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コミュ障が0歳児との日常を綴るかもしれない主婦ブログ

(旧タイトル;場面緘黙症と向き合うニート)このブログ、いつまで続けられるのか分かりません。。

甦る記憶

2006-12-09 | 場面緘黙症だった私
罵倒され続けた過去は油を飛ばした服のシミように
薄っすらと、 そしてしっかりと残っていて、
そのシミがなくなることは決してないだろう。

今朝、なにげなくミクシィを徘徊していたら、
昔私をけなしていた人を見つけてしまった。
その人を思い出したら、段々と嫌な過去を
思い出した。 小学5,6年生のカルタの練習で、
私がのろのろとか細い声で(または無言)で
カルタを取ろうとすると、「ホント暗いやつだよな~」
という言葉にぐさっときた。

あの当時は「暗い」という形容は当たり前で
低学年にも存在は知り渡り、ある意味有名
でもあった。

それから10年以上時が過ぎたが、あの当時
私や友達を罵倒し続けた男子生徒や一部の女子は
どんな人生を歩んでいるのだろう。
あの時の行為について、大人になった彼らは
どんな思いを持っているのだろう。

場面緘黙症の私の特徴

2006-08-11 | 場面緘黙症だった私
「場面緘黙症だった私」から読み取った私の特徴。

1.気が弱いが、プライドが高い。
2.神経質である。
3.本当は人に好かれたがっている。
4.「普通の子」を演じようとする。

周りの人から聞いた私の特徴。

1.暗い おとなしい
2.結構細かい
3.結構辛口
4.いつも笑っているか、落ち着いているかに見える
 (素が見えにくい)

場面緘黙症だった私 10

2006-08-11 | 場面緘黙症だった私
ニートになる自分・・・

「もっとやりがいのある仕事がしたい。」
大した社会性、協調性、技術的なスキルもないのに、こういうことを思うようになった。
しかし、目的も見つからず、努力もせず・・・。
丸1年は働かず、職業訓練も行わず、所謂「ニート」になった。
荷が下りたことの反動で、急に何もかもやる気がなくなってしまったのだった。
そんな私ができることといえば、古着屋で洋服を仕入れては、売って、
の繰り返しだった。すずめの涙程の利益も、最終的には1ヶ月の給料
ぐらいにはなっていた。

失業保険もおりたので、お金には不自由はしなかった。
お金がまだある。そうしたことで、より一層働く意欲はそがれていった。
やってみたいような仕事はいくつか浮かび、就職活動もちょこちょこと
再開したが、再就職できたのは2度目の会社を辞めてから1年と数ヶ月
経ってからのことだった。
親にも責められたが、1年以上もよくニートの私を養ってくれたと思う。
本当にふがいない自分。


3度目の正直も・・・

さすがに休職期間も長かったし、これでは普通の会社はまず雇わないだろう。
私自身もニートから急に規則正しい生活に戻るのは楽ではなかった。
そのため、3度目はアルバイト(パート)として勤務したのだった。
といっても、コンビニのレジではなくて、フルタイムで働く内勤業務。
バイトなので、電話応対もしなくていいし、必要最低限の人の名前しか
覚えなくていい。無理に人と仕事以外の会話をしなくてすむ。
とても気が楽な職場だった。現に私のように人付き合いが苦手なような
バイトの人も多かった。
それでもそこを半年で辞めてしまった。

大きな理由は二つある。
第1に異常に汗をかくようになったこと。
第2に孤独を感じることがつらくなってしまったこと。

第1の理由・・・原因は不明なのだが、入社してから、昼食を取った後に
仕事を再開すると、顔から首にかけてダラダラ~ッと汗をかいてしまうのだ。
首からは上だけ熱気で包まれている感じ。それに、通勤の移動中でもブワ~ッ
と汗を多くかいた。真冬でもそうだったのだから、異常と言えるだろう。

第2の理由・・・人付き合いが苦手なら、最低限度のことしか要求されない
ところへ行こう、そう思って、黙々と作業できる職場を望んだ。
しかし、実際には人に相手にされない寂しさが心の奥底から湧き上がってしまった。
(本当になんて私は自己中で神経質なんだろうか。。)

「仕事終わりました、何か他にすることありますか?」
「ここが分からないんですけど?」 
それ以外は自分から話さなかった。

しかし、自分が周りを意識しないで、視野に入れないようにしていると、
自然と、周りからも避けられてしまう。
そのうち上司に「仕事ありますか」と聞いて、「明日やる範囲を紙に書いて
机の上に置いておくから」といって、忘れ去られることが多くなった。

そこで、私なんかいなくたって、代わりはいくらでもいると思った。
辞めてしまおうと。それに出勤の度に出る異常な汗もとても嫌だった。
雇用の延長の話が出たときに、延長はいいですと言って
断って、また辞めてしまった。

それから、また私は数ヶ月間とニートを繰り返している。


(「場面緘黙症だった私」のタイトルは過去形ですが、現在も完治していません。
緘黙症という言葉を知ったのが、このブログを書く前、つい昨日でした。
そのため、過去の私はこうだったんだ という意味を込めて「場面緘黙症だった私」としています。 )


場面緘黙症だった私 9

2006-08-11 | 場面緘黙症だった私
二度目の就職・・・

会社を辞めてから、最初の1ヶ月間は、活動する気力がなかった。
が、職安を利用して、再び会社を何社か回った。
動かないと、どうすることもできなかったから。

会社を辞めて3ヵ月後、運良く正社員で雇ってもらえるところが
見つかり、深く考えずにその会社に再就職した。
そこは、前回とはまったく環境が異った。従業員が10人以下の零細企業
だということ、お昼は食堂は勿論ないので、自由に好きな場所で
取ることができること。
グループでも2,3人と少人数なら、話をすることができると
考えて、少数規模の会社ばかり回ったのだ。

ここでは、同僚、先輩、上司は皆、優しくて、親身になって面倒を
見て下さった。ただし、会社の社長とは私は相性が合わなかったが。
仕事中に私語をし、笑いが止まらないこともあった。(勿論、社長や
お客様がいないとき)本当によく話し相手にもなってもらえたとも思える。

しかし、色々とあって、次第に仕事へのモチベーションが下がってしまう
ようになった。愚痴の元は皆一緒だけど、愚痴から生まれる協調性にも
むなしさを覚えた。

部長二人が突然辞めてしまわれて、どうすることもできずに
同期も辞めるというので、便乗する形で退職した。
(残された先輩や後輩たちには申し訳ないとは思ったけれど・・・。)
まだ勤務して1年しか経っていなかった。



場面緘黙症だった私 8

2006-08-11 | 場面緘黙症だった私
就職活動と最初の「挫折」・・・

大学3年の秋になると就職活動の話が舞い込んできた。
しかし、結局自分が何をしたいのか、どんな職業に就きたいのかも分からず、
分からないまま、あれこれ色んな業種の説明会に足を運んだ。
金融業だったり、IT産業だったり、どこかの会社の事務職とか
数だけにすれば、一般の文系学生と変わらない数の会社を回った。
スケジュール帳にも日程を埋めようと努力した。
しかし、在学中に内定が決まることはなかった。

ようやく私の内定が決まったのは、卒業してから3ヵ月後だった。
それも、派遣社員という雇用形態での勤務だった。
そこで、私は人生で一番最初の挫折感を味わうことになる。
これまでは、付き合いたくない人たちとは関わらなくてもよかったが、
社会に入るとそうはいかない。 上司から、あの人これこれこうして
くれないから、君からも言ってくれないかなとか。
話しにくい人に話さないといけない。それは、社会では当たり前に
できないといけないから、私の我侭だったのだろうが。

それよりも、もっと私を悩ませたのは、職場での同性との人付き合いだった。
お昼を食堂で皆で食べないかと、誘われたものの、 全くしゃべることができない。
とりあえず、グループの女性数人がテレビや、日常での
何気無い話題を話すのを聞いて、相槌だけ打ったりすることに徹した。
そのうち、食事中に手が震えることに気づいて、会食することが苦痛になった。
それでも私はそういう役に徹し続けた。

そんな自分を痛め付けるかのようにわざと睡眠時間をすり減らして出勤した。
段々、職場で一瞬眠ってしまうようなことが増えていった。
そのうち派遣元の耳に入り、ある時派遣元の社員さんに呼び出された。

「あなたは周りとあまりうまくいってないようだ。
 それが円滑な職場関係を悪くしている。」
「職場で居眠りしてるようだが?」

というようなことを言われ、厳重な注意を受けた。
1ヵ月後に、勤務態度の改善が見られなかったらその時は
それ相当の対応にでるとのこと。
私が悪いということは自覚していたつもりだった。

しかし、私は努力しようとしたつもりでも、周囲の判断からすれば、
全く駄目だったのだろう。再び派遣元の社員に呼び止められ、
退職するように言われてしまった。
そして、私はわずか9ヶ月で最初の職場を離れることになった。

大学卒業まではなんとかクリアして、普通に社会の一部になるはずだった私。
普通のことができない自分、という現実を受け止めるのは耐えられなかった。

(この会社を辞めて以降、あれほど苦しんだ唾恐怖も徐々に治まってきました。
会食恐怖もいまはそれほどひどくはありません)

場面緘黙症だった私 7

2006-08-11 | 場面緘黙症だった私
”メンタル系”・・・

大学に入って少しずつ変えていこう、と計画しようと思ったが、
簡単にことが運ぶはずはなかった。
一番親しい友達は、私より友達が多くて、一緒に学内を移動すれば、
必ず、すれ違う人に手を振ったり、挨拶をしていた。
彼女に引け目すら感じてきていた。

そんな時、私は「メンタルへルス」という言葉があることを知った。
たまたま、ネット環境が必須な大学だったので、パソコンに触れることは
しばしばあった。
そこで、同じような悩みを抱えた人たちや、鬱病やパニック障害など
重たい病気や症状を抱えて生きている人がたくさんいることも知った。

必然的に、彼らとネットを介入してコンタクトを取るようになっていた。
授業があっても、さぼっても大丈夫かなと思うようなときには、
学校のパソコン室でチャットにふけっていたことも多かった。
またときには、オフ会に何度か参加して意見交換したりもした。
「メンタルへルス」を知る前から、「内向的」、「消極的」というキーワード
で共通するメル友を探して、密度の濃いメールのやりとりもしたけれど、
「メンタルへルス」を通しての、人とのやりとりは自分に刺激を与えるものが
大きかった。

そこで、自分も唾が異常に溜まるんだけど、なんでだろう?
誰かに問いかけたら、「唾恐怖」だとか、「対人恐怖」では?
という答えが返ってきた。
就職にも差し支えるのは必至で、親に、私はこれこれこうで、
なんだかつらいから、心療内科に行きたいと勇気を出して
発言をした。親や身内、友達にほど、自分が人と違って、
駄目な子と思われるのが、昔から嫌で仕方がなかったけれど、
将来のことを考えたらもっと押しつぶされそうで、ガマンができなかった。

最初に行った心療内科は自分には合わない気がして、一度いったきりだった。
その後、自分で電話帳で調べて、大学から電車で1駅の神経科を見つけて、
通院することにした。病院では、抗不安剤を処方してもらい、
ちょっとした1週間の出来事を話したりした。先生は反論することもなく、
ただ耳を傾けたり、アドバイスをしてくれたりした。
薬を飲んで、唾がストップするということはすぐにはなかったが、
気休め程度にはなってくれた。
「対人恐怖症」と診断されたことで、対人恐怖の○○という
名刺を持って、「メンタルへルス」の仲間に自分をもっと受け入れて欲しく
なっていたのかもしれない。

場面緘黙症だった私 6

2006-08-11 | 場面緘黙症だった私
開放された時間・・・

こんな私でも、大学に進学することができた。
12,3校受けたような気はするが、金銭面では親に
ずいぶんサポートしてもらった。

初めての電車通学。
奨学金からとはいえ、万単位で自由に使えるお金ができた。
時間割も自分で好きなように組み込める。
遅刻しても、親にばれることはない。自由という開放感は
それまでは普通に得られなかった。
もう、誰も私を知っている人がいないんだ、白紙の気分で
挑んだ学校生活。

運良く、隣の学籍番号の子と友達になれた。
彼女がいてくれたから、大学生活前半は、非常に助かった。
一緒に帰ったりすることがこんなに楽しいなんて、と改めて感じた。
唾恐怖はまだまだ続いていたが、それも堪えきれるぐらい
精神的には安定しているかに思えた。

しかし、大学にはいって、自己決定、自己意思のなさ
をありありと痛感させられた。
自由ということは、なんでも自分で決めなくてはならない、
それまで受身で生きてきた私にとっては苦しいものでもあった。
サークル(部活)活動に参加していたのも、実際には顧問に名簿を
勝手に書かれたから参加し始めたからだし、友達も
メンバーの中にいてくれたから、いられた。

教員になるわけでもないのに、父に勧められて、教職の授業を
取ったし(最終的に教育実習まで行ったが、本来の目的でもないので
受け入れ実習校には申し訳なかったなという気持ちが残った。)
親に言われるがままに従って、したくないことを断る意志すらなかった。

場面緘黙症だった私 5

2006-08-11 | 場面緘黙症だった私
唾恐怖と友達付き合いの難しさ・・・

話は飛んで、高校時代。 
成績は中の下だったが、なんとか希望の高校には進学できた。
さすがに、高校生にもなると、からかってくるような人もいず、
内弁慶は影を潜め、単なる大人しい子という状態に変化していった。

高校時代は唾恐怖との戦いの日々、といっても過言ではなかったかもしれない。。
中学時代以上に唾の分泌頻度が増したように思う。
授業中はおろか、友達(2年生になってようやくできた)と会話するときにも、
唾を何度も飲む異常行動に怪しまれていないか大変気に病んだ。

友達付き合いについて、深く悩んだのも高校時代からだった。
外見で人を見てしまう自分。茶髪の子と話すのが最初はとても怖かったし、
友達付き合いが少なかったことから、自分から会話するということに
慣れていなくて、だんまりすることも多かった。
「今度は○○が話してよ。」
と会話を促されることもしばしば。

私は少し耳が遠いのでときに友達の会話を流してしまい、
「あのこ 話をきいてくれない。」
と友達に避けられてしまうこともあった。


友達がいるのにも関わらず、遠足に現地まで一緒に行く子がいない。
一緒に行ってもいいかなと、言おうとする勇気がでなかったからだ。
今思えば、嘘をついて、先生に「今日は休みます」といって、
親には、普通に登校したように思わせれば良かった。

一人でテーマパークの門をくぐるのは、苦痛だった。
参加しようと思ったはいいが、いざ、入場ゲートをくぐって
みんなの前に出ることができない。
だからずっと、入場しないで、出口でずっと夕方になるまで
待っていた。誰にも会わずに。
時間が着たら、こっそり帰ってしまおう。家から帰宅すると、
母から開口一番に
「なんで、遠足に行ってなかったの?」

学校から、遠足に来なかったので、連絡が入っていたようだ。
母は、怒鳴り散らし、私はその時は、衝動的に家を出ていた。

先生や班員にも迷惑をかけたし、自分が情けないし、学校にも家にも
自分の居場所なんてないと思っていた。

場面緘黙症だった私 4

2006-08-11 | 場面緘黙症だった私
対人恐怖症の発症・・・

中学にはいると、環境は一転するが、案の定最初の1年間は馴染めなかった。
何故なら、小学校までの友達とクラスがバラバラだったから。
そこで、再び屈辱的な出会いが待っていた。
なんと親と面識のある家庭の子、Yさんと同じクラスに。
実際には遊んだことはないけれど、私も面識があった。
そのYさんから、親がどういうわけか私の学校での様子を聞いたらしく、

「Yちゃんから 聞いたけど、あんたは(また)大人しい子なんだってね。」

その一言がまた苦痛で、トイレに閉じこもって泣いた。


それよりも、私の人生を大きく揺るがす出来事がまっていた。

「ユーレイ。」

大柄の男子生徒一人が、妙に私につっかかってきたのだ。
私がクラスで浮いていることに気づいたのだろう。
授業中も睨まれているようで、私は授業に段々と集中できなくなっていった。
その頃から、対人恐怖症が始まっていったのだ。
1分以内に1回は口に唾がたまる。コップ一口分の唾が。
唾がたまって飲み込む音が聴こえることに神経質になる。 
次第に学校内では唾が勝手に分泌されるようになっていった(唾恐怖症)。