所によってはすでに散ってしまったであろうか、桜の花。春の陽射しを受けて、咲き誇る花に出逢うと、つい手を差し伸べたくなるものです。一枝取って、冠に、あるいは胸に飾りたいものだ とその衝動を詠った歌でしょうか。
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[詞書] 花をよめる
桜花 ちらばをしけむ 玉鉾(タマボコ)の
道行きぶりに 折(オ)りてかざさむ
(金槐和歌集 春64;新勅撰和歌集 春下106)
(大意) 桜の花、散ってしまっては惜しいよ、道中の行き合いに、枝を折って、
冠に挿して飾ることにしよう。
註] 〇玉鉾の:“道”の枕詞、玉で飾られた鉾; ○道行きぶり:道中の行き
合い、〇かざさむ:冠または髪に挿す。
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<漢詩>
詠桜花 桜の花を詠む [下平声八庚韻]
春郊絢麗一山櫻, 春郊(シュンコウ) 絢麗(ケンレイ)一山の櫻,
無賞落花心不平。 賞(メデ)ること無く 花を落(チ)らすは心 平(オダヤカ)ならず。
玉桙道上趁機会, 玉桙(タマボコ)の道上(ロジョウ) この機会に趁(ジョウ)じて,
把朵撕插在冠行。 朵(エダ)を把(ト)って撕(チギ)りとり 冠に插(サ)して行かん。
註] ○春郊:春の慷慨; 〇絢麗:きらびやかで美しい; 〇玉桙:玉で飾
られた桙(ホコ)、“道”の枕詞、特に意味はない; 〇趁:…に乗じて、…を利用
して; 〇朵:花のついた枝。
<現代語訳>
初春の郊外、山全体に桜の花が咲き誇っている、
この花を愛(メデ)ることもなく散らせては惜しくて心穏やかではない。
この道を通りがかったのを幸いに、
一枝手折って、冠に挿して行くことにしようか。
<簡体字およびピンイン>
咏樱花 Yǒng yīng huā
春郊绚丽一山樱, Chūn jiāo xuàn lì yī shān yīng,
无赏落花心不平。 wú shǎng luò huā xīn bù píng.
玉桙道上趁机会, Yù yú dào shàng chèn jī huì,
把朵撕插在冠行。 bǎ duǒ sī chā zài guān xíng.
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この実朝の歌に対すると、北宋の政治家・詩人・蘇軾の詩「吉祥寺に牡丹を賞す」を思い出します。その起・承句は:
人老簪花不自羞、 人は老いて花を簪(シン)し自(ミズカ)らは羞(ハ)じず、
花応羞上老人頭。 花は応(マサ)に羞ずべし 老人の頭(カシラ)に上(ノボ)るを。
……
(大意) 私は年甲斐もなく花をかんざしにして 自分では恥ずかしくないが、
花のほうでは 老人の頭につけられてきっと恥ずかしかろう。
……
宴会の後、夜遅く、牡丹の花を頭に挿してよい機嫌で帰路に就いているところです。江南の地・杭州に在任中で、この詩の季節も丁度今頃、日本と大差のない気候であったでしょう。きっと頬を撫ぜる春風も快く、無事に宿舎に辿り着けたことでしょう。
なお、蘇軾のこの詩は、筆者のお気に入りの一首で、この詩の“韻”を借りて、「子供の七五三祝い」の漢詩を書かせてもらいました[参照:閑話休題277 (‘22.08.29)]。「次韻の詩を書いた筆者は満足だが、それを許した蘇軾はさぞや御不満であろう」と、胸の底では羞じらいを覚えながら。
歌人・実朝の誕生 (22)
歌人・源実朝の歌の特徴として、〇万葉調である、〇本歌取りの技術を駆使した歌が多い、〇独創性が高い、……等々。特に、“万葉調”であることが、当時としてはやや特異的なことであったようで、実朝がどのような過程を経て後世の人々から評価されてきたか、大略を見ておきたいと思います。
江戸時代中期の国学者・賀茂真淵(1697~1769)は、『万葉集』など古典研究を通じて古代日本人の精神を研究、端的に万葉調の歌でなければならぬと主張、自ら万葉の歌を唯一の手本として歌を作った。すなわち、和歌における古風の尊重、万葉主義を主張して和歌の革新に貢献した人である。
実朝の歌に画期的な評価を与えたのは、真淵であろう。真淵以前、作歌の手本として『万葉集』は必ずしも重要視されていなかったようである。ところが真淵は、実朝の歌に万葉調の歌を見出し、驚き絶賛している風である。
真淵に次ぎ実朝の歌を称揚するのは明治時代の正岡子規(1867~1902)である。子規は、俳句の革新で最もよく知られるが、俳句のみならず、文学の多方面に亘る創作活動を行った、明治を代表する文学者である。
『歌よみに与ふる書』を著し、「……実朝といふ人は三十にも足らで、……最期を遂げられ誠に残念致し候。……実朝の歌はただ器用といふのではなく、力量あり見識あり威勢あり、時流に染まず世間に媚びざる処、……」と絶賛しています。
昭和に入って間もなく、国文学者で、『万葉集』研究者でもある佐佐木信綱(1872~1963)が、昭和四(1929)年五月、『金槐和歌集』のいわゆる『定家所伝本』を発見した。その奥書に「建暦三年十二月十八日」とあった。これは同本の歌は、1213年(22歳)までに作られたものであることを証明している。
一方、実朝が、定家から『万葉集』を献上されたのは、同年「建暦三年十一月二十三日」ということであった。奥書までの期間が短いことから、同本中の万葉調の歌は、定家から献上された『万葉集』を参考に詠まれたものではないことを強く示唆している。
斎藤茂吉(1882~1953)は、“既存の勅撰集の中に散見する万葉歌人の歌を通じて『万葉集』の歌に接し、影響を受けた結果であろう”との仮説を基に、逐一検討を進めた。結果、「予期したよりも万葉歌人乃至読み人知らずの歌の影響が多い」ことを明らかにした。
そこで茂吉は、「実朝が初期から万葉調が好きだったという証拠であり、『万葉集』本を直接読まなくとも、万葉の歌を真似得たという証拠になるのである」と結論している(『歌論 源実朝』)。実朝の感受性が高い証拠であるとも言えるのではないでしょうか。