。



この記事の続く後半部分、爽やかさを感じた。

まさに「ハチドリのひとしずく」だな、と思う。「喜捨」。
社会の荒波にまだ揉まれていない子どもが取る行動は純粋であって、
それは行いと願いと結果がイコールで結ばれる、単純ながらも深い「心」だろう。
社会人として、完成された人として、自分の位置を定めようとする大人。
より大きなものを得てオトナ化していくはずが、
バイアスやノイズによって、行いと願いと結果の結びつきを信じられなくなる不思議。
この闇に行き止まりはあるのだろうか。「心」は取り戻せるのだろうか。

「明日は我が身」。
「長い棒に短い棒 支えあったら、人になる。支えることで、人を知り、支えられて、人となる。
 長い棒に短い棒 支えあったら、人になる。支えるから、人なんだ。支えられるから、人なんだ。」(♪ACCM)
立場を変えて、視点を変えて。自分だったらどうするか、どうなるか。

「失われた20年」で失ったものを探しに出よう。おそらく、らせん階段を降りていけば拾えるさ。
上ばかりを見て走ってきたのだから。

7月の到来。

2012-07-01 12:40:30 | Weblog


自分の生まれた日の数字に惹かれてしまう。
何かの区切りの日の数字につい惹かれてしまう。
自分にとって「7」はそんな数字。

7月到来。1年の折り返しに溜め息をつきつつ、
「前を向け」の自身への号令を何度も繰り返すのは
反省がない証なのだろうか。


荒れた6月だった。天気も、中央の政治も、自分も。
自身の身の振り方に悩み、「いける」との判断は握った手からすり抜けた。
「チャンスはピンチ、ピンチはチャンス。」この確信にうなだれる。
それでも、ほんの少しずつでも動いていかなければ、
自分がわからなくなりそうだ。
だから働く。パラレルワールドと呼ばれる世界にあっても。
対価は「自信」なのだ。


節電の夏が今年もやってくる。
冷房を扇風機と団扇に切り替えて、空と照りつける太陽を仰いだなら、
懐かしさと決して遠くない昔の悲しい歴史を感じられるだろう。
それこそ、時代というらせん階段を歩み続ける現世のほんの一部に
参加した意義なのかも知れない。
現在の日本に、「国」「国民」「国益」のためと声高に叫ぶ「ドジョウ」は
要らない。もうみんな考えているさ。