(92番) わが袖は 潮干(シホヒ)に見えぬ 沖の石の
人こそ知らね 乾く間もなし
二条院讃岐(『千載集』恋2・760)
<訳> 私の袖は、引き潮の時でさえ海中に隠れて見えない沖の石のようだ。他人は知らないだろうが、(涙に濡れて)乾く間もない。 (小倉山荘氏)
oooooooooooooo
沖で海の底に沈んだ岩は、波静かな引き潮の時でさえ、姿を現すことはなく濡れたままである。この岩に似て、わたしの衣の袖は、涙で濡れて乾く間もないのよ。でもあの人は、いつまでも気づいてくれそうにない。秘めた片思いの歌です。
歌会で「石に寄せる恋」の題で詠われた歌である。 “涙で濡れた袖”を「沖の石」に例えた斬新さが評判となり、当時、作者は、「沖の石の讃岐」とあだ名されるほどであった。二条院に仕え、院の没後に藤原重頼と結婚、後に後鳥羽院の中宮・宜秋門院任子に仕える。
父・右京大夫・源頼政も歌人で、讃岐も若いころから歌の才を発揮していた。特に後鳥羽院歌壇では多くの歌合に出詠している。女房三十六歌仙のひとりである。七言絶句としました。
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<漢詩原文および読み下し文> [上平声五微・四支韻]
不会成就的暗中恋慕 成就され会(エ)ぬ暗中恋慕
浩浩大洋波浪微, 浩浩(コウコウ)たる大洋 波浪微(カスカ)にして,
海岩退潮没現姿。 海岩 退潮なるも姿を現わさず。
如今我袖孰識破, 如今(ジョコン)我が袖は 孰(タレ)か識破(シキハ)せしか,
似彼岩無干燥時。 彼の岩に似て 干燥する時無しを。
註]
暗中恋慕:密かな恋慕。 浩浩:広々としたさま。
海岩:沖の石。 退潮:引き潮。
如今:近頃。 孰:誰。
識破:見破る、見抜く。
<現代語訳>
遂げられそうにない秘めた恋
広々と果てしない大洋、波浪は微かにして穏やか、
引き潮の時でも、沖の石は姿を現さず、海中にあり濡れたままである。
近頃、涙で濡れた私の袖は、誰も、あの人さえも知らないでしょう、
彼(カ)の沖の石に似て、乾く時がないのを。
<簡体字およびピンイン>
不会成就的暗中恋慕 Bù huì chéngjiù de ànzhōng liànmù
浩浩大洋波浪微, Hào hào dàyáng bōlàng wēi,
海岩退潮没现姿。 hǎi yán tuìcháo méi xiàn zī.
如今我袖孰识破, Rújīn wǒ xiù shú shípò,
似彼岩无干燥时。 sì bǐ yán wú gānzào shí.
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二条院讃岐は、生没年不詳(1141?~1217?)、父は、摂津源氏の右京太夫・源頼政。二条天皇即位(1158)と同じ頃に内裏女房として出仕、翌年以降度々内裏和歌会に出席して内裏歌壇での評価を得ていた。父・頼政も一流の歌人で、『源三位頼政集』を残している。
二条院薨御(1165)後、藤原重頼と結婚。1190年頃、後鳥羽院中宮・宜秋門院任子に再出仕する。その間、保元の乱(1156)、平治の乱(1159)、さらに以仁王の挙兵(1180)では、父・頼政は王側に与し、宇治川の合戦で平氏に敗れ、戦死するという乱世の不幸に遭遇している。1196年、宮仕えを退き、出家した。
若い頃から父と親しかった俊恵法師の歌会に参加、また1178年には、上賀茂神社神主・賀茂重保主催、判者俊成による「別雷社歌合」(ワケイカヅチシャウタアワセ)に父と共に出詠、また1195年には、藤原経房主催の「民部卿家歌合」に出詠している。
後鳥羽院歌壇では、「院初度百首」(1200)、「新宮撰歌合」(1201)、「千五百番歌合」(1202)他に出詠。順徳朝にあっては「内裏歌合」(1213)、「内裏百番歌合」に出詠している。歌人としての活躍は活発で、長い期間に亘っている。
当歌、“我が袖は” は、和泉式部(百人一首56番、閑話休題145)の次の歌を元歌にした“本歌取り”の歌であるということである:
我が袖は 水の下なる 石なれや
人に知られで 乾く間もなし (和泉式部集)
[わたしの衣の袖は水に沈んでいる石みたいなものだわ、人に知られることもなく
また乾く間もないのよ]
すなわち、和泉式部の歌における「水の下なる石」が、大海の「姿を現すことのない沖の石」に替わった歌です。この斬新な発想が、当時大変な話題となり、この歌に因んで、讃岐は「沖の石の讃岐」とあだ名されたということである。
讃岐は、『千載和歌集』以下の勅撰和歌集に72首入集され、家集に『二条院讃岐集』がある。女房三十六歌仙の一人である。
人こそ知らね 乾く間もなし
二条院讃岐(『千載集』恋2・760)
<訳> 私の袖は、引き潮の時でさえ海中に隠れて見えない沖の石のようだ。他人は知らないだろうが、(涙に濡れて)乾く間もない。 (小倉山荘氏)
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沖で海の底に沈んだ岩は、波静かな引き潮の時でさえ、姿を現すことはなく濡れたままである。この岩に似て、わたしの衣の袖は、涙で濡れて乾く間もないのよ。でもあの人は、いつまでも気づいてくれそうにない。秘めた片思いの歌です。
歌会で「石に寄せる恋」の題で詠われた歌である。 “涙で濡れた袖”を「沖の石」に例えた斬新さが評判となり、当時、作者は、「沖の石の讃岐」とあだ名されるほどであった。二条院に仕え、院の没後に藤原重頼と結婚、後に後鳥羽院の中宮・宜秋門院任子に仕える。
父・右京大夫・源頼政も歌人で、讃岐も若いころから歌の才を発揮していた。特に後鳥羽院歌壇では多くの歌合に出詠している。女房三十六歌仙のひとりである。七言絶句としました。
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<漢詩原文および読み下し文> [上平声五微・四支韻]
不会成就的暗中恋慕 成就され会(エ)ぬ暗中恋慕
浩浩大洋波浪微, 浩浩(コウコウ)たる大洋 波浪微(カスカ)にして,
海岩退潮没現姿。 海岩 退潮なるも姿を現わさず。
如今我袖孰識破, 如今(ジョコン)我が袖は 孰(タレ)か識破(シキハ)せしか,
似彼岩無干燥時。 彼の岩に似て 干燥する時無しを。
註]
暗中恋慕:密かな恋慕。 浩浩:広々としたさま。
海岩:沖の石。 退潮:引き潮。
如今:近頃。 孰:誰。
識破:見破る、見抜く。
<現代語訳>
遂げられそうにない秘めた恋
広々と果てしない大洋、波浪は微かにして穏やか、
引き潮の時でも、沖の石は姿を現さず、海中にあり濡れたままである。
近頃、涙で濡れた私の袖は、誰も、あの人さえも知らないでしょう、
彼(カ)の沖の石に似て、乾く時がないのを。
<簡体字およびピンイン>
不会成就的暗中恋慕 Bù huì chéngjiù de ànzhōng liànmù
浩浩大洋波浪微, Hào hào dàyáng bōlàng wēi,
海岩退潮没现姿。 hǎi yán tuìcháo méi xiàn zī.
如今我袖孰识破, Rújīn wǒ xiù shú shípò,
似彼岩无干燥时。 sì bǐ yán wú gānzào shí.
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二条院讃岐は、生没年不詳(1141?~1217?)、父は、摂津源氏の右京太夫・源頼政。二条天皇即位(1158)と同じ頃に内裏女房として出仕、翌年以降度々内裏和歌会に出席して内裏歌壇での評価を得ていた。父・頼政も一流の歌人で、『源三位頼政集』を残している。
二条院薨御(1165)後、藤原重頼と結婚。1190年頃、後鳥羽院中宮・宜秋門院任子に再出仕する。その間、保元の乱(1156)、平治の乱(1159)、さらに以仁王の挙兵(1180)では、父・頼政は王側に与し、宇治川の合戦で平氏に敗れ、戦死するという乱世の不幸に遭遇している。1196年、宮仕えを退き、出家した。
若い頃から父と親しかった俊恵法師の歌会に参加、また1178年には、上賀茂神社神主・賀茂重保主催、判者俊成による「別雷社歌合」(ワケイカヅチシャウタアワセ)に父と共に出詠、また1195年には、藤原経房主催の「民部卿家歌合」に出詠している。
後鳥羽院歌壇では、「院初度百首」(1200)、「新宮撰歌合」(1201)、「千五百番歌合」(1202)他に出詠。順徳朝にあっては「内裏歌合」(1213)、「内裏百番歌合」に出詠している。歌人としての活躍は活発で、長い期間に亘っている。
当歌、“我が袖は” は、和泉式部(百人一首56番、閑話休題145)の次の歌を元歌にした“本歌取り”の歌であるということである:
我が袖は 水の下なる 石なれや
人に知られで 乾く間もなし (和泉式部集)
[わたしの衣の袖は水に沈んでいる石みたいなものだわ、人に知られることもなく
また乾く間もないのよ]
すなわち、和泉式部の歌における「水の下なる石」が、大海の「姿を現すことのない沖の石」に替わった歌です。この斬新な発想が、当時大変な話題となり、この歌に因んで、讃岐は「沖の石の讃岐」とあだ名されたということである。
讃岐は、『千載和歌集』以下の勅撰和歌集に72首入集され、家集に『二条院讃岐集』がある。女房三十六歌仙の一人である。