戦後直ぐに女子プロ野球リーグがあった
http://mamechishiki.aquaorbis.net/mamechishiki/0328-jyoshi-yakyu/ 一部転載
日本にも、女子プロ野球があったのをご存知でしょうか?
それは、戦後間もない1950年から1951年のたった2年間でしたが、プロ野球リーグを開催していました。
1952年からは、ノンプロつまり社会人野球として1971年までの19年間、女子野球リーグを開催していました。
戦後は1947年8月にオール横浜女子野球大会で文寿堂、ビクター横浜、オハイオ靴店、ビクター戸塚、日産自動車、横浜女子商業学校のアマ6球団が参加して行われた。岡田源三郎(金鯱)と山本栄一郎(巨人)が指導した。
1948年7月、非公式ながら日本初の女子プロ野球球団と言われる東京ブルーバードが結成される。
日本女子野球連盟は1950年3月28日に結成してから1951年の2年間にわたって女子によるプロ野球リーグを運営した団体であった。
小泉吾郎は日本女子野球の父であった。https://ameblo.jp/kiryu14/entry-12339553352.html
女子野球のチームは、1947年から始まる。
それ以前にもあったかも知れませんが、本格的な興業目的でのチームは、1947年からということだろう。
文寿堂、ビクター横浜、オハイオ靴店、ビクター戸塚、日産自動車、横浜女子商業学校の6チームが、
オール横浜女子野球大会を開催したのが、女子野球興業の始まりですが、チームは全てアマチュア。
観客動員数は、2万人という盛況振りだった。
この大会を機に、興業としての女子野球熱が上りました。
『メリーゴールド』と『横浜女子商業学校』の選手を集め『東京ブルーバード』を結成し、
これが、非公式ながら日本初の女子プロ野球チームと言われています。
このチームは、約2年で解散し、『メリーゴールド』主体の『ロマンス・ブルーバード』に再編成されました。
『ロマンス・ブルーバード』結成に当たり、一般公募も行われ「野球の腕前もさることながら、
独身で容姿端麗という点も重視した」とされています。
実際にリーグ戦を行う興業となると球団運営は厳しく、チームも出来ては消えの繰り返しでした。
どんな企業が女子野球に名乗りをあげたか紹介しておきます。
『メリーゴールド』:銀座にあった『メリーゴールド』というダンスホールのダンサーたち
『ホーマー』:東京・京橋のホーマー製菓の青井英隆社長(あおい輝彦の父)→富国興業
『パールス』:国際観光→日産自動車
『エーワン・ブリアンツ』:エーワンポマード本舗
『京浜ジャイアンツ』:京浜急行電鉄、京浜百貨店
『わかもとフラビンズ』:わかもと製薬
『レッドソックス』:三共製薬
『バッテリーズ』:岡田乾電池
『ミルクキャラメル』:紅梅製菓
『坂口翁』:坂口翁(製菓メーカー)
『サロンパス』:久光製薬
『白元』:白元
『キンケイ食品』:キンケイ食品
『リコー時計』:リコー時計
『ニッカウヰスキー』:ニッカウヰスキー
トップクラスのスター選手でも月給は7000円程度(年収10万円程度)だったそうです。
(男子プロ野球のトップスターである大下弘の年収が150万円弱、同時期に行われていた女子競輪の年間獲得賞金額が平均20万円前後であり、銀行員の初任給が3000円、あんパンが1個10円、喫茶店のコーヒーが1杯30円だった時代)
(^▽^)/
やんちゃだった母は、ブルーバードに入団、解散後は、三共レッドソックスに移籍し、
ポジションは、捕手(キャッチャー)で、日本各地を遠征したそうです。
母のやんちゃ気質は、少しだけ受け継いだかも・・
ネット上で、ですが・・・
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コメント欄やりとり 参考まで
ー父に聞きましたところ、良く知っていました。ただ、今の様な硬式野球ではなく軟球で、
それにどちらかというと『見世物的要素』が強かったらしくて、あんまり長続きしなかったと言ってました。
・ラジオしかない時代で、2年間だったらしいです。TVが出てきて下火になったようです。
応募者は殺到していたようですが、ブルーバードは容姿と実力も重視したそうです。一発で受かったというのが母の自慢┐( ̄ヘ ̄)┌
ー私が聞いた話では地方に遠征したりすると、地元のスポンサーさんのお酒の席にまで引っ張り出されて、お酌迄させられたとか?
・ブルーバードは実力もあり優勝回数も多く、厳しかったようです。そういう悪いうわさで同じように見られて
心傷つけられいやな思いをした人たちも多かったようです。母も言っていました。
母は、一瓶の睡眠薬を飲み、身の潔白を証明しようとし、吐いてしまったので命拾い。下手すりゃ噂で、私は生まれてこなかったのです。
(生きてなきゃ証明できないと思うのですが)
大体15,16歳くらいの普通の家の娘たちなので・・後から実に多くの色々な団体ができてきて、全部が全部ではないでしょう。
成績がいい生保レディが企業の経営者に体を売るような契約があったとか、そういう噂ってのもありましたね。
そういうときに、人間の悪意って感じますね。いつの時代でも。。
ー噂って、無責任なものですからね。ただ当時は女性だけのプロ野球チームってのが珍しかったからなんでしょう。
失礼しました。
・街頭TVの出現でプロレスに興味は移行したのでしょうね。それも含めて戦後の日本経済を裏で元気づけたという
役割はあったのではないかと思っています。正しく歴史を伝える為に、野球大好きだった
彼女たちの名誉のためにも全体ではないことをお伝えしておきます。
興行ですし地元に挨拶位はあったかもしれませんが・・私もゲスの勘繰りをした時期がありました。
慰安婦問題なども、ほんの一部が全体の事として謝罪を求められたりしている歴史ですので・・
先月か何かTVで当時のブルーバードの花形選手が、まだお元気で地域で野球されているということを
番組で取り上げていました。あまり亡くなったという方はいらっしゃらないので、気持ちがいまだ若々しいのかも。
お父様にお伝えください。
街頭TV 出現
見えるんでしょうかね( ̄Д ̄;;
新刊!「竹村健一の霊言 大逆転の時代 次の30年を語る」
いまこそ、日本の「常識」を
ひっくり返すべき時だ。
〇テレビや新聞の衰退
〇ネット情報社会にあるもの
・
受かれば注目され、町でも目立ったようで、昔、あなたのお母さんはすごかったんだよ。。商店街のおじさんとかに言われ、何のことやらという感じでした。
TVが、まだ無い時代の、行けば会えるスター的な。今でいう、AKBのような存在だったのでは?
高齢の方だと知ってるみたいで。それもキラキラ興奮して話されます。
あまり情報は、残っていないので、人の記憶の中に記録され
それも(´。`;)だんだん居なくなります。
コメントありがとうございます<(_ _*)> 母に伝えておきま~す。
日本女性も、、すごいなぁー
だし、それが、、
お母様も飛雄馬になってたって(^_^)/
わーい_(_^_)_