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愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題326 飛蓬-179  千々の春 万の秋に 三代将軍 源実朝

2023-04-03 09:51:30 | 漢詩を読む

『金塊集』中、「賀」部の歌は18首と少ない。歌の中で、“君”とは、後鳥羽上皇を指しており、上皇の長寿、また上皇の治世が千載も続くことを願い、慶賀する歌が多い。次の歌はその一つで、平穏のうちに千万歳も生き永らえられることを念ずる歌と言えよう。

 

ooooooooooooo 

  慶賀の歌 

千々の春 万(ヨロズ)の秋に ながらえて 

  月と花とを 君ぞ見るべき  

        (金槐和歌集 賀・353; 玉葉集 巻七 1049) 

 (大意) 千年も万年も生き永らえて 君は月と花とを数え切れぬほど何回も

  見るであろう。 

  註] 〇千々の:元来「色々」の意であるが、ここでは「よろづ」に対応して

    用いてあるから、数の多い意味。   

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<漢詩> 

  慶賀君長寿    君の長寿を慶賀す   [去声八霽韻] 

四時肅肅更遷逝, 四時は肅肅(シュクシュク)として更(コモ)ごも遷(ウツ)り逝(ユ)き,

君寿悠悠千万歲。 君 悠悠(ユウユウ)として千万歲を寿(イキナガラ)えん。

遇見時時花亦月, 時時(オリオリ)の花亦(ト)月に遇見(デア)い,

傲賞勝事長久計。 勝事(ショウジ)を賞(メ)でるに傲(オゴ)れること長久に計(ハカ)らん。

  註] 〇肅肅:ひっそりと静かなさま; 〇悠悠:ゆったりと落ち着いたさま;

   〇遇见:出会う; 〇傲:おごれる; 〇勝事:勝れた風物; 〇長久:

   時間が長いこと。 

<現代語訳> 

  君の長寿を慶賀す 

時節は静かに次々に移り変わっていくが、

君は悠悠と千万歳も生き永らえよう。

折々の花と月に出会い、

この先 幾久しく 素晴らしい風物を愛でて楽しむことであろう。

<簡体字およびピンイン> 

  庆贺君长寿       Qìnghè jūn chángshòu

四时肃肃更迁逝, Sì shí sù sù gèng qiān shì,

君寿悠悠千万岁。 jūn shòu yōuyōu qiān wàn suì.  

遇见时时花亦月, Yùjiàn shíshí huā yì yuè,   

傲赏胜事长久计。 ào shǎng shèng shì chángjiǔ .  

oooooooooooooo 

 

掲歌の参考歌として次の歌が挙げられている。

 

ちぢの秋 ひとつの春に 向かわめや 

  紅葉も花も 共にこそ散れ (伊勢物語)  

 (大意) 千々の秋を集めたとしても、一つの春の素晴らしさには及びません。

    しかし紅葉も桜の花も、ついには共に散ってしまうのよ。

 

なお、参考歌は、元々男性(“春”)と親しかった女性が、“春”の不人情が基で別の男性(“秋”)と親しくなった。そこで“春”が、嫉妬あるいは未練がましく、「“秋”がよいのね 恨みますよ」 と歌を贈ります。それに対して「紅葉(“春”)も桜の花(“秋”)のどっちも一緒よ、ともに散ってしまいます」との女性の返歌である。 

 

歌人・実朝の誕生 (20) 

 

実朝の歌の師について見てきましたが、師と仰ぐ源光行および藤原定家ともに京の人である。今日のような通信手段がある時代ではない。在京の師と鎌倉の実朝の間での教材や諸資料の遣り取りに関わる人は、単なる連絡係以上に重要な存在であったと思われます。

 

京-鎌倉間の連絡には、主に在京の近臣・内藤兵衛尉知親(トモチカ、/朝親)および京歌壇の大物・飛鳥井(藤原)雅経(アスカイ マサツネ)が携わっていた。両人について、その活動状況を見てみます。 

 

当初、その役を担ったのは、御家人・知親である。実朝は、1204年、奥方を京から迎えます。後鳥羽院の外叔父にあたる前の大納言・坊門信清の娘であった。その折、挙式に付き添ってきた知親は、定家の和歌の弟子であった。 

 

したがって、知親は、実朝にとって身内同然に近く、実朝は定家らの編んだ『新古今集』を希望し、知親を通してその稿本を入手している。1209年には、実朝の歌20首を住吉社に奉納、また30首を定家に届けて批評を仰ぎ、定家から口伝書『近代秀歌』や『万葉集』を献上され、実朝に届けている。

 

1208年冬2月には、北条義時の山荘に雪見に出かけた実朝は、歌会を開き、側近の北条泰時や東重胤らに交じって、知親も参席している。この頃から実朝は本格的に詠みだしたようで、実朝の周囲で歌会も開かれるようになる。

 

雅経(1170~1221)も仲介役を果たしているが、雅経の実朝との繋がりは尋常ではない。源平の争いが終焉した後、頼朝・義経間に不和が生ずるが、その折、雅経の父・頼経が義経に助力した罪で安房に流罪となる(1186)。さらに3年後、再び義経をかばったという疑いで伊豆に流罪となった。

 

雅経自身も連座で鎌倉に送られた。しかし雅経は、頼朝から蹴鞠(ケマリ)と和歌の才を高く評価され、取り立てられて、頼家や実朝と近しくする。実朝の1~5歳の間で、その後、雅経は帰京している。雅経は、年少実朝の歌才を見抜いていたのではないでしょうか。

 

1197年、雅経は罪を許され、後鳥羽上皇の命で帰京します。以後、上皇の近臣として重んじられ、また藤原俊成に和歌を学び、内裏歌壇でも中心的存在となる。『新古今集』の撰者の一人であり、また百人一首歌人でもある(94番)。詠作では、特に「本歌取り」の技巧に優れていた。

 

蹴鞠の面では上皇から「蹴鞠長者」の称号を与えられ、後に「飛鳥井流蹴鞠」の祖とされるようになった。京に戻った後も、和歌や蹴鞠の関連で、鎌倉幕府の招きによって度々鎌倉を訪ねていた。

 

1211年には、雅経の仲介で、鴨長明が鎌倉に下向し、実朝と再三の面談の機会を持っている。雅経は、和歌の師として仕えるよう長明を推挙したが、実朝は同意することはなかったようである。

 

内藤知親および飛鳥井雅経は、度々鎌倉を訪れ、単なる資料等の受け渡し役としてだけでなく、普段の面談や歌会を通じて、京歌壇の様子や実際の詠歌の指導に力を尽くしたであろうことは、十分に推測できる。

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