私とは何か?と問うことに気付いている「私」とは何か?

私とは何か?意識の起源とは何か?悟りとは何か?般若心経とは何か?これらの問いの答えを考える。

読書15 『善の研究 西田幾多朗 著』『小学館学習まんが西田幾多郎』

2020年04月28日 | 意識と悟りの構造

こんにちは、領です。

『善の研究 西田幾多郎 著』

P62 真の宗教的覚悟とは思惟に基づける抽象的知識でもない、また単に盲目的感情でもない、知識および意志の根底に横たわれる深遠なる統一を自得するのである。即ち一種の知的直観である、深き生命の補足である。故にいかなる論理の刃もこれに向かうことはできず、いかなる欲求もこれを動かすことはできぬ、凡ての真理および満足の根本となるのである。その形は種々あるべけれど、凡ての宗教の本にはこの根本的直覚がなければならぬと思う。
P74 もし個人的意識において、昨日の意識と今日の意識とが独立の意識でありながら、その同一系統に属するの故を以て一つの意識と考えることができるのならば、自他の意識の間にも同一の関係を見い出すことができるであろう。
P85 上にいったように主客を没したる知情意合一の意識状態が真実在である。我々が独立自全の真実在を想起すれば自ずからこの形において現われてくる。此のごとき実在の真景はただ我々がこれを自得するべき者であって、これを反省し分析し表しうべき者ではなかろう。
P99 直接経験より見れば同一内容の意識は直ちに同一の意識である、真理は何人が何時代に考えても同じである様に、我々の機能の意識と今日の意識とは同一の体系に属し同一の内容を有するが故に、直に結合せられて一意識と成るのである。個人の一生という者は此の如き一体系を成せる意識の発展である。
 この点より見れば精神の根底には常に不変的或る者がある。この者が日々その発展を大きくするのである。
P102 客観的世界の統一力と主観的意識の統一力とは同一である、即ちいわゆる客観的世界も意識も同一の理によって宇宙成立の原理を理会することができるのである。
P108 かくいえば真正の主観が実在の本体であると言わねばならぬ事になる、
P128 自然を深く理解せば、その根底において精神的統一を認めねばならず、また完全なる真の精神とは自然と合一した精神でなければならぬ、即ち宇宙にはただ一つの実在のみ存在するのである。而してこの唯一実在はかつていった様に、一方においては無限の対立衝突であると共に、一方においては無限の統一である、一言にて云えば独立自全なる無限の活動である。この無限なる活動の根本をば我々はこれを神と名づけるのである。神とは決してこの実在の外に超越せる者ではない、実在の根底が直ちに神である、主観客観の区別を没し、精神と自然を合一した者が神である。
P131 時間空間の間に束縛せられたる小さき我々の胸の中にも無限の力が潜んで居る。即ち無限なる実在の統一力が潜んで居る、我々はこの力を有するが故に学問において宇宙の真理を探ることができ、芸術において実在の真意を現わすことができる、我々は自己の心底において宇宙を構成する実在の根本を知ることができる、即ち神の面目を補足することができる。
P201 上来論じたところを総括していえば、善とは自己の内面的要求を満足する者をいうので、自己の最大なる要求とは意識の根本的統一力即ち人格の要求であるから、これを満足する事即ち人格の実現というのが我々に取りて絶対的善である。而してこの人格の要求とは意識の統一力であると共に実在の根底における無限なる統一力の発現である、我々の人格を実現するということはこの力に合一するの謂である。
P204 自己の主観的空想を消磨し尽くして全然物と一致したる処に、かえって自己の真要求を満足し真の自己を見ることができるのである。
P207 意識の統一力であって兼ねて実在の統一力である人格は、先ず我々の個人において実現せられる。我々の意識の根底には分析のできない個人性というものがある。
P216 善とは一言にていえば人格の実現である。これを内より見れば、真摯なる要求の満足、即ち意識統一であって、その極は自他安相忘れ、主客相没するという所に到らねばならぬ。(中略)仏教の根本思想である様に、自己と宇宙とは同一の根底をもって居る、否直ちに同一物である。この故に我々は自己の心内において、知識では無限の真理として、感情では無限の美として、意志では無限の善として、皆実在無限の意義を感ずることができるのである。我々が実在を知るというのは、自己の外の物を知るのではない、自己自身を知るのである。
P220 実地上真の善とはただ一つあるのみである、即ち真の自己を知るというに尽きている。我々の真の自己は宇宙の本体である、真の自己を知れば啻に人類一般の善と合するばかりではなく、宇宙の本体と融合し神意と冥合するのである。宗教も道徳もここに尽きて居る。而して真の自己を知り神と合する法は、ただ主客合一の力を自得するにあるのみである。而してこの力を得るのは我々のこの偽我を殺し尽くして一たびこの世の慾より死して後蘇るのである(マホメットがいった様に天国は剣の陰影にある)此の如くにして始めて真に主客合一の境に到ることができる。これが宗教道徳美術の極意である。基督教ではこれを再生といい仏教ではこれを見性という。
P234 かく最深の宗教は神人同体の上に成立することができ、宗教の真意はこの神人合一の意義を獲得するにあるのである。(中略)凡て我々の精神活動の根底には一つの統一力が働いて居る、これを我々の自己といい、人格ともいうのである。
P240 精神現象とはいわゆる知情意の作用であって、これを支配する者はまた知情意の法則でなければならぬ。而して精神は単にこれらの作用の集合ではなく、その背後に一つの統一力があって、これらの現象はその発現である。今この統一力を人格と名づくるならば、神は宇宙の根底たる一大人格であるといわねばならぬ。自然の現象より人類の歴史的発展に至るまで一々大なる思想、大なる意志の形をなさぬものはない、宇宙は神の人格的発現ということとなるのである。(中略)自覚とは部分的意識体系が全意識の中心において統一せらるる場合に伴う現象である。自覚は反省に由って起る、而して自己の反省とはかくの如く意識の中心を求むる作用である。自己とは意識の統一作用の外にない、この統一がかわれば自己もかわる、この外に自己の本体というようの者は空名にすぎぬのである。


西田さんは、「東洋哲学と西洋哲学の融合をはかった」「日本人初の哲学者」、このように紹介されますが、2500年以上も前から、地球上のいろいろな人々が「実在とは何か?」「自己とは何か?」と考え続けてきたなかの1人だと思います。日本に仏教が伝わるその前から実在について思考した人は存在すると思います。それ以上分割できないもの、思考のおよばないもの、唯一として存在するもの、そのような実在を考えるときに洋の東西は超えています。

悟りとは、実在そのものになることです。私は、「実在」という言葉は、あまり好きではありません。「実在」とは「真の自己」であった、このように表現すると、あまりにも特別な印象を「真の自己」に与えると思います。

無次元の点に「真の自己」という情報が割り当てられていて、無次元の点の関係によって電子という情報になるとき、電子の構成要素に「真の自己」が含まれる構造です。これをもって、この世の全ては「真の自己」の表現系としてしまうと、「真の自己」がものすごく特別なものに感じられてしまいます。「真の自己」がこの世を創造している、という言い回しにもなります。

私は、これ以上説明する概念を持たないという最上位の概念が「真の自己」であるため、一番シンプルな無次元の点に「真の自己」が割り当てられているだけだという見方が好きです。これにより時空に「真の自己」が遍在しているだけです。

「実在とは何か?」「自己とは何か?」と考えることも特別なことではありません。数式に従って存在するだけです。「実在とは何か?」「自己とは何か?」と考えたことすらない人、真の自己というものを否定する人、いろいろな人々が、波が干渉するように思考の閾値をやりとりしているというイメージです。独立自存の思考は存在しません。つまり、独立自存の真理も存在しません。
独立自存の真理が存在しない。←これも独立自存の思考ではないということになります。思考は、自分が好きなものでいいと思います。といいつつ数式に従っているだけと突っ込みを入れる思考が、私は好きです。

西田さんのことは、ブログを読んでいて知りました。幾多郎という名前にゲゲゲの鬼太郎と同じ名前の人がいる!と驚きました。そして、すぐに『善の研究』を読みました。「実在とは何か?」「自己とは何か?」について書かれている本を発見するとうれしくなります。もっと早くに知っておきたかった一冊です。もともと哲学に対して、「この世は、火・空気・水・土からなる」というようなイメージがあったので、哲学の本は読んだことがありませんでした。「実在とは何か?」「自己とは何か?」は哲学の中心的な取り組みだと気付きました。



西田さんのことが気になったのでこちらも読みました。



ここまで読んでくれた方、ありがとうございます

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読書14 『日経サイエンス 2013年 03月号』

2020年04月26日 | 意識と悟りの構造

こんにちは、領です。

『日経サイエンス 2013年 3月号』

「特集 量子ゲーム パラドックスに合理あり 量子で囚人を解き放つ」という記事が、とっても面白いです。
P31 量子情報技術は量子現象がはっきりとあらわれる光子や電子などのミクロな物体を用いるが,人間はマクロな生物で,量子現象が直接関与するとは考えにくいことだ。
にもかかわらず量子ゲーム理論が注目を集めているのは,実際の人間の非合理な行動が,量子力学を導入することでなぜかうまく説明できてしまう例があるからだ。これは単なる偶然だろうか?それともミクロな世界を語る量子力学とマクロな人間の意志決定の間に,知られざる共通項が隠れているのだろうか。答えはでていないが,研究者らは後者の可能性を考え始めている。
P43 互いが最大の利得を追求した結果,最悪の結果に陥るという逆説的な状況の有名な例に,古典的なゲーム理論の「囚人のジレンマ」がある(36ぺーじの囲み)。窃盗の疑いでアリスとボブが逮捕され,尋問を受けている。もし2人とも黙秘すれば,証拠不十分で両者とも釈放される。逆に2人とも自白すれば,両者ともに収監され刑に服する。一方もし2人のうちどちらか1人が自白し,他の1人が黙秘した場合には,自白したものは釈放された上に報償を受けるが,黙秘した相棒は収監され,2人とも自白して収監された場合よりもさらに厳しい刑を受けることになる。
P46 古典的な囚人ゲームにおいては,ボブが自白したらアリスは自白するし,黙秘しても自白する。当然原理にしたがえば,たとえボブの選択肢を知らなくても,アリスは自白をするはずだ。
 ところが実際に被験者を用いて行われたいくつかの実験では,アリスはボブが自白したと知ると高い確率で自白し,黙秘したと知ってもなお自白する傾向が見られるが,ボブの決定を知らないときには,自白する確率はそのどちらよりも低くなって黙秘する確率が高くなる(下の図)。現実の人間は時として,当然原理に反する選択を行うことがあるのである。
 このような当然原理の破れを説明するのに量子状態が使えることを示唆した(中略)アリスの戦略は常に「自白」と「黙秘」の重ね合わせ状態になっている(右ページの図)。重ね合わせにおける自白の確率は,ボブが自白した場合は非常に高く,黙秘した場合でもかなり高い。
 では,アリスがボブの選択を知らなかったらどうなるだろうか?当然原理によれば,ボブが自白した場合にアリスが自白する確率と,黙秘した場合の自白する確率の間のどこかになると予想される。だが量子力学では当然原理は成立しない。ボブが自白した場合のアリスの重ね合わせ状態と,黙秘した場合の重ね合わせ状態とがさらに重ね合わさり,新しい重ね合わせ状態ができる。「ボブもアリスもともに自白する」,「ボブが自白しアリスが黙秘する」,「ボブが黙秘しアリスが自白する」,「ボブもアリスもともに黙秘する」という4つの状態が重ね合わさった量子もつれ状態だ。
 この量子もつれ状態でアリスが自白する確率は,まったく予想外の結果となる。それは例えて言えば,もとの2つの量子状態における「自白」の確率が,水面に広がる波のように互いに干渉するかのような振る舞いだ。確率は干渉効果で強め合ったり弱め合ったりし,時として元の2つの状態の確率の範囲を大きく逸脱する。(引用終わり)


まず目に入った「実際に囚人ゲームをやってもらった実験の結果」のグラフに対して、あれ!?相手の戦略を知らないときの自白率がかなり低い、と驚きました。相手が黙秘したことを知っていたときでもかなり自白するのに、何も分からないときの方が、ガクッと自白が減ってしまう。この結果が量子力学で説明できてしまう。偶然なのか?量子力学を深く理解する道筋なのか?

私が好き勝手に思うことは、この世が量子力学で説明できるのではなく、この世は量子力学の数式通りにしか存在できない。この世の構造はこのようでなければ存在しない。確率的だけれど平行世界(マルチバース)足し合わせれば決定論でこの世はできている。自由意志が存在するように見せかけることに成功している。魂が存在するように見せかけることに成功している。生きているように感じさせることに成功している。時空に独立して動き回れると感じさせることに成功している。

外出自粛中なこともあり、FFエクスプローラーズをプレイしていたとき、敵が画面手前に寄りすぎてポリゴンの中の空洞が見えたり、二体の敵が崖に向かっているのに落ちないで同じ動きでウォーキングマシン状態などを見ると、数式通りに存在していると感じます。人間という存在も同じようなものです。しかし、自由意志を感じる思考が存在しているので問題ないと思います。

「自己を観る」という作業を重ねると、個人的な自己が薄くなっていくことも量子力学で説明できるかもしれないです。私は、「自己を観る」作業に陰陽を組み合わせていました。その構造も関係あるかもしれません。

ここまで読んでくれた方、ありがとうございます


表紙のイラストは、雑誌の41Pにまるごと綺麗に載っています。とてもかわいくて気に入っているので額縁に入れて飾りたいです

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解脱の主体

2020年04月20日 | 意識と悟りの構造

こんにちわ、領です。

前回の記事を読んでいて、今一度、書いておきたいことが浮かびました。

「解脱の主体」とか「仏性」という表現をすると、個人の中に秘められた主体が納められているように感じます。胸のあたりか第三の目あたりに輝く主体の原因が宿っているようなイメージです。
「解脱の主体」とか「仏性」というもは、別の表現では「自己の主としての自己」「観自在」「観ている自己が存在するという志向性」「自己感」「主観」「私」「今、自分が自分と感じている自分」などがあります。意識の起源そのもののことです。個人の自己とそこに対峙する世界が消滅し、時空が存在しない刹那、意識の起源そのものを如実に知ります。個人の自己に対して普遍の自己です。
個人の自己(普遍の自己)→個人の自己が消える→むきだしの普遍の自己
このような構造が、悟りです。
普遍の自己は、最高次の概念で、一番シンプルな無次元の点に割り当てられた情報です。つまり、「私」(普遍の自己)は時空に遍在し、私たちは「私」の海の中を動き回っているようなものです。この構造から、「私」という主観は、ここからそこへと動くものではなく不動であり、不生不滅、不変の恒常なるものと言えます。この世の全ての存在は同一人物であり、限定された誰かが解脱するということは叶いません。「私」という海の中を五蘊が縁起縁滅の法に従って展開する構造です。
「解脱の主体」とか「仏性」は、個体の中に宿り、個体と共に時空を動き回る構造ではありません。

ここまで読んでくれた、ありがとうございます

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読書13 『釈迦の本 永遠の覚者・仏陀の秘められた真実』

2020年04月18日 | 意識と悟りの構造

こんにちは、領です。

『釈迦の本 永遠の覚者・仏陀の秘められた真実』

P61 われわれが、これこそ自分自身だと思っている「我」も、突き詰めていくと仮象である、これが仏陀の認識であった。そこから「無我」「無常」という考え方がうまれる。
 では、ブッダはアートマンを否定して無我説を立てたのであろうか。
P65 恒常的・絶対的な我はなく、無我無常だと言うことを明らかにした、そしてそれを一言で言い表すなら、それは苦だと悟りきった。
 「全ては相依性にして、縁ありて起こるということであり、また、それに反して、すべての計らいをやめ、すべての所依を捨て去れば、渇愛尽き、滅し尽くして涅槃に至る」(『増一阿含経』)
 これをブッダは悟ったのである。
 しかしこれで、われわれは、もう一度「自己」に戻らねばならない。確かに、現象世界の存在者は、「相依性」に貫かれ、「渇愛」に踊らされている。ブッダは、右の言葉にあるように、それら相依性や渇愛に動かされている我という観念を「捨て去れば」、人は涅槃に至ることが出来ると説いた。
 しかし、ではそのとき涅槃に至るのは、一体何者なのか?
 もし自己が、たんに見いだされないのみならず、存在しないのであれば、涅槃に至る主体としての我も存在しないことになる。いったい、悟るのはだれなのか?涅槃に至るのはだれなのか?
P74 結論をいえば、ブッダは、自己についての議論は、否定したが、自己そのものの存在については肯定していた。否定されたのは、相対的な議論の中に埋没して、真実の姿を見失っている「滅すべきものとしての自己」であって(これをブッダは、別の場所で「小我」と呼んでいる)、「自己の主としての自己」ではない(同じように、これは「大我」と呼ばれる)。
 この「真実の自己」、もしくは「大我」こそが、先に述べた解脱の主体なのであり、それがあるからこそ、人は、「すべての所依を捨て去れば、渇愛尽き、滅し尽くして涅槃に至る」ことができるのである。
 ブッダは禅定により、瞑想によって、悟りを得た。法を悟った。この「悟り」の中身は、まさしく「自己の主」との邂逅でなければならない。
 自己すなわちアートマンは、いかなる分析的方法によっても捉えられないし、感覚を通じて把捉することもできない。
 したがって、人がしばしば自己と同一視してしまう自我も、アートマンではありえない。それはそれ自身になること以外に触れることができない。そのためにブッダは、菩提樹下に座った。(引用終わり)


上記の文章は、藤巻一保さんという方が書かれたものです。「滅するべきものとしての自己」「自己の主としての自己」この二つを明瞭にとらえて書かれています。悩みや不安、怒りに振り回されない。生きるのが楽になる。このような方向性ではなくて、「悟りとは何か?」と深く深く掘り下げている必読の本です。

私にとって、「いったい、悟るのは誰なのか?」という問いは、自明のものすぎて、あえて問いとして、問い直すということはできませんでした。この問いの答えは、普段から使用している「自己の主としての自己」ということになります。「自己の主としての自己」は意識の起源です。「個人」という思考に主観を不可分に付与します。「個人」という思考が、消滅すると、むきだしの「自己の主としての自己」そのものを領解します。「自己の主としての自己」は、仏性のことです。(ここまでのことは、上記の本に書かれています)

この「いったい、悟るのは誰なのか?」という問いを突きつけられたとき、解脱という構造は存在しないということを思いました。

むきだしの「自己の主としての自己」の状態は、この世の全てが消滅する刹那です。時空が存在しない状態とは「無次元の点」のことです。無次元の点に、最高次の概念となる「自己の主としての自己」という情報が割り当てられています。この世の隅々まで「自己の主としての自己」は、遍在することになります。全ての存在は、この唯一の「自己の主としての自己」を使用します。

つまり、この世の存在の全ては、同一人物という構造です。最高次の情報の構造上、目の前の人物も自分ということが可能です。
意識の起源が全ての人に共有され、その意識の起源そのものに至ることが悟りであるとき、救い出して他の場所へ行ける自己や永遠に滅することの出来る自己は存在しません。それは、悟りという五蘊皆空の境地は存在しても、解脱という構造は存在しないということです。

ここまで読んでくれた方、ありがとうございます




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読書12 『図説雑学 パラドクス 富永裕久 著』

2020年04月16日 | 意識と悟りの構造

こんにちは、領です。

『図説雑学 パラドクス 富永裕久 著』

この本を読んだときに、思ったことを書きます。

言語は、人間の知能において最高のものだと思っていました。
私の問いに、「一秒たりとも苦を感じないでいられる思考はあるのか?」というものがありました。
例えば、「前世では逆のことをしたから仕方ない」「この世は魂の修行場」「児童虐待は親も虐待を受けたことによる連鎖」こんなふうに今の苦境を受け入れるための思考っていろいろあります。その究極が「一秒たりとも苦を感じないでいられる思考」です。「快を常(じょう)とするための思考」のことです。
結果、そんなものは存在しないという思考に落ち着きました。言語は、日常の範囲内でしか役に立たないものだと思いました。人間の知能において最高のものというような輝かしいものではなくなりました。一見、優秀そうな“言語”というものに、思考が停止するほど落胆しました。生命維持はするロボット状態になりました。
不完全な状態がこの世の基本の状態と理解しました。(今は、言語に頼ってブログを書いています。)

範囲を限定しないと思考は使い物にならない。「おなかがすいた」「ありがとう」「ちょと待ってて」思考は、日常の範囲で使うもの。
思考によって独立自存の絶対の真理はつかめない←この思考も独立自存在の絶対のものではない←このように突っ込み入れる思考も独立自存の絶対のものではない←以下無限
何もかもが確定しないことすら確定しないことすら確定しないことすら確定しない・・・以下無限
無記か沈黙かするしかない。数学も例外ではないです。というより、そもそもこの世の全ては数学的です。
何をどう思考するかは、本人の好みになります。それが数式に従います。
この世にあらわれるには、有限の範囲に振動し循環しなければなりません。循環振動することによって有限が存在できます。
端っことか、確定とか、存在しなように設定されてこの世は存在します。

それでも、唯一、常(じょう)は存在します。全知は存在します。それは、この世と反この世を一度に全て観ることです。反この世の“反”は反物質の“反”と同じ意味です。
この世の存在は、波の性質で展開するので、全てを観ることは、干渉して潜在し一見、無の状態に至ります。それは無次元の点であって、常です。
全てが無でも存在するのが観自在です。観る自己が存在するという意味で、自己感のことです。普段使っている「私」という主観のことです。「私」は無次元の点に割り当てられた情報で、時空に遍在します。「私」は、唯一として存在し、全ての人に共有されています。全ての人は同一人物となります。誕生と死は、端っこではないことになります。誰かの前世来世ではなく、全て自分の前世来世です。そして、悟りとは、むきだしの「私」を領解することです。

今回の読書P214 輪廻転生のパラドクス~転生を考え、すべての自我が本質的に同じと考えると~「いま」これを書いている私と、時空を隔てて「いま」これを読んでいるあなたは、ひょっとすると同一人物かもしれない。(引用終わり)

『図説雑学パラドクス』の最後の二行の文章です。
ここを読んだとき、体験ではなく、思考のみでこの思考を持つ人がいることにとても驚きました。

ここまで読んでくれた方、ありがとうございます

 

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