私とは何か?と問うことに気付いている「私」とは何か?

私とは何か?意識の起源とは何か?悟りとは何か?般若心経とは何か?これらの問いの答えを考える。

価値観について

2021年02月23日 | 意識と悟りの構造

こんにちは、領です。

神という世界観を超えることは難しい。
真の自己という世界観を超えることは難しい。
意識という世界観を超えることは難しい。
人間中心という世界観を超えることは難しい。
人間という世界観を超えることは難しい。

このように表現すると、これらの世界観を超えなければいけないような気になります。
しかし、縁起縁滅の法によって存在を現わすものに絶対の真理は存在しません。神という概念の場において「神は存在する~神は存在しない」という思考は、相依相関して存在し、片方だけでは存在できません。思考や概念、感情は振動循環し一つの位置に確定しません。

人間という世界観を超えるということを、人は悟りと名づけています。悟りとは、価値があると思っている思考の全てが無に潜在する境地です。
以前、悟りはゲームオーバーの地点と書きました。個としての人間という魔法が解かれる地点です。自己を観察するということの蓄積で悟りに至ります。
学習の成長曲線のように、自己のメタ認知の能力はじりじりと時間をかけてほんの少しずつ上昇し、あるポイントを超えると一気にメタ認知の極限に至ります。
この構造は、この世に存在する個人としての人間という魔法が解かれにくいように作用していると考えることもできます。簡単には個の魔法は解けない。簡単には人間という世界観を超えないようなバランスでこの世は展開している。この世に存在する者として悟りに至りにくい構造です。かといって、誰かが意志を持って悟りに至らないように保護しているわけではなくて、縁起縁滅の法の数式の性質です。

縁起縁滅の法は、人間の存在の仕方を表すために用意されたものではなく、縁起縁滅の法の展開の中に人間という構造が現われただけです。
無次元の点が縁起縁滅の法によって、素粒子、原子、分子、RNA、DNA、原核生物、真核生物、多細胞生物・・・魚類、両生類、哺乳類、人間・・・と、展開します。人間の観察するという行為の行き着く先は無次元の点です。無次元の点が高次化して行き着く先が無次元の点となりループします。

生きる意味、魂の浄化、霊性の進化、世界を創造しているのはあなただ、悟りが最上の道だ、真の自己に目覚めなければならない、いくら知識を積み上げても真の智慧にはならない、などなどの思考も縁起縁滅の法に従って存在します。つい価値があるとして思考してしまう事がありますが、無次元の点の関係性の一塊です。

水には極性があり、二酸化炭素には極性がない。塩は水に溶けるとナトリウムイオンと塩素イオンになる。人間という一塊も他者をどう振る舞わせるかは物理的に決定されている。人に独立自存の能動的、自律的な意志があると思考することは、磁石のS極とS極が反発する作用に自律的な意志が存在すると思考することと同じです。

無次元の点に備わった「観」という物理作用は、無次元の点のあらゆる組み合わせに対して今にまとめる構造を持ちます。「観」という物理作用が存在しなければ。私たち人間は、主観的体験を持たずに喜怒哀楽を持つ、哲学ゾンビになります。

この世の全ては、無次元の点の関係によって存在し、相依相関しなければ存在できません。つまり、より価値のある思考は存在しません。五蘊皆空の地点と五蘊が展開している地点は、どちらも価値が同じというか、どちらも価値そのものが存在し無いというか・・・。価値は、思考であって縁起縁滅の法により展開される内のものになります。救う救われるという価値観も同じです。

数式に従って展開する無次元の点の関係性に価値を問うことはできませんが、日常の範囲では、縁起縁滅の法によって展開する関係性の中に存在するので、気に入った価値観を大切にします。それでいて命に関わるほど極端にこだわることはしません。

ふと思ったこと
① 人の思考や概念は、抽象度が上がるほど共有されて存在します。思考や概念が共有されているから少しの学習で、例えば猫という存在を理解できる。AIは、何万回も学習して猫という存在に猫と割り当てることができる。人は共有しているからノイズに強い。


② 自己をカメラのようにただ観察するという行為は、「観」という物理作用のみの状態の模倣であって、最上位の「観」という中心から観察するということであって、縁起縁滅の法が見えてきます。これは、太陽を中心に惑星の動きを観察すると法則が理解しやすいことに通じると思いました。

 

ここまで読んでくれた方、ありがとうございます

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天動説地動説

2021年02月19日 | 意識と悟りの構造

こんにちは、領です。

以前、「意識」という言葉は、人間中心的な言葉ということを書きました。

その時、ふとコペルニクスの地動説のことを考えました。
天動説とは、人間の住む特別な天体である地球は、宇宙の中心としてふさわしい。地球は宇宙の中心に静止していて、太陽を始め全ての天体が地球の周りを回っているという考えです。地球を中心としたときの惑星の軌道を表した周転円の図は、花の模様みたいで好きです。
地動説は、宇宙の中心は太陽であり、地球は他の惑星も含めて太陽の周りを自転しながら公転しているという考えです。
中心に静止しているのは、そこで見る人を基準にするという意味で、宇宙には絶対的な基準は存在しません。天動説地動説どちらでも惑星の動きは予測できるのでどちらでもかまわないけれど、地動説の方が使いやすく理解しやすくシンプルです。太陽は、より統一的な存在に感じます。

宇宙には絶対的な基準は存在しないのか?と問われれば、私は「観」が唯一不生不滅不動不変として存在すると考えます。「観」は、この世に遍在しますが、最高次の情報で唯一として存在します。

物質に過ぎない脳に意識が生じるのはなぜかという問いは、人間中心的です。
真の自己という思考は、人間中心的です。
人間は、悟りの境地に至ることができるという思考は、人間中的です。
人間は、全知に至ることができるという思考は、人間中心的です。
意識や悟りを奇跡や神秘とする思考は、人間中心的です。

縁起縁滅の法によって、無次元の点の可能な関係性の組み合わせは全て展開されます。
無次元の点の関係性が高次化すると必ず、人間のような振る舞いの構造が現われます。
素粒子、原子、分子、RNA、DNA、原核生物、真核生物、多細胞生物・・・魚類、両生類、哺乳類、人間・・・「個体発生は系統発生を繰り返す」という言葉を思い出しました。

人として振る舞う構造に、無次元の点に割り当てられた「観」という情報が不可分に存在するだけです。自分の顔かたち、思考パターン、記憶を個人の範囲に統一して「観る」という構造をもたらします。

縁起縁滅の法は、波の性質を持つので避けようがなく情報が重なり合って無に潜在してしまう位置が存在します。自分の顔かたち、思考パターン、記憶が、無に潜在します。そこを悟り、梵我一如、神人合一、即心即仏、真の自己、意識の起源、如実知自心などと理解します。

人のために、意識や悟り、真の自己が存在するわけではありません。

「人間は、自立的に思考し、理解することができる」という思考が存在します。

私は、人間は何も理解していないと思います。

見るを観る
匂いを嗅ぐを観る
味わうを観る
聴くを観る
行動するを観る
個人的自己を観る
理解するを観る
自由意志を観る
自己責任を観る

「人は自由意志を持ち、意識が決定を下す」を観る。
「人は、自立的に思考し、理解することができる」を観る。
「時空に対し独立自存で能動的に自由自在に思考することができる」を観る。
「私とは何か?と問うことができる」を観る。

無次元の点の可能な組み合わせによる構造が縁起縁滅の法に従って無限に展開する構造を持つとき、「私とは何か?」と世界や自己に対して一段高次の視点から問うことでさえパターンの内に存在します。
「私とは何か?」と問う自己を観る。
「観」という物理構造が、人において最上級に活かされています。最上級という見方は、人間中心的です。

人は、可能な全てのパターンが存在し、「観」という構造を持ちます。
一人の人間から見れば、膨大ですが、人工知能は、限られたパターンで学習します。
人の可能な全てのパターンは、振動して存在するという違いはありますが、人工知能が理解を持たないというとき、人間も本質的に理解を持たない存在と言えます。

自分の内に「観」という構造が働くので、自分の本性が自分の内に存在するという思考を持ちますが、正確にどう表現すればいいのか言葉が見つかりませんが、自己の内に存在すると言えるものでもないです。

地動説の方がよりシンプルに世界観を説明できたとしても、太陽が東から昇り西に沈むと日常の中では考えます。

「人は、自立的に思考し、理解することができる」と日常の中では考えます。

 

ここまで読んでくれた方、ありがとうございます

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意識と悟りの構造

2021年02月11日 | 意識と悟りの構造

こんにちは、領です。

散歩しながら思索するとか、お風呂に入ってほっとした瞬間に閃くとか聞きますが、私は横になって、目をつぶって考えごとをするのが好きです。寝ようと布団に入ったあと、考えたことをメモするために何度も起きるときがあります。休日の朝は目が覚めた後、布団の中で考えごとをします。今朝、布団の中で考えていたことを書きます。

神という世界観を脱することは難しい。

真の自己という世界観を脱することは難しい。

意識という世界観の向こうとは、悟りという世界観の向こうのことです。

五蘊が仮和合して一つに集まって、そこに「観」が不生不滅不動不変である常(じょう)として不可分に存在します。
その「観」という物理構造を人は、意識と呼んでいる。
その「観」という物理構造を人は、仏性と呼んでいる。
五蘊が空(くう)に潜在し「観」のみの状態になることを人は、悟りと呼んでいる。

「観」は、最上位次元の情報なので、唯一として存在しながら現在過去未来、多世界を含め、全時空に遍在する構造です。
「観」は、全ての存在の「今」に不可分に「今」存在します。
全ての人は唯一の「観」を共有している構造です。
「観」を「意識」と呼べば、全ての人は唯一の意識を共有する同一人物となります。
悟りとは一つ二つと数えられるものではなく、唯一として存在する「観」のみの状態に至ることです。

全時空に遍在する唯一の我が独り存在するという世界観を人は、持つことができます。

 

意識と悟りは人に用意された特別の奇跡ではありません。

この宇宙を展開する数式の中に現われた構造に、人が存在するだけです。数式に従って悟りの地点は存在し、水でも人でもその存在の中心に「観」という物理作用を持つだけです。

雷が光り、遅れてゴロゴロゴロと音が聞こえます。光と音の差が10秒ぐらいあると「雷は遠いな」と安心します。でも、雷が光ると同時に地響きがしてガリガリガーンと音がすると、雷が近くに落ちたとわかり恐怖を感じます。
大昔の人は、雷の音を神のような存在の怒りというような神秘的な解釈をしたりします。現代では、「雷」「メカニズム」で検索すれば物理的構造を理解することができます。

人の意識や悟りも物理で理解することができます。

ここまで読んでくれた方、ありがとうございます

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