私とは何か?と問うことに気付いている「私」とは何か?

私とは何か?意識の起源とは何か?悟りとは何か?般若心経とは何か?これらの問いの答えを考える。

五蘊皆空とは、自己消滅のこと

2019年01月28日 | 意識と悟りの構造

こんにちは、領です。

以前の投稿記事を自分で読んでみたのですが、なかなかの書き散らかし具合に落ち込んでいます。うまく伝わるようにきちんと情報を整理して書けていないです。なんとか頑張って書いてみます。

般若心経の「五蘊皆空」について、掘り下げてみようと思います。五蘊とは、自分としている感覚情報や精神作用、自分に対峙する世界のことであり、この世の一切のことです。「五蘊皆空」は、この世の一切が空だということです。

「空」は「波が重なり合って潜在し、無の状態をとる」という意味で、無次元の点のことです。空は、この世の一切の生成消滅の起点です。さらに、この世の一切は、無次元の点の組み合わせです。縁起縁滅の法に従って存在の関係性が伝播します。縁起縁滅の法とは、万物の方程式のことです。私たちの存在は、時空から取り出せるような独立したものではありません。

この世の一切が、無次元の点の組み合わせでしかないという意味で、この世の一切は、実態がないといえます。しかし、関係性は、存在します。無次元の関係性の情報だからといって、毒を飲むようなことはしません。

「五蘊皆空」は自己消滅のことです。個人としていた思考、感情、身体、行動、つまり仮我としていたものが消滅すると言うことです。仮我を含め、この世の一切が消滅したとき残る情報が「自己が存在し観ている」です。「私に気付いている私」のことです。意識の起源そのものの状態です。大それた如来にはなりません。

無次元の点に割り当てられている「自己が存在し観ている」という情報は、当然、時空に遍在することになります。「自己が存在し観ている」という情報に満たされた時空上を五蘊が展開するだけです。生きているときも、(あるとすれば)死後も継続するような、個人のものとできる「自己」は、存在しません。時空から特別に、縁起縁滅のシステムの外に存在できる、もしくは滅する「自己」は、存在しません。解脱という救いは存在しません。

数式に則って、波が干渉すると高さゼロの位置が存在するように、自己消滅は時空上に配置されています。この世は、数式に従う決定論であり。自由意志は存在しません。自己について問うことができる人間は、特別な存在のように感じますが、縁起縁滅のシステムの中の存在です。

 

「五蘊皆空」「観自在」を領解したとき、私がつぶやいたことを書きます。

 

私は、「私」だったんだ。

悟りを開いたとされる人は、まったく同一の「私」(「自己が存在し観ている」という志向性)に至っている。

この「私」を介して、私と悟りを開いた人は同一人物・・・。

あれ?嘘でしょ、やだやだ、え?えええええ!?

違う!!これみんな使ってる!!

この世のすべての人が、同一人物だ!!

「私」は、唯一の存在で、全ての人が、まったく同じ「私」を共有してる。

たった、今、現在過去未来、全時空において、全ての今に「私」は接している。

 

このとき、結構おどろいたけれど、思い出したような感覚でした。そういえばそうだったのに、よく忘れてたな・・・。という感じです。

 

全ての人が同一人物ということの意味は、例えば、タイムマシンで5年前の自分を見たときと、同じ質で目の前の他者を見ることができるということです。

慈悲とは、利己的なものになります。

しかし、縁起縁滅とは、波の性質の方程式であり、振動することが存在の条件です。慈悲を持って生きるという状態に留まらないように的確に、世界は展開します。

 

ここまで読んでくれた方、ありがとうございます

 

 

 

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無と空と般若心経

2019年01月22日 | 意識と悟りの構造

こんにちは、領です。

前回の記事で、「自分としていた、感覚情報、精神作用、身体、そして、対峙する世界、これらの一切が重ね合わさり潜在し、無になる。」と書きました。今日は、この文章について説明をしようと思います。

 

一般的に、「空」は、実態のないこと、変化し続けるものに固定的な実態はない、状態や相互の関係しか存在しない、などなど見かけます。この説明だと縁起や諸行無常の説明とかぶります。縁起、諸行無常、諸法無我を包括する概念が「空」ということになります。しかし、実態がないといわれても何が何だか理解できないと思います。

 

私自身は、「空」について、無次元の点と考えています。この考えもよく見かけますよね。

「空」=「潜在して無」と考えたとき、般若心経の解釈は、納得しやすいと思います。「自分としていた、感覚情報、精神作用、身体、そして、対峙する世界、これらの一切が重ね合わさり潜在し、無になる。」という一文は、般若心経の「五蘊皆空」のことです。五蘊が重ね合わさり潜在して無になることが「空」です。

「潜在して」ここがポイントです。縁起縁滅の法は、波の性質をもちます。同じ高さの相反する波が重なり合うと一瞬、高さゼロになってすれ違います。お互いの波自体は保存されているので、すれ違えば、また、波は存在し伝わっていきます。この世の一切は、無の状態から対生成し対消滅します。すべてを重ね合わせれば、無になります。潜在して無ということの意味は、重ね合わさって潜在して無ということです。

この「潜在して無」の境地は、この世の一切を一度に観ることであり、全知でありながら何も存在しません。この「何も存在しない」という思考すら存在しない境地が「悟り」です。足し合わせればゼロになる、相反する無限であれば、全知は可能なのだと思います。

そして、この「無次元の点」に「自己が存在し、観ている」という情報が、割り当てられています。般若心経の観自在菩薩は、意識の起源としての「自己が存在し、観ている」という意味が込められているのではないかと、私は、思います。

無次元の点に割り当てられているということは、「自己が存在し、観ている」という情報は、時空に遍在しているということです。「自己が存在し、観ている」を簡単に「私」と表現すると、私たちは「私」の海の中を泳いでるようなイメージです。

「私は、どこから来て、どこへ向かうのか?」このちょっと言ってみたくなるフレーズの答えは、「私」は、ここからそこへと移動するものではなく、不生不滅不動の情報となります。「私」とは、これ以上の情報が存在しない、最上位の概念なので、一番シンプルな無次元の点に割り当てられています。最上位概念は、時空に遍在する構造を持ちます。この世の全ての人は、唯一独存(尊)の「私」を使用しています。今、地球上には何十億と人がいます。過去未来、たくさんの人が存在します。その全ては、同一人物と捉えることができます。最上位の情報は、このような構造を持ちます。

目の前の他者を、自分が生きているということは、究極の因果応報です。

 

すべての人が、自分ということが数学的に示唆されたとき、平和になるでしょうか?答えは、「平和には、ならない」です。

縁起縁滅は、波の性質の方程式です。存在することの条件は、振動することです。この世は、引き寄せたい要素と引き離したい要素、つまり、快と苦の両極に振動しなければ、存在できないのです。それが諸行無常ということです。悟っても、無に潜在する一瞬を知るだけで、もともと持っていた性格は、保存されます。つまり、すごい人になったりしません。

死や悟りは、方程式どおりにあらわれる、存在と存在の節目のようなものです。解脱も自由意志も存在しません。対で生成消滅するものに絶対の真理は、存在しません。そのような思考の形が方程式どおりに、存在しているだけです。

 

おまけの考え事

以前、縁起について考えていたとき、「縁起」が存在するなら、「縁滅」も存在しなければならないと思ったので、検索してみました。そうしたら「縁滅」という言葉がありました!

「縁起は、縁起縁滅の略」だそうです。ここは、略してほしくない!!!と声を大にして言いたいです。

縁起縁滅を略すことは、磁石のNS極を分離するようなものです。

 

ここまで読んでくれた方、ありがとうございます(*^-^*)

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悟りは、とても簡単なこと

2019年01月21日 | 意識と悟りの構造

はじめまして!領です。
思いつくまま、書きたいことを書いていこうと思っています。

不整脈がひどいので、明日の朝、目覚めることなく冷たくなっていても後悔しないように記事を書きます。
やはり、運動しないといけませんね。

さっそく、悟りについて書きます。

悟りとは「自己が存在し、観ている」という志向性そのも、それだけになる状態のことです。
簡単に表現すると、普段使用している、「今、自分が自分と感じている自分」だけになることです。
今、みんなが普通に使っている「私」の感覚のことです。自分に気付いている自分のことです。
「如実知自心」のことです。

悟りの境地について、一部を理解するだけなら20秒で可能です。
目をつぶります。眼球は上を向いているので、無理矢理まぶたを開けると白目になっています。それでも、前方を見ている感覚があります。乾燥してしまうので、まぶたは、閉じておきます。眼球を左右に動かすと視点が左右に動きます。動かし続けていると眼球の動きに伴わない不動の焦点があらわれます。それが「自己が存在し観ている」という意志です。眼球の「見る」ではない「観る」です。この不動の焦点のみの状態が悟りの境地です。第三の眼のことです。

自分としていた、感覚情報、精神作用、身体、そして、対峙する世界、これらの一切が重ね合わさり潜在し、無になる。そこでも残るのが「自己が存在し、観ている」です。

悟って、違う何かにはなりません。悟りとは、この世の一切が消えたとき「私」という情報のみの状態を知ることです。
悟りは、宗教的体験や神秘体験ではなく、普通のよくある物理現象です。

ここまで読んでくれた方、ありがとうございます

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