家族で岩手県陸前高田市に出掛けたり、一ノ関市や宮城県気仙沼市・仙台市に行く車の中で母は時々こう言う。
「この辺(陸前高田市)は日当たりもいいし、買い物も便利でいいねぇ。」
私たちが住むのは隣の市にある大船渡市の、一番奥にある住田町に近い地域だ。
冬になれば午後2時になる前に陽が陰り、市街地から家へと車を走らせるとみぞれだった空が雪に変わり、家に着く頃には積雪数センチという事も珍しくない。
バスは2時間に1本がいいところで、これといった娯楽施設も商業施設もない、車がないと生活にならないような場所だった。
母はいつも買い物に不便だ、日あたりが悪い、と言っていた。
だから陸前高田市はいいな、と言うのだった。
しかしその後には必ずこう言った。
「でも津波が怖いからねぇ。」
2011年(平成23年)3月11日14時46分。
東日本大地震が起こった時間。
地震から間もなくして津波第1波が沿岸に到達、地震発生から約20分後に第2波が街を襲う。
陸前高田市では主に高田高校、高田第一中学校・小学校、市民体育管や市民会館を災害避難所として指定していた。
地震災害の避難所にはなるが、内陸に向かって緩やかな傾斜を成すこの土地にとって津波災害の避難所として成立しないのが体育館や会館だ。
チリ地震津波を経験にしているのか、市内を走る大船渡線より内陸側には津波は来ない、というのがこの市の通説らしい。
その通説を知らない人もいるだろうが、その2つの避難所に逃げるか中学校や高校の第2グラウンドに避難するかで大きく分かれている。
人々は『避難所』と呼ばれている体育館や会館に避難する。
避難場所に学校を選んだところで助かる補償もなかったが、避難所と言われる場所に逃げれば助かるという思いがそこにもあったのだろう。
仙台平野が広がる仙台市の仙台東有料道路は防波堤代わりになればと高い位置に工事されたが、90年以上も前からある大船渡線は防波堤にすらならず、体育館と会館それぞれの窓を打ち破り壁を打ち倒し避難した人を飲み込んだ。
地震の規模から不安になった人もいるだろう。
ここまで来れば大丈夫だろう。
津波は人々の不安と脆弱な期待などお構いなしに、スーパーの屋上に逃げた人達に見送られながらさらに内陸へと進んでいった。
いつも避難警報が出ても何も被害はないから、避難しなくて大丈夫。
そう思う人がいたのも間違いないと思う。
「逃げて逃げて!早く!!」と叫ぶ消防隊員が撮った映像には、『背後に津波が迫っているのに歩いて』いる人がいるのである。
大船渡市内で撮られた映像でも、坂道を昇ろうとしている津波の側でその場をなかなか動こうとしない人や、事態を飲み込めて老人の手を引きながら動かない人達に避難を呼びかける女性の姿があった。
報道でしばし『防災意識の高い街』と紹介されていたが、映像を見る限り果たして本当にそうであろうか?
地震発生から街を飲み込まんとする第2波到達までの時間は約20分。
約3分半ほど揺れ、家族と「大丈夫か?」「大きかったね。」という会話を交わした市民に与えられた避難時間は15分もなかった。
3つの学校は海岸線から直線で約2キロの距離のところにある。
市街からでも1キロ以上はある。
平時に時間を競うならともかく、混乱した街と人の中で1キロを15分内で徒歩で避難所にたどり着けるのは困難だろう。
子供やお年寄りの手を引いて足早に歩けるだろうか。
段差のない道を選んで車椅子を押せるだろうか。
寝たきりの方を車に乗せ、混んでいない道を探してそこにたどり着けるだろうか。
貴重品や思い出の品だけでも、とカバンに詰めてから避難は果たして間に合うのだろうか。
若者は仕事先にいて、家に残されたお年寄りや子供だけで正しい判断は出来るのだろうか。
辺りには避難出来そうなコンクリート造の建物は極めて少なかった。
あるいは目の前にあったとしても、人はおそらく避難所へと向かったかもしれない。
余震の恐怖と家族の安否の不安に苛まれた市民が翌朝目にしたのは、全てを失った街の姿だった。
上空をヘリが飛ぶ景色は非日常的で、さらに現実感を喪失させたのは壁に穴が開いた鉄骨造と窓ガラスのないコンクリート造の建物しかない街。
壊滅。
甚大な被害。
廃墟。
そう形容された。
松原海岸の波は比較的穏やかで、潮の香りのする風が松林を取り囲む。
中学の時に野球部の応援で行った市営球場で、涙を流した事もあった。
美味しい和食屋があるから、と車で30分かけて家族で夕食に行った。
帰省の時、トイレだけに何度か寄ったスーパー。
初めて見る全国展開しているファーストフード店が話の話題になるほどのド田舎。
気仙沼の高校に行く時に毎日乗った電車は、線路に枯葉が積もっているという理由だけで徐行運転をする。
何もないところだけど、あの街が好きだったことに気付く。
陸前高田市民じゃないけど。
母が小学生の時、チリ地震津波が発生した。
その思いがあるから、津波は怖い、と言っていたのだ。
今回の津波で、もう住みたくないと言う人と、ここでしか住めない、という人がいた。
正しい応えなんかどこにもないのだろう。
チリ地震津波から復興し、今再び三陸は試されている。
救助された直後のインタビューに笑顔で「また再建しましょう。」と言ったおじいさんが動画サイトで話題になった。
政治も経済も状況もゴタゴタな今、チリ地震津波のようにまたあの景色を甦らせることは出来るのだろうか。
津波に唯一耐えた、松原海岸にある松林の松の木。
とりあえず、小沢一郎出て来い。