清らかな水や森に恵まれた近くのスジャータ村ではなく、ここを修行の場として選んだのは、この荒涼とした風景が、当時の成道前の釈尊の心象風景そのものであったからかもしれません。

山頂に続く尾根筋
全身の筋肉をフル稼働して上へ、上へ、とよじ登ること小一時間、目の前の壁が消え、突如としてぱーっと広々とした地平線が開けたところが前正覚山の山頂でした。
眼下に広がるビハールの大地。収穫の終わった麦畑。点在するマンゴーの林。村落の小さな家々から立ち上る煙。小道を行くゴマ粒のような人の姿。

山頂からの風景。遠くにナイランジャナー河

仏陀は何を思ったのだろう・・・
2,600年前と変わらぬであろう光景が、今、目の前に広がっています。
このおだやかな景色を眺めながら、骨と皮ばかりにやつれた仏陀がいったい何を感じ、考えておられたのか。凡人の私には到底推し量ることはできません。ただ、私自身がこのときこの聖地に立って感じたのは、紛れもなく「青春の心」でした。数千年間、変わることなく繰り返されてきた人々の原始的な営みを遥かに見下ろしたとき、心に溢れて止まなかった思いは、「今は小さくとも、いつか必ず大なるものたらん」とする情熱であり、意欲であり、意志の力でした。古臭い言葉かもしれませんが、青雲の志といってもよいでしょう。
- 穏やかな村の風景

2600年前と変わらぬ営み

いつか大なるものとならん
降り注ぐ光と静寂を何ひとつ遮るもののない磁場にひとり佇んで、2,600年の時空を超えた気がした不思議なひとときでした。
、http://mission.kofuku-no-kagaku.or.jp/archives/3891
公式ページザ、ミッションより
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