goo blog サービス終了のお知らせ 

愚の骨頂BLOG

なげけるか いかれるか はたもだせるかきけはてしなき わだつみのこえ

吉田茂の言葉通りだった

2012年03月11日 | 東北地方太平洋沖地震
日本政府が自衛隊に対する印象を調査したところ、良い印象であると答えた人が約97%という結果が出た。
そこで私は真っ先に吉田茂の訓辞を思い出したのであった。
全く以てこの言葉通りの事態なのである。

残りの約3%は何者なんだ。


昭和32年防衛大学校第1回卒業式吉田茂総理大臣訓辞
君達は自衛隊在職中、決して国民から感謝されたり、歓迎されることなく自衛隊を終わるかもしれない。
きっと非難とか叱咤ばかりの一生かもしれない。
御苦労だと思う。
しかし、自衛隊が国民から歓迎されちやほやされる事態とは、外国から攻撃されて国家存亡の時とか、災害派遣の時とか、国民が困窮し国家が混乱に直面している時だけなのだ。
言葉を換えれば、君達が日陰者である時のほうが、国民や日本は幸せなのだ。
どうか、耐えてもらいたい。
内閣総理大臣吉田茂

被災地から帰ってきました。

2011年05月09日 | 東北地方太平洋沖地震
大船渡市に隣接する住田町内にあるローソンの店頭ガラスに応援メッセージ。
隣という事もあり、町内の人も大船渡市は馴染みの場所、大船渡市内の高校に通う生徒や買い物に出かけたり、親戚を持つ方も多いと思います。


左・画像左手の建物はNTT
右・中央茶色の建物は商工会議所、奥に見えるのは太平洋セメントの煙突。
この日は撤去作業は休止だったとか。
 

「かもめの玉子」で有名(らしい)さいとう製菓本社。


大船渡駅前。
 

大船渡駅ホーム。
駅は基礎だけが残り、ホームは地盤が歪み下がっています。
大船渡線は気仙沼~盛間の復旧絶望的と思わざるをえない状況です。
終点の盛駅には行き場を無くした車両が停まったままでした。


大船渡プラザホテル前。
アメリカさんの捜索活動跡が書かれてますが、こんなところにコンクリートの塊なんてありません。
 

同ホテル。
椅子は捜索の際に外に出された?
車がひっくり返っているのがわかります。


心無い人がゴミ袋を捨ていったのが悲しい…けど、多分捨てたのも地元民でしょう。

市内を走る。
車を走らせながら撮っているのもあるのでブレているのは乞うご容赦。
地盤沈下の為、水が引かずに通行止めの箇所もありました。
下の画像にある水溜りの場所は大船渡線をくぐる道のために昔から低い位置です…けど、こんな事態は見たことないです。
潮の香りというより、生臭い空気でした。
       

坂の途中にある家。
津波により自宅の流れついたらしい誰かの思い出の品を、塀に並べる様子。
優しい心遣いが見えます。


祖父の一周忌のお墓参りの際に見えた、避難所になっている盛小学校校庭に駐屯する自衛隊さんの車と仮設のお風呂。


ちなみにお墓は墓石や法名の石が倒れたりしているのも多々ありました。
建立したのが昔であればほとんど倒れています。(積み上げただけなので)
割と最近建立したのであれば、墓石が倒れずもしくは水平に回転している程度です。(石の中に筋があるとか?)
撮った日、墓石屋らしき方が直しに来ていました。
実家のお墓は法名石がわずかにずれていた程度です。
倒れてきた隣の墓石に倒された墓もありました。
大船渡市の道沿いに除けられた木材などは太平洋セメント等で燃料として焼却処理するとかしないとかで、撤去対策の構想は進んでいるらしいです。

陸前高田市。
道によっては渋滞も発生するらしいのだけど、裏道を知っている父親の案内で渋滞は免れました。
壊された気仙大橋は自衛隊さんが仮設道路建設中のため、通行止め。
これが出来ると流通も少しはよくなるかな?
田畑の瓦礫を撤去するボランティアの方がたくさんいました。
被害がひどい市街地にはボランティアの姿が見られず、まだそこには介入出来ないかと思います。
気仙川を上っていくと、ボランティアらしき方が川原にテントを張っていましたが…急な雨には気をつけてほしいです。

振り返ると海は結構遠くに見えるのだけど、さすがにここまで来るとは予想し難い場所でした。
現在、高田高校は大船渡市内にある旧大船渡農業高校(広田水産高校・大船渡工業高校と合併して今は大船渡東高校になってます)の校舎を使用しています。


奥に自衛隊さんの車が見えます。


壊れた防波堤。
鉄筋入ってないのはデフォ?
 

陸前高田市営球場。
撮ってはいませんが、遠くの海に自衛隊さんの自衛艦らしき船が見えました。


陸前高田市内。
ここから振り返ると海がすぐ側になっていました。
 

交通整備する大阪府警さん。
ご苦労様です。


三陸自動車道の工事予定地で整備された場所に駐屯する自衛隊さん。
公共事業は全て停止中です。

最近、胃が痛いのは震災のせいだろうか

2011年04月13日 | 東北地方太平洋沖地震
故郷を思うあまりエア被災者になってしまった私、末恐ろしい画像、動画から、目から汗が出てしまうものまで、何度も見ずにはいられない個人的にオススメな震災関連のサイトです。

動画
今回の地震で一番衝撃的だった動画

震災で後世に残すべき動画

「あー終わりだ‥」 漁師さんが撮影した、恐ろしい津波の映像

暴れ狂う魚・・。地震後、会社からの避難時に撮影された映像

大船渡さいとう製菓「かもめの玉子」買ってね(´;ω;`)

「どんな津波動画より一番恐ろしい」 奥に見えた津波が、次の瞬間

ようつべ
現地の方が決死の思いで撮影した津波が来る瞬間の映像 【岩手・大船渡】

地元(´;ω;`)

大船渡マイヤ本店からサンリア.flv
今では出発地点はほとんど壊滅、被害前の町並みをとらえる貴重な動画になりました。

画像など
気仙沼、火の海に

今回の東日本大震災で一番心に響いた画像を貼るスレ

今回の東日本大震災で一番心に響いた画像を貼るスレ  その2

平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震による被災地の空中写真

逸脱
Japan Quake Map

3.11 14:46の規模がいかに大きいかわかります。
日本海溝、ドンパチだな…。


泳ぐやる夫シアター やる夫の東日本大震災
震度7を記録した宮城県栗原市にお住まいの方の体験記録

やっぱ一番は「また再建しましょう」だ!!

でも津波が怖い

2011年03月25日 | 東北地方太平洋沖地震
家族で岩手県陸前高田市に出掛けたり、一ノ関市や宮城県気仙沼市・仙台市に行く車の中で母は時々こう言う。
「この辺(陸前高田市)は日当たりもいいし、買い物も便利でいいねぇ。」

私たちが住むのは隣の市にある大船渡市の、一番奥にある住田町に近い地域だ。
冬になれば午後2時になる前に陽が陰り、市街地から家へと車を走らせるとみぞれだった空が雪に変わり、家に着く頃には積雪数センチという事も珍しくない。
バスは2時間に1本がいいところで、これといった娯楽施設も商業施設もない、車がないと生活にならないような場所だった。
母はいつも買い物に不便だ、日あたりが悪い、と言っていた。
だから陸前高田市はいいな、と言うのだった。
しかしその後には必ずこう言った。

「でも津波が怖いからねぇ。」

2011年(平成23年)3月11日14時46分。
東日本大地震が起こった時間。
地震から間もなくして津波第1波が沿岸に到達、地震発生から約20分後に第2波が街を襲う。
陸前高田市では主に高田高校、高田第一中学校・小学校、市民体育管や市民会館を災害避難所として指定していた。
地震災害の避難所にはなるが、内陸に向かって緩やかな傾斜を成すこの土地にとって津波災害の避難所として成立しないのが体育館や会館だ。
チリ地震津波を経験にしているのか、市内を走る大船渡線より内陸側には津波は来ない、というのがこの市の通説らしい。
その通説を知らない人もいるだろうが、その2つの避難所に逃げるか中学校や高校の第2グラウンドに避難するかで大きく分かれている。
人々は『避難所』と呼ばれている体育館や会館に避難する。
避難場所に学校を選んだところで助かる補償もなかったが、避難所と言われる場所に逃げれば助かるという思いがそこにもあったのだろう。

仙台平野が広がる仙台市の仙台東有料道路は防波堤代わりになればと高い位置に工事されたが、90年以上も前からある大船渡線は防波堤にすらならず、体育館と会館それぞれの窓を打ち破り壁を打ち倒し避難した人を飲み込んだ。
地震の規模から不安になった人もいるだろう。
ここまで来れば大丈夫だろう。
津波は人々の不安と脆弱な期待などお構いなしに、スーパーの屋上に逃げた人達に見送られながらさらに内陸へと進んでいった。

いつも避難警報が出ても何も被害はないから、避難しなくて大丈夫。
そう思う人がいたのも間違いないと思う。
「逃げて逃げて!早く!!」と叫ぶ消防隊員が撮った映像には、『背後に津波が迫っているのに歩いて』いる人がいるのである。
大船渡市内で撮られた映像でも、坂道を昇ろうとしている津波の側でその場をなかなか動こうとしない人や、事態を飲み込めて老人の手を引きながら動かない人達に避難を呼びかける女性の姿があった。
報道でしばし『防災意識の高い街』と紹介されていたが、映像を見る限り果たして本当にそうであろうか?

地震発生から街を飲み込まんとする第2波到達までの時間は約20分。
約3分半ほど揺れ、家族と「大丈夫か?」「大きかったね。」という会話を交わした市民に与えられた避難時間は15分もなかった。

3つの学校は海岸線から直線で約2キロの距離のところにある。
市街からでも1キロ以上はある。
平時に時間を競うならともかく、混乱した街と人の中で1キロを15分内で徒歩で避難所にたどり着けるのは困難だろう。
子供やお年寄りの手を引いて足早に歩けるだろうか。
段差のない道を選んで車椅子を押せるだろうか。
寝たきりの方を車に乗せ、混んでいない道を探してそこにたどり着けるだろうか。
貴重品や思い出の品だけでも、とカバンに詰めてから避難は果たして間に合うのだろうか。
若者は仕事先にいて、家に残されたお年寄りや子供だけで正しい判断は出来るのだろうか。

辺りには避難出来そうなコンクリート造の建物は極めて少なかった。
あるいは目の前にあったとしても、人はおそらく避難所へと向かったかもしれない。

余震の恐怖と家族の安否の不安に苛まれた市民が翌朝目にしたのは、全てを失った街の姿だった。
上空をヘリが飛ぶ景色は非日常的で、さらに現実感を喪失させたのは壁に穴が開いた鉄骨造と窓ガラスのないコンクリート造の建物しかない街。
壊滅。
甚大な被害。
廃墟。
そう形容された。

松原海岸の波は比較的穏やかで、潮の香りのする風が松林を取り囲む。
中学の時に野球部の応援で行った市営球場で、涙を流した事もあった。
美味しい和食屋があるから、と車で30分かけて家族で夕食に行った。
帰省の時、トイレだけに何度か寄ったスーパー。
初めて見る全国展開しているファーストフード店が話の話題になるほどのド田舎。
気仙沼の高校に行く時に毎日乗った電車は、線路に枯葉が積もっているという理由だけで徐行運転をする。

何もないところだけど、あの街が好きだったことに気付く。

陸前高田市民じゃないけど。

母が小学生の時、チリ地震津波が発生した。
その思いがあるから、津波は怖い、と言っていたのだ。
今回の津波で、もう住みたくないと言う人と、ここでしか住めない、という人がいた。
正しい応えなんかどこにもないのだろう。
チリ地震津波から復興し、今再び三陸は試されている。

救助された直後のインタビューに笑顔で「また再建しましょう。」と言ったおじいさんが動画サイトで話題になった。
政治も経済も状況もゴタゴタな今、チリ地震津波のようにまたあの景色を甦らせることは出来るのだろうか。

津波に唯一耐えた、松原海岸にある松林の松の木。


とりあえず、小沢一郎出て来い。

地震雲(笑)

2011年03月22日 | 東北地方太平洋沖地震
震災、と名のつく災害が起こった後に必ずと言っていい程に後からやってくるのが『地震雲』なるものの目撃証言。
しかも地震が起こった後で、「ここで見た」「いつ見た」という後出し現象多発の全く役に立たない情報。
それ以降も「これは地震雲でしょうか?」「ここで見たんですけど、地震は起こるのでしょうか?」というお話が出てくる。

以下、気象庁HPより抜粋。

地震雲はあるのですか?
雲は大気の現象であり、地震は大地の現象で、両者は全く別の現象です。
雲のたなびく向きは、上空の気流によって支配されています。
気流が地形の影響を受けることはありますが、地震の影響を受ける科学的なメカニズムは説明できていません。
「地震雲」が無いと言いきるのは難しいですが、仮に「地震雲」があるとしても、「地震雲」とはどのような雲で、地震とどのような関係であらわれるのかが科学的な説明がなされていない状態です。
日本における震度1以上を観測した地震(以下、有感地震)数は、概ね年間2,000個程度あり、平均すれば日本のいずれかの場所で一日あたり5個程度の有感地震が発生していることとなります。
震度4以上を観測した地震についても、平成16年で105個、平成17年で49個、平成18年で28個、平成19年で57個発生しています。
このように地震はいつもどこかで発生している現象です。
雲は上空の気流や太陽光などにより珍しい形や色に見える場合がありますし、夜間は正確な形状を確認することができません。
形の変わった雲と地震の発生は、ある程度の頻度で発生する全く関連のないふたつの現象が偶然見かけ上、そのように結びつけられることがあるという状況であり、現時点では、科学的な扱いは出来ていません。


抜粋終わり。

以下、ウィキペディア『宏観異常現象』より抜粋。

新潟県中越地震の直後に寄せられた地震雲の情報のほとんどは、飛行機雲、巻き雲、高積雲などだったという。

抜粋終わり。

…だそうだ。
震災が起こると不安を掻き立てられてしまうのか、普段なら気にもしない雲の形に過敏に反応してしまうのである。

地震と雲の関連について研究されている方もいるようだが、仮説として提唱されていても科学的証明までは結びついていないのが現状なようである。
そんな状態のものを「地震雲を見ました」と言い切る方もある意味凄いなぁと思うのだが、空の画像を見せて「これは地震雲でしょうか?」と質問する方もなんだかなぁと思う。
雲を見ただけで判断出来たら研究の必要もないのだが…。

「地震は起こるのでしょうか?」と言われたら、気象庁が言うように、またYAHOOの災害情報の地震ページを見るとわかるように、体感しないような地震は毎日といっていいほど起こっているんですけど…、としか言いようがない。
拾った画像を並べて「地震雲見ました。」とか適当に言ったら、「私も見た!」と賛同してくれる人がいるかもしれない…と思うと、不安がもたらす集団心理って怖いなぁと思う。

まぁ、地震に対して用心に越した事はないけど、ムー大陸みたいにpgr程度の扱いでいいのではないだろうか。

ここで、関係のない人にはどうでもいい朔夜さんちのお父さん情報を公開!!
・床上浸水した親戚んちの片付けのお手伝い終了。
・今週から会社の片付け開始。
・我が家の車が会社敷地内にあったはずの生コン車と共に流されて、離れたところで発見される。(10年も乗ってりゃ愛着の沸く可愛い車、もう乗れなくなったけど見つかってよかったね。)
・車は父の姉の家から一台拝借。

お父さんは頑張ってます。

衛星画像で見る被害

2011年03月18日 | 東北地方太平洋沖地震
大船渡[おおふなと]市日頃市[ひころいち]町から、盛[さかり]町地ノ森[じのもり]周辺・権現堂[ごんげんどう]橋手前まで。


津波の被害は全くないが川原には津波の泥が流れた形跡があるような。
右下を走る大船渡三陸道路下はコウノトリがいた、という話題で107号線は大渋滞、辺りは見物人でごった返した場所。
しかし、なぜパチンコ屋の駐車場に車…。

盛町市街
 

右画像:盛駅南近辺まで車が流されている。
国道45線を境にするかのような津波の痕。
流された家屋の残骸が溜まっている。
一見すると、家屋が流されたかのように見えるが、更地や会社の駐車場など広い敷地も多い場所なので被害は比較的少なめ。
左の画像の中心地で、津波の高さは推定地面から1.5~2M。
身内だけにしかわからないが、親戚家の車が30Mほど流されているのが見えた。(木に引っかかってそこで停止の模様)
市役所、消防署、警察署、市立病院などは津波被害なし。

大船渡市街
 

内陸に向かって傾斜のある地域だが、中心部は海面との高低差がわずかしかなく被害は甚大。
湾に高さとスピードを増しながら集まる津波を真っ向から受ける。
ちなみに津波があった日の2日前、母親がSCマイヤに買い物に出掛けていた。
普段は波も穏やかなのだが、その日だけは違った。
友人と吐くまで呑み、何度も家族で食事に出掛けた思い出はそこにある。

大船渡町下船渡[しもふなと]地区


国道45線は高い位置にあるので被害なし、国道下の集落は津波の傷跡が酷い。

海岸線を走る国道45号線。


画像上部の地区は国道より低い地域。無料で開通している大船渡三陸道路、中央やや右よりにある碁石海岸ICを出る時、眼前には水平線が広がる、何度でも見たい最高の景色。
車を走らせる時は大船渡北ICから南下すると盛町、大船渡町を一望出来る。
運転手は運転に集中してね。
気仙沼[けせんぬま]市街と繋がっていない(はず)ので物資輸送経路として機能するかどうかは微妙なところ。

陸前高田[りくぜんたかた]市内 (地元民は[たかだ]と発音)
 

左はやや引き目の画像。
もはや解読不可能、すべてが流され駅も線路もわからず野球場痕がわかる程度、向かいにはコメリがあったような…?
高田高校第2グラウンドに『SOS』の文字が見える。
北西にあるのは高田第一中学校、坂を登った先にあるので被害はないが、市街からここへ徒歩で避難するのはお年寄りにはきつい距離かもしれない。
南にあるのは市役所か?
北へと向かう340号線は住田[すみた]町を通る107号線と合流。
45号線が完全に寸断された為、大船渡から陸前高田市に向かう場合は遠回りが必要、他の道はまず通らない。

気仙[けせん]町。 (気仙沼市ではない)


高校の友達の実家が中学校側にあり、家もなくあまりにも痛ましくて電話出来ずにいる。
気仙沼市に向かう国道とは結構な高低差がある。




なごみたい。

憤りを感じること。

2011年03月17日 | 東北地方太平洋沖地震
東北の冬はまだ寒い。
エアコンのみで暖をとる家庭は少ないと思う。
部屋を暖めるためには石油ストーブがメインとなり、寒冷地に住む者にとっては当然のことだと思う。
万が一、停電になった時でも寒い思いをしなくて済むのも理由のひとつである。
そして歩けばすぐにコンビニやスーパーがない地域にとって、車はなくてはならない物だ。

救援物資は当然ながら輸送車による輸送がメインとなる。
現地に入るのは難しい被災地もあるので、そこからは自衛隊との連携による運び方となり、さらに仕分けを行い避難所へと届けられる。
当然のことながら、車を走らせるのにはガソリンが必要だ。
今、そのガソリンを運ぶ車のガソリンですら不足の事態なのである。
募金に協力する行為はいいと思うし、ありがたいことだと思うのだが、震災後の買占め行為や給油する為に列を成す車の群れに矛盾を感じてしまう。
中には募金をした方もいるだろう。
しかし表では被災者や被災地を心配しながら、ガソリンがなくなりそうだからと、我先と給油へ向かうのである。

募金だけをすれば被災者のためになったと思うのは、大きな間違いなのではないだろうか。
買占めが間接的に被災者を苦しめている行為であるのに気付いている人はどれだけいるのだろうか。

岩手県の内陸方面から、被災地のために残り少ないガソリンで石油を運びに来た方がいた。
無料で提供されたそうだ。
被災者の気持ちが解るのは、今そこにいる地元の人だけなのかもしれない。