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コミュ障が0歳児との日常を綴るかもしれない主婦ブログ

(旧タイトル;場面緘黙症と向き合うニート)このブログ、いつまで続けられるのか分かりません。。

私の人生なんて

2008-05-18 | 家族
生まれたくて生まれてきたわけじゃないのに、
こんな人生って。

やりたくない仕事無理やりやって、
自暴自棄になって、愛想笑いして
心では金のために仕事やってるんだ、
とかそういう捨て鉢な気持ちで
仕事しても、迷惑でしょう。
門前払いものでしょう。

やりたくないなあ。
逃げ出すこともできない、
消えてほしい、
それか自分がこの世から
いなくなればいいのになあ。
どうして神様は死んではいけない人を
早世させ、生きてても価値がない自分は
生かすのだろう。
人がじわじわへたっていくところを
見て楽しいんだろうか。

ひさびさ~の更新

2007-02-15 | 家族
前回の日記が去年ので、更新が止ってました。
ついついミクシィの方に書いて満足してしまうので、
書かないでいると、こんなにも月日が経ってしまう・・・(汗汗

まあ、ミクシィのように「足跡」がついたり、それを意識
しながら、投稿するわけではないから、こっちのブログのほうが
気楽といえば気楽なんですが。 

で、昨年の暮れに母が倒れまして、(大腿骨に人工骨を入れていて、
それが損傷したので、交換する手術を行いました)
最初はバタバタしておりました。
母がしていたことのほとんどを私が引き受ける形になりましたので。

掃除・洗濯・ゴミ出し・料理・回覧板を回したりなどの雑務。
おかげで、料理に少し自信がついたり、ゴミ出しの知識やら
生活の知恵やら身に付きました。
そして、自分で家事をするようになってから、以前より神経質な
部分が少しは丸くなったかなという感じもします。

汚そうで手拭を使わない所を、ティッシュを使う→ゴミが溜まる
ので、手拭を使って手を拭く。
とか。

就職だとか進展はないものの、家庭的なことをするには精神が
成長した気もします。
母が昨日になって無事退院したので、これからは自分の進路について
真面目に考えていかねばなという次第であります。

前回の暴走日記を改めてみて、

2006-10-26 | 家族
父が働いてもいない私に不満をぶつけるのは当然です。
父は慶弔やおたふく風邪のときしか休まないぐらい大変な勤労人間なのですから。
家族を食わせるために精一杯働き、海外出張も疎まずに積極的に行きました。
低賃金なのにもかかわらず、私と弟を私立大学にまで通わせる努力をしてくれたことは大変感謝しています。世の中には、大学で勉強したいと願いつつも、お金がないから、高卒でガマンして、働いてくれという親も珍しくありません。そういった点では父には到底敵いません。

父も若い頃は海外出張から帰ったら、会社が既に倒産していたという気苦労があったようです。今の会社には勤続20年近くだと思いますが、今の会社に入る前は大変な労苦があったことでしょう。私生活でも色々と問題を抱えていたようなことはあとあと母から聞かされました。
自分が高卒だったので、同じ仕事量をこなしても、給料、昇進などで差がでてくる、そういった努力だけでは評価してもらえない苦さを父は私には感じて欲しくなくて、幼少のころから「大学へ行って一生懸命勉強してほしい」と漏らしていたのだと思います。

父は一般の企業が不況という状況下で経営が不安定であることを熟知しているために、国がつぶれなければ安泰な公務員や結婚しても続けられる学校の先生が理想的だと常々私に言い聞かせていました。
しかし、残念ながら、私には公務員試験を受けられるほどの器量の持ち主でもなかったし(学校の先生も公務員ですが)、教員免許は取得したものの、内面的に脆弱で卑小な私にはどうしても学校の先生として教壇に立つということは到底考えられませんでした。
だから、私はせめて一般的に、世間体を考えて、ふつーの事務職員として、働きました。それから転職して正社員として働いたこともあったし、私が夜遅くまで働いてることを知って、根性はあるヤツだということは認められていたようです。

それにもかかわらず、私はいまこのように、家庭では食い扶持すら入れられない、
いわば、コバンザメとしてこの家に寄生しているのですから、父としては、内心働いて欲しい思いで一杯なのでしょう。

父には父の事情がある、私には私の事情がある。
父は「○○(私)ちゃんには、○○ちゃんにしかわからない、悩みがあるんだろうけどさ・・・」と言っていたこともあったので、私の事情は知らなくても、私が色々と悩みを抱えていることは承知のようです。
ただ、あの時はお互いが自分勝手だったために衝突してしまったのでしょう。

すぐひどいことを言われたからといって、相手のことをよく知りもせず、
悲観的になる私にも問題があったかと思います。
手首を切ったんだと母に翌朝伝えると、
「信仰心が足りないよ。」

三浦さんやキリストの本もっと深く読みなさいということを意図として
言っているのだと思います。
母も私もクリスチャンではありませんが、母は三浦綾子さんの「なくてならぬもの」読んだのがきっかけなのか分かりませんが、最近は二十年来、放置していた編み物に再び熱が入るようになりました。いい傾向です。

汝の敵を愛せよ・・か・・

2006-10-22 | 家族
※これは私がめちゃくちゃな状態のときに書いた日記です。
気分が悪くならないようにご注意を。


1階で怒声が聞こえた気がした。
いやな予感を感じた。
案の定、下で父が私を呼んでいる。

父は狭い玄関で、必要もないのにまたタンスを買っては
組み立てている。

外は雨。弟はスーパーにバイトに行っている。
傘を持って出たかわからないので、
傘を届けろと言われた。

「おまえは遊んでいるんだから、届けて来い!!」

気づいた人が自発的に行けばとか思った。弟よりタンスか?

しかも、術後の痛みがまだ残ってて思うように動けないものだから
家族にあたってくる。(弟にだけはあたらない。私より出来が悪いのに。)
ダンボールや組み立て中の家具が玄関付近を占領しているので、
外へでるのも一苦労。
ワキの靴棚の戸をあけて靴を取ろうとしたら、

「そんなとこに傘なんかはいってるはずないだろ!!」
と一喝された。私は気を遣って、そこから靴を
取ってすり抜けて外へ出ようと思ったのに。

それから、傘もたくさんあるので、適当に持っていこうとすると
きっと「そんなぼろっちい傘なんか持っててどうするんだ!」
「それは俺の傘だぞ!」とか色々言われるのは分かってるので、
安物の無数の傘からどれか一つを選択するのを渋っていると、
「これをもっていけば」とあっさり言うので、従うことにした。

(父は母の話によれば、兄弟からも嫌われているらしい。本当に当然だと思う。
 触らぬ神に祟りなし。だから自分からはけして話しかけない)

それで、自転車で傘を差しながら行くのは、余計濡れそうでためらった
ので、仕方なしに徒歩で、バイト先まで届けに行くことにした。
いっそ、このまま家出とか、自殺とかできそうじゃないかなと思ってしまった。
けれど、それはむかつくので、あてどない旅をするかのように、
ふらふらと歩いた。こういう精神状態のときは時間が緩やかに動いている
ように感じられて、もう、歩くのも面倒くさくもないなあとやけっぱちになった。

スーパーにようやくたどり着いて、社員らしき人から、弟を呼んでもらい、
渡しにいくと

「余計なことするなよ」
とたしなめられてしまった。
多分、傘を持っていったんだと思ってたし、そう言われることは
私には予測できていたが、ショックだった。

もしかしたら、社員には、雨の中、傘を届けにきたけなげな姉の姿が
目にうつったのかもしれない。実際は、全然けなげなわけがない。
家庭のなかはぐちゃぐちゃだ。

どうせ、そのまま帰っても、父が玄関を占領していてうざそうなので、
ブックオフまで更に歩いた。普段なら、絶対ウィンドーショッピング目的
じゃない限り、歩くなんて面倒なことだと思っているが、本当に
精神状態が急激にまた沈み始めたので、もうどうでもよかった。

ブックオフに入って、心理学の本やら、テロリストについての本やら、
宗教の本やら、北斗の拳やら、いろいろみて時間を潰した。
北斗の拳の苦手な暴力シーンもまるで父が敵とダブって見えて爽快
だと思った。全く北斗の拳に抵抗がなかった。本当に異常な状態だった。
帰りは、わざと傘を持っているのに差さないまま帰った。
もし全裸だったら、いっそ地べたに寝そべってから帰宅したと思う。
さすがに洋服は汚したくなかったのでそれはできなかったけれど。

それから、8時を過ぎて戻ってきたところ、
まだタンスを作っていて、「どうだった?」と父が聞くので、
「迷惑なことするな!と言われたよ。」
と言ってやった。父は苦笑していた。本当に最低な父親だ。

それから、自分の部屋に戻って号泣した。
何故だか悔しかった。
やりきれない怒りを父にぶつけるのは、せっかく三浦さんに
出会えた奇跡を、ぶちこわしてしまう。
かといって、私には父を罪を許すこともできない。
自分を自分で罰するしかない。
過去の私が父で、過去の私の子供が今の私なら、
私が悪かったということなんだもの。

だから、腕に×のマークを刻印しようと思った。
でも臆病だったから、\しかできなかった。

私も汚い人間だ。みにくい。

再入院

2006-09-16 | 家族
今週初めに父が再入院して、おとつい初めて病院に見舞いに行った。
父が弟も私にも病院の中を見るのは為になるとか、言って来させたが、
実際は見舞いに来て欲しかったんだろう。

胆嚢を10センチだか切ったとか言っていたが、そんなに大した病気でも
ないので、母にまかせて、自分は家事をしようとしていたが、
再手術後ということもあって、家族全員で行くことになった。
こんなとき自分が車を運転できれば、と思うけれど
私もこんな状態だし仕方がない。
1時間に一本のバス(運賃100円)から電車で2駅、駅から徒歩10分未満。

病院自体、行くのが億劫だった。暗くて、薬臭くて・・・。
でもそこの病院は改装して、まだ新しく、まるで病院とは思えないぐらい
明るさ、清潔さを感じた。一階には大きなシャンデリアがあるし、
売店は駅ビルのキレイな構内の中にあるようにみえるぐらいだ。
病室のある階はピンクを基調とした、暖か味のある雰囲気だし、
病室からは壮大な山々と山に囲まれて無数の家々が望める。
お昼を食べられるような休憩所もガラス張りに面した所にあって、
おしゃれな私立大学を彷彿とさせた。こんな所だったら、手間を
かけて見舞いに来ても悪くない。

父は最初、酸素マスクをしていて、背中から痛み止めの管を通されたり、
点滴を打たれていたり、みるからに痛々しい様子だった。
しゃべることはできるが、声に力がない感じ。
父はつらそうだな、大丈夫かなという不安の気持ちよりも、
健康管理を怠るとこうなるんだよという戒めで頭がいっぱいだった。

いつからか、完全に自分からは父に話しかけなくなったし、
父という存在が私にとって意味があるのか分からなくなっていた。
好きでもないし、嫌いでもない。
父は昔から帰宅しても「ただいま」の一言も言わない。
だから、私も次第に帰宅直後の父を見かけても何も言わない。
こんな微妙な関係が長く続いている。

それでも、いざ家族の誰かが倒れたとき、助け合っていかないと
いけない。私は母が見舞う代わりに、家事手伝いをする。
誰かが倒れれば、家族というシステムの均衡が崩れる。
いつか両親ともに倒れたら、私はそのときどう支えていけばいいのだろう。

緊急入院

2006-08-12 | 家族
私ではなく、父の話です。 
昨日から、変な物を食べておなかが痛い
と言っていたらしかったので、怪しいとは思ったけれど、
今日になって即刻入院とのこと。
胃が悪いのと肝臓に石(肝内結石)がつまっているらしい。

子供の頃から、めったな体調不良以外休むことのなかった父。
大きい病気もしなかったので、びっくり。

ちょうど、父が土曜から今週の水曜まで休みだったらしいので、
その間、ニートの私としては家に居辛いと思ったけれど、
こういう事態になってしまって父は大丈夫だろうか、と心配になってきました。

そして、いつまでも親はいないんだという現実を目の当りにした気もします。
なんとか、早いうちにバイト復帰したいです。。




20年後の告白

2006-08-12 | 家族
昨日、夕食時に母に私が「場面緘黙症」で苦しんでいたということを
告白しました。 すごい勇気がいりました。でも爆弾を抱えているのは
もう限界でした。

母から「まさかー」「聞いたことないわ。本当にあるの?」
「気の持ちようよ」 とかそんなこと言われる覚悟でしたから。
それに「普通の子」として生きてくことが親のためと思ってこれまで
そう生きてきたから、こんなこといってショックを受けないだろうかとも
思いました。

けれど、母は素直に「ごめんね」と言ってくれたので、安堵しました。
私がすぐに働けないことに罪悪感持っているんだと伝えると
罪悪感なんて感じなくていいとも、言ってくれたのです。
これまで、つらい思いをさせたと思ってくれただけ少し救われたようになりました。

それでも、これで人生がすぐに改善するわけでもなく、私は私にしかできない
生き方をするしかないので、その生き方から探さないといけない。

今後、緘黙を抱えながら、日々のことをアップできたらいいなと思います。