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愚の骨頂BLOG

なげけるか いかれるか はたもだせるかきけはてしなき わだつみのこえ

父親の話から推測するに

2011年03月16日 | 東北地方太平洋沖地震


浜磯街道とあるR45より西にある親戚(母の妹)の家は被害なし。

母の実家となる家は床上浸水とは言っていたが、車庫を除いて家自体は700ミリほど高い位置に建てているため、それからさらに床高をGLから500ほどの高さに設定していたとすると、周辺の家では母の身長(160センチ)ほどまでの高さだったというから、実家の方はまだ被害が少ない様子。
本家の方はもう住めない状態だとか。

地震もおさまったし、さぁお茶でも飲みましょうか…という時には床下だったとか。
まさかここまで来るとは誰も思っていなかっただろうし、そんな過去もないし、お茶でも…となる気持ちもわからなくもない。
県道と国道のちょうど真ん中あたりにある家だから、周辺の騒ぎにも気付かなかったのだろう。
となると、2階に避難したものだと思われる。

父親が見たという流される人の家族は今も、彼を探しているのだろうか。

父親からの現場報告

2011年03月16日 | 東北地方太平洋沖地震
15日の夜、父親の携帯から電話がきた。

地震発生時、父親は港と近いところにある某建築資材会社にいた。
地震発生、津波警報が響いたあと車での避難はせず、背後に迫る津波から逃げるために小高い位置にある、おそらくは三陸鉄道か開発鉄道だと思われる線路によじ登った。
目の前を会社のトラック、社員の自家用車、もちろん自分の車がおもちゃのように流されていく。
津波にのまれ、「助けてくれー!」と叫ぶヤ○ト運輸のドライバーを父親はただ見送るしか出来なかったという。
会社の同僚達も巻き込まれた。
壮絶な光景は目に焼き付き、耳を離れなかった。
流れる家屋、車、そして人、叫ぶ声。

その日父親は一関への資材配達を終え、会社に戻ったのは午後1時半。
あと数時間遅かったら、陸前高田市で津波の直接被害に遭っていたかもしれない。
その頃、母親は父親についてを口にしなかった。
心配していなかったからではなく、安否を口にするのは祖母の不安を煽るだけでしかなかったからだ。

波が引いた頃だろうか、父親はそのままの足で津波の被害がなかった猪川町にある親戚の家まで歩き、車を借りて実家へとたどり着いたのだった。

私や兄に安否を知らせたくても出来ない。
津波警報も解除された時、父親達は盛町にある母親の実家へ出かける。
母親はいくつかの死体を目にした。
かつて勤めていた会社の塀にはあるはずもない車。
横たわるバス。
おびただしい数の材木。
地獄だ、と母親は言った。
そこにある現実はテレビで放送している程度じゃない、と言った。
家は全くの無事だったものの、水道が使えない母親の妹の家に身を寄せる親戚の面々。

電気が使えるようになり、お風呂もようやく入れるようになった時、母親は親戚分の洗濯を受け入れている。
避難所におにぎりを届けると、子供達は「美味しい」と笑った。
中には1つを3人で分けあう子供もいたらしい。
コンビニの商品を買い占める人がたくさんいて、そこの棚には何もない都内、被災した子供達の方がしっかりとこの現実を受け止めているように感じた。

テレビで放送しているのはほんの一部なのだ。

父親と母親は全国放送の天気予報で大船渡やってる、と笑って話してくれた。
何もなくなった今、些細なことでも笑顔に変えないと心が折れそうな気がした。

雪から守る屋根があって、風から守る壁があって、暗くなったら電気がついて、温かいこたつ、ストーブやお風呂があって、温かい食事がある。
こんな当たり前のことが幸せだと噛み締めているに違いない。

だが。
火事場泥棒には気を付けろ、と念を押した。
惨劇の後には隠れた美談も出てくるとは思うが、火事場泥棒がいるのも現実なのだ。

アグネス・チャンだけがおかしい

2011年03月13日 | 東北地方太平洋沖地震
パナソニック 3億+ラジオ1万台+懐中電灯1万個+乾電池50万個(充電済みエネループ)
トヨタ自動車 3億
キヤノン 3億
日本郵政グループ 3億
台湾 2000万+2億8000万
三菱東京UFJ銀行 1億
三井住友銀行 1億
みずほフィナンシャルグループ 1億
シティバンク銀行 1億
野村證券 1億
大和証券 1億
ジャスティン・ビーバー 1億
中国赤十字会 1200万  
ヤンキース 820万
カンダハル 400万
ホリエモン 100万
プラダハン・ビカス(ネパールカレー屋、大好き日本店長) 10万円
アグネス・チャン 折り鶴 ←←←はい?




ビカスありがとう、いつかカレーを食べに行くよ!

見慣れた風景が消えた

2011年03月12日 | 東北地方太平洋沖地震
1人、東京から一ノ関まで新幹線に乗り、さらにバスに乗って気仙沼抜けて陸前高田市の見慣れた風景が見えると、「帰ってきたなぁ」という気分になる。

キャピタルホテルだけがいつまで経っても街並みに馴染んでいないような気がして、そんな思いを乗せて海沿いの道を大船渡へとバスは走る。

末崎町の国道45号線の真下には深い青の海が見えて、遠くには養殖いかだが見えて、浮きがたくさん海を漂い、その向こうには小野田セメントの煙突から排煙が立ち上る。

いつも見ていた当たり前のはずだった風景が消えた。

津波が街を飲み込んだ。

父親と行った事がある見覚えのあるパチンコ屋の看板がゴミになって、街を破壊する一部になる。

テレビで放送しているその光景を何度も観た。

目をそらしてはいけない、と思った。

例えばあの中に友達や親戚、彼らの住まいが紛れていたとしても、絶対にあれを忘れまいと思った。

津波なんて実家には関係ないから大丈夫、そう思っていた。

津波が飲み込んだのは生まれた街の見慣れた風景だ。

今はそれがない。

今度の帰省は「帰ってきたなぁ」という気持ちになれるだろうか。

どのくらい復興を遂げているのかのただ様子を伺うだけの、傍観者になるのではないだろうかと。

みんな元気です、と近い日に書けることを望まずにはいられない。
家を失っても人間には立ち上がる気持ちと気力がある限り、あの風景が再び戻ってくることを祈らずにはいられない。

ぐぬぬぬぬぬぬ…

2011年03月12日 | 東北地方太平洋沖地震
親戚の家まで津波が来たらしい。
@岩手県大船渡市

JRは動かないし事務所に一泊と決めた時、都内に住む従姉から電話がきた。
従姉の弟が会社の屋上に避難、その周りに津波がぐるぐると…、というのをTVで観たらしい。
実家には電話は繋がらないし、固定電話のある事務所からかけてみてくれないか、という電話だった。
時間が経ちすぎて、回線はパンク状態でダメだった。

災害伝言ダイヤルとは言うものの、いざとなったら使えない。
電波混み混みで停電になってしまってはケータイなんて使えない。
公衆電話も歩けばすぐに見つかるってなもんじゃない田舎。

地震発生直後に実家に電話。
家の方は無事なようだけど、家にいるのは母親と祖母のみ。
県内を走りまわる父親は…いずこ?

ただいま12日深夜1時半。
固定電話がツーツー言うだけ。
それは仕方ない。
NTTですらどうなったか怪しいものだから。

両親のケータイが「電源が入っていないため」のアナウンスに切り替わった。
きっと電源が切れただけだ。
停電で充電出来ないだけだ。
きっとそうだ。

あるいはやっぱり覚悟しなければならないのかもしれない。