私とは何か?と問うことに気付いている「私」とは何か?

私とは何か?意識の起源とは何か?悟りとは何か?般若心経とは何か?これらの問いの答えを考える。

双対性の世界観

2022年04月29日 | 意識と悟りの構造

こんにちは、領です。

最近、相対性という言葉より双対性の方が何だかなじむ・・・と考えました。

最近考えたことを書きます。

「人類の精神性の進化が加速している時代」
「人類の精神性は全く進化していない」
この両方を目にします。
人類の精神性の進化、それが基本的に向上・進化すると思考すると見誤るかもしれません。

人類は、サルより賢い故にサルより愚かという構造です。
精神性の進化は両極が拡大する構造です。
精神性の進化という、行きたい方向だけで存在を顕すことは不可能です。
この世界は、双対性をまぬがれて存在を顕すことは不可能です。
人の賢さも愚かさも、今、地球が持ちうる最大に迫っているかもしれません。

今までの数学で万物の理論を求められると思っていました。
数学は、絶対的な力があると思っていました。
ABC予想の証明によって、今までの数学ですら絶対的なものではないということがわかりました。
ポアンカレは「違うものを同じと見なすことが大事」
望月新一博士「同じ物を違うと見なすことも重要」
行ったり来たりできる数学。
双対性を持った思考が必要になります。
片面だけでは、全知に至ることが無理なように、双対性の思考は必要です。
陰陽、世界反世界、相反する無限が必要です。

「双対性」という言葉が適切かはわかりません。
ネッカーの立方体のような関係性です。

「この世は錯覚だ」と言うとき、「間違って見ている」というニュアンスになると思いますが、そうではなく、そのまま本当に「錯覚」です。双対錯覚、多義錯覚。

ABC予想から一気に
自己□全ての他者  (□はネッカーの立方体です)
個□全て
つまり、この世の全ての人は同一人物という構造、無限一人芝居、自分と他人は同一だということに理解が行くといいな(*^-^*)

前回の記事で無次元の点が究極の多義図形と書きましたが、そう考えると無次元の点ですら双対性を持つといえます。「絶対」は、存在し得ないと考えました。
ここのブログで書かれていることも絶対の真理ではないと意識することは大切だと思います。

数学や物理だけが、双対性を持つ思考が必要なわけではありません。
人の思考・感情・行動も同じです。
嫌いな人がいないと好きな人もいません。
嫌いな人がいて好きな人が存在します。
好き嫌いだと子供っぽいかもしれません、共感や反発、受容や拒否でも良いです。
嫌ってもらわないと好かれもしません。

最近読んで面白かった本です。シマウマの話のネタバレ含みます。
『波紋と螺旋とフィボナッチ 近藤 滋』

第4章 シマウマがシマシマを持つ理由 解決編
P92 その答えに繋がる鍵が「模様を作っている原理」にあること、さらに、模様を作っているのは2種類の色素細胞のせめぎ合いであり、それは図1のようなネットワークで表せる、という事実にたどり着きました。
矛盾する制御回路の組み合わせが模様を生む
P99 ということは、もしかすると、皮膚の模様は波紋・・・・・・なのか?
P114 野生の動物の多くは中間色の均一な色合いだが、それを家畜化すると、ほとんどの場合、白黒(あるいは白茶)の不定形のまだら模様の個体が現れる。なぜか?
家畜化したことによって、「まだらを作る仕組みが進化した」というのはありえないから、「均一の色合いを保つ」仕組みが「壊れた」と解釈するのが妥当である。で、この均一中間色を作るネットワークに変異が起こり、相互排除効果だけ残るとどうなるか?そうです。白黒(あるいは白茶)のどちらかが一方的に優勢になるだけなので、ぶち模様ができる。目立ちすぎるので野生では生きられないが、家畜は人間が守ってくれるので、このような変異が起きても生存に問題はない。
P115 「ちょっと変異が起きて、均一中間色を失いシマシマになっちゃった。それでも、遠目に見れば灰色っぽく見えて、あまり困らなかったので、がんばってサバンナで生きてま~す」というわけ。
引用終わり

シマウマの話を読みながら思ったこと。

家畜・・・白黒模様の個体・・・
敵か味方か、全か無か、白か黒か・・・このような極端な思考と、支配者が一般市民を家畜と呼ぶのは関係している。
白黒思考は家畜化されている証拠?
シマウマのシマシマを作るネットワークと人の思考は同じ数式で表せる・・・
こんなことを考えました。
何でテレビの内容をそのまま受け入れることができるのか?
数式に従っているだけ・・・。白黒思考でも生存できる時代。
そして、どんな思考も双対して存在し、全ては自分という構造です。

「全ては自分」という構造は、この世に存在する苦痛と快楽は、「自分」が当事者として経験するということです。それが可能な構造です。
支配者とか一般市民とか、色々な人種とか、全て「自分」です。

これから先、核兵器で苦しむ人が存在する世界になりませんように。

 

読んでくれた方、ありがとうございます

 

作ってみました。四角のタイルは全て同じ色です。

いい人がちょっと悪いことをするとすごく攻められたり
悪い人がちょっと良いことをすると褒められたり
いい人が良いことしても印象が薄かったり
悪い人が悪いことしても印象が薄かったり
今なら、無茶苦茶な政治でもまかり通ったり・・・

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相対的在り方でしか全知(+∞□-∞)から“有”を顕すことができない

2022年04月16日 | 意識と悟りの構造

こんにちは、領です。

先日、NHKスペシャルでABC予想について放送されていました。

この番組を見ながら、光や電子の粒子と波動の二重性について物理学者たちがいろいろ論じ合い、光や電子などの物理現象が、粒子のような性質と波動のような性質を併せ持つと結論付けたことを考えました。
数学がより真相に近づいていると思いました。

ポアンカレは「違うものを同じと見なすことが大事」
望月新一博士「同じ物を違うと見なすことも重要」
行ったり来たりできる数学。

とってもワクワクする話がいっぱいありましたo(^-^)o

数学に詳しいわけではない、数学をイメージすることが好きなだけの私ですが、思ったことを書いてみます。

相対的な在り方だけが、存在を顕すことができる。
相対的な在り方でしか全知(+∞□-∞)から“有”を顕すことができない。

全知が存在するには、世界の構造がどう在るべきか。
全知を前提に構築しないとならない。

「全知」をかかえた瞬間、「全知」+αによって永遠に全知に到達できないと思われがちですが、相対的な在り方の全知(+∞□-∞)であれば、打ち消しあってゼロの状態になり、無次元の点として、全知に至ることができます。
全知と相対的在り方は深く関係しています。

(+∞□-∞)=0
□はネッカーの立方体です。+と-は相反する性質という意味です。

ネッカーの立方体は、上から見た立方体と下から見た立方体が入れ替わります。
以前も書きましたが、どうにか同時に立方体を見ようとしたら平面の模様になってしまいました。立体としての存在が消えてしまいました。
波動性と粒子性は、確定的な同時観測はできないことを考えました。

ネッカーの立方体は、上から見た立方体と下から見た立方体が交互に見えます。
このような多義図形はたくさんあります。
究極の多義図形・・・それって無次元の点だと考えました。無次元の点からは+∞と-∞が、つまり世界の一切が顕われます。世界、反世界。

余談ですが、DNAの二本鎖がコピーされるとき、DNAの合成は、5' から 3' への方向にしか行えないので、ラギング鎖では 3' から 5' への方向の合成の際、岡崎フラグメントが必要に成ることと時間ということの関係・・・何だか気になります。

それはさておき、

ネッカーの立方体を上下同時に見ようとしたとき、立体が消えてしまったように、この世の相反することを平等に観たとき、涅槃寂静に至ることは同じ構造です。善悪・快苦・生死・自他を平等に観る。

そこで何を悟るか。何を明らかに知るか。無次元の点が全てに対して、どのような関係を持つのか。
この世の存在に「確かに存在する」という作用、作用というより、在るから在るという感じです。それを一応、私は「観」(かん)と呼んでいます。
渦の中心に必ず在る中心点のことです。

「・」=(+∞□-∞)

存在する全てに唯一の「観」が在ります。
全知を可能にするには唯一の「観」という構造が必要です。

この「観」は、「私」ではありません。
この「観」は、この世に存在する全ての「私」を確かに有とするために在るものです。

そこに注意ですが、あえてわかりやすくすると

「私」が全てを知っている=全知
全知=「私」が全てを知っている。

個であり、全ての人が「私」という構造。それが全知です。

無次元の点は、時空に遍在します。時空は、「観」に隅々まで満たされています。
人が「観」(仏性・神)を有しているわけではありません。
「観」(仏性・神)に満たされた海に、人という現象が漂っているだけです。人という現象が消えれば「観」のみの根源的状態になります。
「観」が存在しなければ、「私」は、無と同然です。

ネッカーの立方体のように、一つに対して二つの見え方が在る。
同じ唯一のものであり、異なるものである。
このような相対関係が、全知からつかの間の“有”を存在させる唯一の方法・・・。

なんてことを考えました。

そこで、何が言いたいかというと
核兵器のボタンを押すとき、それは「自分」の頭上に落とされるということです。
テレビの中で苦しむ人は、そのまま「自分」ということです。

昔、攻殻機動隊でタチコマが「映像に証拠能力はありません。」というようなことを言っていたけど、確かに何が何だかわからない状況です。日本も安全ではなくなったりしたら・・・。

「みんなー全部、自分だよー!!」って叫びたいです。

読んでくれた方、ありがとうございます

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ブッダは何を観たのか?と想像するためのメモ

2022年04月04日 | 意識と悟りの構造

こんにちは、領です。

ゴータマ・ブッダは何を観たのか?

『生きて死ぬ私 茂木健一郎』
P172 「もはや、キリストの教義も、ブッダの教義も、私たちの持っている宇宙や人間に関する知識とは相容れないものになってしまった。もし、次の宗教的天才が現われるとしたら、その人は、今日の最高の知性でさえ納得せざるをえないような、世界と人間に関する新しいシナリオを提示する人となるだろう。そして、その教義は、現在、私たちが持っている宇宙や人間の成り立ちに関する知識と整合性を持つものでなければならないだろう。」

ブッダの教義が現在の知識と整合性が取れない・・・とありますが、表現する方法の限界があっただけで不整合ではないと思います。いずれにしても私も現在の知識と教義に整合性がなければならないと考えます。

『小学館学習まんが人物館 ガリレオ』
P66「もし空位の抵抗を考えなければ、大砲を四五度の角度にしたときに、砲弾の飛ぶ距離は最大になるはずです。」

物体の運動は、科学の知識で理解することができます。しかし、知識による理解ではなく、こう投げれば遠くまで行くというふうに体得することもできます。

どちらも観察することが必要です。ブッダは、観察によって縁起を理解し、縁起の観察によって五蘊が滅する境地に至りました。「行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空」のことです。これを当時の言葉で残しました。ブッダが観たものは、摩訶不思議な神秘現象ではなく、私たちの現実世界、身体、思考、感情、行動、意識を観察した結果得られたものです。

『小学館学習まんが人物館 ガリレオ』
P43「なにごとも実験や観察を行えば、どれほど議論をつくすよりもかんたんに、真理を手にすることができるのです!」

「どの経典がより優れているか?」「よりブッダの言葉に近い経典はどれか?」「ブッダの悟りとは何か?」「縁起とは何か?」と議論を尽くすことも役立ちます。いろいろな本は参考になります。
それと同じく、科学の土俵で「ブッダは何を観たのか?」と考えることも役立ちます。エネルギー収支を越えた奇跡は起こりえない。神秘ではない科学的な理解が可能です。

たった一回きりの神秘体験ではなく、普遍的な物理現象として理解することができます。

現在の科学・物理・数学を参考にすることが可能です。
ブッダの観たものを、現在の科学で解釈することが可能です。
現在の科学は、ブッダの観たものを参考にすることが可能です。

ゴータマ・ブッダは何を観たのか?
ブッダは、量子的世界観を観ました。
諸行無常、諸法無我、縁起、一切皆苦を観察によって了解し、執着と煩悩を持つ自分自身と世界が吹き消える涅槃寂静に至りました。
量子力学などを代表とする現代科学を知らなくても観察によって体験的にこの世の実相を理解していったと思います。

私は、全てが滅する境地を悟りとしています。そこでも在るのが「存在を有と認める作用」です。無次元の点の物理作用です。
人間の肉眼の「見る」という行為にとても似ているので、人間寄りの解釈として「真の自己」の焦点とされます。
私は、「真の自己」「永遠の命」「大日如来」「神」などではなく、「存在を有と認める作用」「在るものを在るとする作用」とする方が、科学としてあつかいやすいと思います。

ゴータマ・ブッダは何を観たのか?
この問いの参考になる本は、いろいろあります(*^-^*)
今までここのブログで紹介した本たちもそうです。
最近読んだ本では・・・
『時間は存在しない カルロ・ロヴェッリ』です。
読んでいる途中ふと、「この本を読んだら、ブッダが何を観たのか想像できるのに」と思いました。そうしたら、仏教の話出てきました。やっぱりですね(*^-^*)
国際連合の本部入り口に刻まれている詩について書かれていて
「アーダムの息子たちは、一つの身体の手であり足であり、
彼らは同じ精髄から作られている。
どれか一つの部分が痛みに苦しむと、
他の部分も辛い緊張にさいなまれる。
人々の苦しみに無頓着なあなたは、
人の名に値しない。」

この「一つの身体」として観ることが観念・理想・仮定・道徳ではなくて物理的構造によって現実のものだという認識に現代科学が至ることが大きな節目だと思います。
「存在を有と認める作用」は、最上位のものであり最低位に遍在する構造です。
人々の人生を「有と認める」焦点は、唯一として存在し、この世の人々は同一人物という構造になります。この世は、「全てが自分」という構造が可能です。
全てが「自分」であるとき、「囚人のジレンマで二人合わせた刑期が最短になる選択をすれば良い。」と前回書きました。二人の刑期は全て「自分」の刑期だからです。

「この世の人々が同一人物」「全てが自分」であるとき、苦しみや不幸の総量が少なくなる選択がしたくなります。縁起縁滅の法により過剰な快と幸福も諦めなければなりませんが・・・。
ミサイルを撃ち込まれたり、長期的な作用がわからない薬液を打ち込まれたり(分かってきていますが)・・・全部自分の体です。ただ、このまま人口増加が進んで資源の奪い合いが激化するとか怖いです。どこかの国では隣人とナタで斬り合うとか・・・。
地球はどうなるのでしょうか?
いつも地震の備えをしていないといけないし、不安は尽きないです。
縁起縁滅の法の性質により、幸福と不幸の両極が存在しないと、世界は存在を現わしません。幸福だけが継続される選択肢は存在しません。
それでも、「全てが自分」という物理構造が常識になってほしいと願います。

話を本に戻します。
この本には、ワクワクする文章がいっぱいです。
P10「時間の正体は、おそらく人類に残された最大の謎なのだ。そしてそれは、奇妙な糸によって、精神の正体や宇宙の始まり、ブラックホールの運命や生命の働きといった未解決の謎とつながっている。」
P98「この世界が「物」、つまり物質、実体、存在する何かによってできていると考えることは可能だ。あるいは、この世界が「出来事」、すなわち起きる事柄、一連の段階、出現する何かによって構成されていると考えることもできる。ずっと続くものではなく絶えず変化するもの、つまり恒久ではないものから成り立っている。基礎物理学における時間の概念が崩壊したとして、この二つの考え方のうち前者は砕け散るが、後者は変わらない。それによって、不動の時間のなかに状態があるのではなく、限りあるものが遍在(もしかして偏在?遍在に深い意味があるのかな?ブログ著者)することが示されるのだ。この世界を出来事、仮定の集まりと見ると、世界をよりよく把握し、理解し、記述することが可能になる。これが、相対性理論と両立し得る唯一の方法なのだ。この世界は物ではなく、出来事の集まりなのである。」
P100「わたしたちはずっと、この世界をある種の基本的な実体の観点から理解しようとしてきた。物理学はほかのどの分野よりも熱心に、それらの基本的な実体の正体をつきとめようとしてきた。だが調べれば調べるほど、そこに「在る」何かという観点ではこの世を理解できないように思えてくる。出来事同士の関係に基づいたほうが、はるかに理解しやすそうなのだ。」
P153「十二世紀の神秘家ヒルデガルト・フォン・ビンゲンの声なのか?ヒルデガルドは絶対を求め続け、ついには宇宙の中央に「普遍の人」を据えた。」
P195「いずれにしてもほんとうに信用できるのは、この世界の時間構造がわたしたちの素朴なイメージと異なるということだ。時間の素朴なイメージは、日々の生活には適していても、この世界をその細かい襞に至るまで、あるいはその広大なありようのままで理解するには不向きなのだ。そしてほぼ間違いなく、わたしたち自身の性質を理解する上でも十分ではない。なぜなら時間の謎は、個人のアイデンティティーの謎、意識の謎と交わっているのだから。時間の謎は絶えずわたしたちを悩ませ、深い感情をかきたててきた。そしてその深みから、哲学や宗教が生まれてきた。
思うに、科学哲学者のハンス・ライヘンバッハが時間の性質に関するもっとも明快な著書の一つ『時間の向き』で述べているように、パルメニデスが時間の存在を否定しようとし、プラトンが時間の外側にあるイデアの世界を思い描き、ヘーゲルが、時間制を超越して精神が全き己を知る瞬間について、論じたのは、時間がもたらす不安から逃れるためだったのであろう。わたしたちはこの不安から逃れるために、時間の外側にある「永遠」という未知の世界、神々、あるいは神、あるいは不死の魂が住まうであろう世界の存在を思い描いてきた。
わたしたちの時間に対する態度がひどく感情的であったために、論理や理性よりもむしろ、哲学という名の聖堂の構築が推進された。さらに不安とはまるで逆の感情的な態度、たとえばヘラクレイトスやベルクソンの「時間への畏敬」からも多くの哲学が生まれたが、それでもわたしたちは、時間の理解にまるで近づくことができなかった。
物理学は、幾重にも重なる謎の層を突き抜けようとするわたしたちに力を貸す。そして世界の時間構造がいかに自分たちの直感と異なるかを示す。そのうえで、自分たちの感情が引き起こす霧に惑わされずに時間の本質を研究することができる。」〈引用ここまで〉

「哲学・永遠・神」に対する著者の態度がちょっと物足りないです。「精神が時間を超越すること」「神とされる物理状態」などは、物理学であつかってもらいたいです。とわいえ、とってもワクワクする本だったので、この著者の『世界は「関係」でできている』も読みました!それについてはまた次に。

読んでくれた方、ありがとうございます

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