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「2年前から年賀状が届かなくなりました」小室圭さんと出逢って変わられた眞子さま《8つの証言》

2020-12-02 16:24:16 | 日記

下記の記事は文春オンラインからの借用(コピー)です

「結婚することを認めるということです。本人たちが本当にそういう気持ちであれば、親としてはそれを尊重するべきものだというふうに考えています」
 11月30日、55歳の誕生日をお迎えになった秋篠宮さま。その記者会見の席で飛び出したのは、眞子さまへの“結婚容認”発言だった。
 眞子さまが小室圭さんとのご結婚を「自分たちの心を大切に守りながら生きていくために必要」だとする“お気持ち”を文書で同月13日に発表した直後だけに、父・秋篠宮さまの会見での発言が注目されていた。秋篠宮さまの誕生日に公開されたご一家の写真。眞子さまの“お気持ち”が発表された翌日、11月14日に撮影された 
 宮内庁担当記者が、会見の様子を語る。
「皇嗣として初めて臨まれた会見でしたが、手元のペーパーなどをご覧になることもなく、自分で言葉を選ばれながら回答するいつも通りのスタイルでした。眞子さまの結婚を認められる発言をされたときも、淡々とした表情のまま。ただ、記者から小室さんをめぐる金銭トラブルについて質問が出ると、『結婚と婚約は違います』という、今回の会見で最も意味深な言葉が飛び出しました」
「秋篠宮さまは容認されたと言えるのか?」
 結婚を認めるが婚約は別問題――矛盾しているようなこの発言の真意は一体どこにあるのか。秋篠宮家に近い関係者は、次のように語る。
「結婚の自由は憲法で保障されています。皇族というお立場は誰よりも憲法に則って行動しなくてはいけません。ですから、結婚自体を認めるしかない。しかし、皇族としての婚約、つまり『納采の儀』は行えないという意味でしょう。秋篠宮さまは今回の会見でも、小室さんの借金問題について、改めて『きちんと話すということは,私は大事なことだと思っています』と述べられている。結局のところ、秋篠宮さまは、まだお2人のご結婚を容認されていないとも言えるのです」
 そんな厳しい結婚への道のりが改めて浮き彫りになる中で、「お互いこそが幸せな時も不幸せな時も寄り添い合えるかけがえのない存在」と言い切って、小室さんとのご結婚への歩みを進める眞子さま。その“芯の強さ”はどのように身につけられたものなのだろうか。
幼少期からお立場を自覚“ウミヘビ事件”
 眞子さまといえば、上皇上皇后両陛下にとっての初孫として常に注目を浴びる存在だった。ダンスなど活発な姿が報じられてきた妹の佳子さまに比べて、大人しい印象を持たれることも多い。
 眞子さまのご誕生時から成長を見守ってきたベテランの宮内記者は、眞子さまのご性格について、次のように語る。
「温和で優しい表情をお見せになる眞子さまですから柔らかな印象が強いかもしれませんが、とても芯の強いしっかりとした女性です。長女気質ですね。
 私が一番印象に残っているのが、眞子さまがまだ小学校4、5年生の頃、ご一家のご静養先を取材したときのことです。私たち記者を前にして、3歳年下の佳子さまは紀子さまの後ろに隠れてしまう一方で、眞子さまは臆せず前に出て、カメラに向けてしっかりと手を振られていました。その堂々としたお姿に、幼いながらに長女として、さらには皇族としてのご自身のお立場を理解し、強く認識していると感じました。1997年の秋篠宮さまの誕生日に公開されたご
 よくよく考えてみれば、眞子さまは、2歳の頃にもご静養先に集まった報道陣や一般の方々の前でお辞儀の仕草を見せていたし、3歳の頃には葉山の海辺で『ウミヘビがいるよね、おとうさま!』と、秋篠宮さまを呼ぶ微笑ましいシーンも有名ですよね。それぞれ小さい頃から教育が行き届いていると感心しましたが、それだけ両親の期待も高かったし、しっかりと向き合われてお育てになったのだと思います」
初公務で手なずけた「えりか号」
 前出の宮内庁担当記者は、眞子さまが初めて単独で臨まれた2008年4月のご公務を思い出すという。2008年4月、初の単独公務として、野間馬「えりか号」の贈呈式に出席された眞子さま
「日本古来の在来種である貴重な野間馬『えりか号』が、上野動物園に贈られ、その式典に眞子さまが出席されたのです。まだ16歳で高校2年生になったばかりで『緊張されているだろうな』と思ったのですが、初めての単独ご公務とはとても思えない落ち着きぶりでした。式典の後も、興奮して激しく頭をふる『えりか号』に驚くことなく、優しく撫でられていたのが印象的です」
体育会系だった眞子さまの高校時代
 お一人でご公務も務められるようになった眞子さま。その傍らで、学習院女子高等科時代には、スキー部で活動されていたが、同部は完全な“体育会系”だったという。同校と交流のあった都内にある高校の元スキー部員が語る。2007年4月、学習院女子高等科に入学された眞子さま。佳子さまも中等科に入学された 
「学習院女子高等科のスキー部は、都内有数の強豪校です。眞子さまも部活の中でしっかり鍛えられたのでしょう。東京都の高校生のスキー部は、東京都の高体連というのに所属しており、高体連主催の大会がシーズンに2~3回ありました。私も高円宮家の三女、絢子さま(現・守谷絢子さん)と同じ宿舎に割り振られたことがありますが、他校の先輩に挨拶をしていたりと特別扱いされていませんでした。眞子さまと同級生の部員からは、学習院のスキー部の中でも特に礼儀正しく、後輩の面倒をよく見ていたと聞いています」
自ら決断「ICU進学」の衝撃
 しっかり者の長女として国民からの期待を一身に背負ってきた眞子さま。周囲の期待に応えるだけでなく、自身で決めた方向性を強く意識するようになった節目は、大学進学時の進路選択にあると前出の秋篠宮家に近い関係者は語る。
「眞子さまは、真面目で公務にもしっかりと取り組み、人任せにしない。そして自分の意思表示をきちんとできる。『自分のことは自分で決めたい』ご性格なのです。その考え方が最初に形になったのが、国際基督教大学(ICU)への進学を、眞子さま自らがお決めになったことです。
 愛子さまのように学習院女子高等科からそのまま学習院大学に進学すれば、友人もたくさんいるし、警備体制も整っています。眞子さまは芸術分野にご関心があってICUを選んだとされますが、学習院でも学べないわけでない。それでも、皇族として海外の人とも接する機会が多いからと、国際色の強いICUをお選びになったのです。そもそも、秋篠宮家の教育方針は『自主性を重んじる』ことを大切にしている。元来の眞子さまのご性格に、お家の教育方針が上乗せされて、さらに自主性が顕在化していったのだと思います」
歌会始「月の兎」事件
 そして、「自分のことは自分で決めたい」という眞子さまの自主性が最も伝わる出来事が、現在進行中の小室圭さんとのご結婚へのプロセスとなるという。
「自分の思いを貫き通したいという眞子さまのお気持ちが優先されて話は進められましたが、小室家の金銭トラブルという予期せぬ問題から、話がこじれてしまいました」
 2018年2月にご結婚問題が延期された後も、眞子さまのご活動の端々に、強いお気持ちが現れているとの指摘もある。今年1月の「歌会始の儀」のこと。お題は『望』だったが、眞子さまは次の歌を詠んだ。
〈望月に月の兎が棲まふかと思ふ心を持ちつぎゆかな〉
「この歌には、『月にはウサギが棲んでいて餅つきをしているという、そんな伝承話を信じる純真さを持ち続けていたい』という思いが込められているとされます。ただ、婚約内定会見では小室さんが眞子さまを月に例えていましたから、小室さんを思った歌なのだろうと考えざるを得ませんでした。歌会始では、ここ数年は国内外のご公務で出会った方々との思い出を詠まれていましたから、大きな心境の変化を感じました」(皇室ジャーナリスト)
現実となった「時計の針」コラムの予言
 さらに9月には、東京大学総合研究博物館の特任研究員として勤務されている、東京・丸の内の博物館「インターメディアテク」のサイトに書かれたコラムも注目を浴びることになった。小室圭さんとの会見 
「眞子さまの『休館日の小旅行』と題されたコラムには、電気が消えた真っ暗なギャラリーを歩かれたときの様子が綴られ、〈次はどこへ行こうかと思った瞬間に電気が点いた。わずか十数分の小旅行は終了し、見慣れた風景が戻ってきた。それはまるで時計の針が再び動き出したかのような感覚〉だったと書かれている。それまで執筆されたコラムは展示物の紹介などがほとんどだったので、『眞子さまも新たなステージに向けて“針が再び動き出した”ことを表現したかったのでは』と推測する人もいた。実際に、その2カ月後には“お気持ち”を発表されることになりました」(同前)
届かない直筆の「年賀状」
 眞子さまの変化はご公務の分野だけではないと明かすのは、学習院関係者だ。
「2年前からでしょうか、個人的にやり取りをしていた年賀状が突然届かなくなったのです。周りでも同様に来なくなった人がいました。いつも丁寧に手書きで送ってくださるので、その字ですぐに眞子さまからの年賀状だと分かる。毎年とても楽しみにしていたのですが、ご結婚問題もあってお忙しいのだと思います。学習院にはいくつかの同窓会組織がありますが、そうしたところにも顔を出されることもないので寂しいですね」
3年前まで父娘で海外私的旅行
 また心配されるのは、秋篠宮さまと眞子さまの親子関係の変化だ。前出の秋篠宮家に近い関係者が語る。
「眞子さまの関心分野は、秋篠宮さまと非常に似ています。生物科学や植物、ありとあらゆる森羅万象にご興味がありますし、過去には秋篠宮さまの国外研究に私的なご旅行として、マダガスカル(2007年)、ラオス(2010年)、さらに2017年にもハンガリーに同行されています。20代で父親と2人で海外に行くくらいですから、それだけ親子関係が良好だったのです。他にも、殿下が東京大学で開く研究会にも眞子さまはたびたび参加されていた。研究者としても父親としても、殿下を大変尊敬されているのだと感じていました。
 しかし、昨年の秋篠宮さまの54歳のお誕生日会見で、眞子さまのことに質問が及んで、『長女との話し合いについては、結婚のことについては話をする機会はありません』と回答されたように、ご婚約の延期以降、意思疎通は決してうまくいっていない。今年の誕生日会見でご結婚をお認めになるような発言をされたのも、眞子さまの“強さ”をよくご存じの秋篠宮さまに、これ以上強く出るのはさらに事を複雑にするだけという思いがあったからではないでしょうか」
慌ただしく動き出した眞子さまの周辺
 11月23日には、女性皇族が結婚した後に「皇女」の呼称を贈り、結婚後もご公務を行えるようにする新制度の創設を政府が検討していることが明らかになった。この「皇女」案は、「小室圭さんの存在によって、女性宮家創設となると国民からの反発が予想されるからこそ浮上してきた」(前出・皇室ジャーナリスト)との見方もある。
 この秋、一気に動き始めた眞子さまの周辺。秘められたプリンセスの心の内が、国民に祝福される日はやってくるのだろうか


幸せな「さいご」にどう寄り添うか~終末期を支える介護のすがた~

2020-12-02 09:08:09 | 日記

下記の記事はLIMOからの借用(コピー)です

みなさんは、「終末期の介護」と聞くとどんなイメージを持ちますか?
「死が近づいている人に関わるのは怖い…」こんな思いを抱いてしまう人もいるのではないでしょうか。
しかし、実際に医療や介護の現場、在宅介護をおこなう家族は、「どうしたら素敵な最期を迎えてもらえるのか」「どう対応したら苦痛が和らぐか」こんな風に相手のことを大切に思いながら、最期の時をともに過ごしているのです。
そこで本記事では、誰にでも関わる可能性がある「終末期の介護」に着目し、症状の特徴や介護方法、大切にしたいことなどを紹介していきます。
いま、「終末期の介護」に悩んでいる人、マイナスなイメージを持っている人はぜひ目を通してみてくださいね。
「終末期」とは
終末期(ターミナル期)とは、「医療の手段を用いても治療効果が期待できず、積極的治療がむしろ不適切と考えられる状態で、生命の予後が6か月以内と考えられる段階」のことを指します。
予後が限定されたとはいえ、終末期は「死」の準備をすることではありません。
今の状態(ステージ)の変化に合わせて、その人に残された日々をどのように過ごしてもらうのか、むしろ「生」を創造することなのです。
終末期ケア(ターミナルケア・看取りケア)とは
その人の思いに寄り添って、できるだけ心地よく生きられるように支える関わりを「終末期ケア(ターミナルケア・看取りケア)」と表現します。
残存能力、その人の望む生活、関心、価値観などを尊重しながら、やり残したことへの援助や苦痛を最小限にする工夫をしていきます。
終末期ケアは、マイナスなイメージを持たれがちですが、「生きる」を支えるケアといえるでしょう。
予後を「どこで」過ごすか
病院や施設
病院には、24時間医師や看護師がいるため、急変したときなどすぐに対応してもらえる安心感があります。
施設の場合は、医師が常駐していないことが多いため、看護師が医療的ケアのリーダーとなります。
介護職は、利用者の一番近くで生活を支援する中心となり、本人を支えていきます。
自宅
家族の介護だけでなく、訪問看護などのサービスを組み合わせ、本人の状態に合わせたサポートをしていきます。在宅の場合、病院や施設では得られない安らぎをもたらすことができるのも、大きな特徴です。
家そのものの雰囲気やにおい・生活音などが、懐かしさや癒しとなり、あわせて家族の介護を受けられることが、つらい気持ちを緩和するでしょう。
「終末期」に起こる、さまざまな変化
身体的な変化
症状の進み方は、疾病や認知症の度合いによってさまざまです。
動かすことが少ない身体の各所は、機能が低下したり、維持していた能力を奪ったりします。発熱や疼痛、倦怠感、呼吸苦、浮腫などが伴い、さらなる全身状態の悪化や生活の質の低下を招く場合も多いです。
認知症の場合、苦痛に気持ちが集中するためか、BPSD(※)が目立たなくなることがあります。
理解力や意思表示力は低下しているので、関わる介護者は、理解できる言葉やジェスチャーを交えるなどの工夫が必要です。
(※)BPSD:認知症の人の、心理や行動に表れる症状のこと。(例:暴言、暴力や幻覚、徘徊)
心理的な変化
元気だった頃のように、五感から入る刺激に対して、自分らしく反応することが困難になります。
長い間寝たきりだった場合は、意識や意欲の低下、思考力が退行していくこともあります。また、死の予感を抱いていることも多いです。
認知症の場合、「何もわからないから怖くない、幸せだろう」と考える人もいるかもしれません。しかし実際、本人は「何かが起こっている」「今までと違う」など、本能的に変化に気づいているといわれています。
行動の変化
生活への参加が減り、不活発な日が増えます。
行動は、その人の意思がかたちとして表現されるものです。何十年も自分の好みに従って行動してきた「自分流」をおこなえないことは、「自分らしさ」を失うということなのです。
変化に寄り添う介護とは
身体的な変化に対して
介護の量が圧倒的に増え、2人介護や3人介護の必要性が生じます。本人の変化に並行したケアを行うことで、少しでも苦痛を和らげることが大切です(緩和ケア)。
食欲が低下し摂取量が減っているときは、本人の食べたいものや、嗜好に合う飲み物を優先し、食材や味付け、形態などを工夫します。
また、食べたいときに自由に食事ができるようにする柔軟さも必要です。
発熱時には、こまめなクーリングや体位の工夫、室温調整、冷たい飲み物などを早めに準備します。
会話が少なくなると唾液の分泌が減り、口腔の乾燥などのもとになるため、口腔ケアは食事に関係なくおこなわなくてはなりません。
心理的な変化に対して
その人と出会って、身近に暮らし互いが認め合い、受け入れ合って過ごした関係は、終末期にこそ強く活かされます。その人の性格や願い、思いを改めて再確認し、いままで分かち合えたことなどを今のケアに活かしていきましょう。
行動の変化に対して
その人が元気だった頃に習慣としていた髪型や服装、お気に入りだったこと、手元から離さず大事にしていた物、聴いていた音楽などを、生活のなかに再現し、五感を刺激します。
それまでの生活と切り離さない配慮が大切です。
介護する側にとって「たいせつな」こととは
身体的な変化に対して
身体に触れることが多くなる終末期は、その人にとって最も少ない時間、方法、量を考慮し、無理のない介護をします。
身体介護は一つ一つの場面を通して、身体と心に慰めや励ましを伝えるチャンスです。丁寧な言葉と笑顔、ゆっくりとした動作、優しいまなざしで接しましょう。
介護量が多くなると、介護者が中心となって世話に追われている錯覚に陥りがちですが、あくまで、「その人」が中心であることを忘れてはいけません。
心理的な変化に対して
短い時間でも部屋を訪ねて声をかける、ケアが終わった後もすぐに居室から去らず、2、3分でも会話をする、手や足のマッサージをする、丁寧に髪をとかすなど、気持ちを伝える機会を意図的に設けていきます。
「暮らしを共にする人」として、寄り添うことが、今を分かち合うことになるからです。
残りの時間は減っていきますが、嘆くのではなく、人が生きる真理(きまり)として受け止めましょう。
行動の変化に対して
終末期は、医療ではなく「人」が付き添って、「人」の支えで、その人を幸せにする時期です。そばに気を払ってくれる人がいると、人の脳は十分に反応することがわかっています。
かぼちゃの煮物、花の香り、歌、子どものときに遊んだ紙風船、家族と旅行した時の写真など、その人の好みや喜び、心地よさになるものを居室に持ち込んで、一緒に楽しみ合いましょう。
さいごに
「終末期」の介護は、プロであっても戸惑いや不安があるものです。
最期のときをともに過ごすというのは、とても重要な意味を持つため、身体や心理・行動などのさまざまな変化を知っておくことが大切になります。
いま、「終末期の介護」に携わっている人だけでなく、今後携わる可能性がある人にも、介護の仕方や関わり方を知って頂く機会になればと思います。