goo blog サービス終了のお知らせ 

愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題 227 飛蓬-134 小倉百人一首:(二条院讃岐)わが袖は

2021-09-06 09:04:08 | 漢詩を読む
(92番) わが袖は 潮干(シホヒ)に見えぬ 沖の石の 
       人こそ知らね 乾く間もなし 
          二条院讃岐(『千載集』恋2・760)  
<訳> 私の袖は、引き潮の時でさえ海中に隠れて見えない沖の石のようだ。他人は知らないだろうが、(涙に濡れて)乾く間もない。 (小倉山荘氏) 

oooooooooooooo 
沖で海の底に沈んだ岩は、波静かな引き潮の時でさえ、姿を現すことはなく濡れたままである。この岩に似て、わたしの衣の袖は、涙で濡れて乾く間もないのよ。でもあの人は、いつまでも気づいてくれそうにない。秘めた片思いの歌です。 

歌会で「石に寄せる恋」の題で詠われた歌である。 “涙で濡れた袖”を「沖の石」に例えた斬新さが評判となり、当時、作者は、「沖の石の讃岐」とあだ名されるほどであった。二条院に仕え、院の没後に藤原重頼と結婚、後に後鳥羽院の中宮・宜秋門院任子に仕える。 

父・右京大夫・源頼政も歌人で、讃岐も若いころから歌の才を発揮していた。特に後鳥羽院歌壇では多くの歌合に出詠している。女房三十六歌仙のひとりである。七言絶句としました。

xxxxxxxxxxxxx 
<漢詩原文および読み下し文>   [上平声五微・四支韻] 
 不会成就的暗中恋慕 成就され会(エ)ぬ暗中恋慕  
浩浩大洋波浪微, 浩浩(コウコウ)たる大洋 波浪微(カスカ)にして, 
海岩退潮没現姿。 海岩 退潮なるも姿を現わさず。 
如今我袖孰識破, 如今(ジョコン)我が袖は 孰(タレ)か識破(シキハ)せしか, 
似彼岩無干燥時。 彼の岩に似て 干燥する時無しを。 
 註] 
  暗中恋慕:密かな恋慕。    浩浩:広々としたさま。 
  海岩:沖の石。        退潮:引き潮。 
  如今:近頃。         孰:誰。 
  識破:見破る、見抜く。   
<現代語訳> 
 遂げられそうにない秘めた恋  
広々と果てしない大洋、波浪は微かにして穏やか、 
引き潮の時でも、沖の石は姿を現さず、海中にあり濡れたままである。 
近頃、涙で濡れた私の袖は、誰も、あの人さえも知らないでしょう、 
彼(カ)の沖の石に似て、乾く時がないのを。 

<簡体字およびピンイン> 
 不会成就的暗中恋慕 Bù huì chéngjiù de ànzhōng liànmù   
浩浩大洋波浪微, Hào hào dàyáng bōlàng wēi,  
海岩退潮没现姿。 hǎi yán tuìcháo méi xiàn . 
如今我袖孰识破, Rújīn wǒ xiù shú shípò,  
似彼岩无干燥时。 sì bǐ yán wú gānzào shí. 
xxxxxxxxxxxxxx 

二条院讃岐は、生没年不詳(1141?~1217?)、父は、摂津源氏の右京太夫・源頼政。二条天皇即位(1158)と同じ頃に内裏女房として出仕、翌年以降度々内裏和歌会に出席して内裏歌壇での評価を得ていた。父・頼政も一流の歌人で、『源三位頼政集』を残している。 

二条院薨御(1165)後、藤原重頼と結婚。1190年頃、後鳥羽院中宮・宜秋門院任子に再出仕する。その間、保元の乱(1156)、平治の乱(1159)、さらに以仁王の挙兵(1180)では、父・頼政は王側に与し、宇治川の合戦で平氏に敗れ、戦死するという乱世の不幸に遭遇している。1196年、宮仕えを退き、出家した。 

若い頃から父と親しかった俊恵法師の歌会に参加、また1178年には、上賀茂神社神主・賀茂重保主催、判者俊成による「別雷社歌合」(ワケイカヅチシャウタアワセ)に父と共に出詠、また1195年には、藤原経房主催の「民部卿家歌合」に出詠している。 

後鳥羽院歌壇では、「院初度百首」(1200)、「新宮撰歌合」(1201)、「千五百番歌合」(1202)他に出詠。順徳朝にあっては「内裏歌合」(1213)、「内裏百番歌合」に出詠している。歌人としての活躍は活発で、長い期間に亘っている。 

当歌、“我が袖は” は、和泉式部(百人一首56番、閑話休題145)の次の歌を元歌にした“本歌取り”の歌であるということである: 

我が袖は 水の下なる 石なれや 
  人に知られで 乾く間もなし (和泉式部集) 
 [わたしの衣の袖は水に沈んでいる石みたいなものだわ、人に知られることもなく 
 また乾く間もないのよ] 

すなわち、和泉式部の歌における「水の下なる石」が、大海の「姿を現すことのない沖の石」に替わった歌です。この斬新な発想が、当時大変な話題となり、この歌に因んで、讃岐は「沖の石の讃岐」とあだ名されたということである。 

讃岐は、『千載和歌集』以下の勅撰和歌集に72首入集され、家集に『二条院讃岐集』がある。女房三十六歌仙の一人である。 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする