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みやこ海風だより

市議会報告からNPO活動、海を活用したまちづくり、文化創出のまちづくりをベースにしたつぶやきです。

12月28日(水)のつぶやき

2011-12-29 01:25:57 | Weblog
09:05 from web
寒い朝が続く毎日。本日が御用納めとやらで、世間はもう年末モードに入っている。しかし、我々はまだ仕事が。。。予定では30日を目処にしているが、ここ数日の市街地の大渋滞で上手く仕事がはかどるか心配だ。
16:41 from gooBlog production
餅つきは今日。明日はニグマレモーズだがえ~。 http://t.co/v0F5iZzL
by umikaze_hashi on Twitter

餅つき

2011-12-28 16:21:13 | Weblog
正月を迎えるにあたり、いつの頃から餅をつくようになったかは定かではない。

宮古地方では本日、12月28日に正月用の餅をつく。

実際には28日よりも前だったりもするが、翌日の29日は数字の語呂から

「憎まれ餅」とされ、この日だけは縁起をかついで餅をつかない。

餅という食べ物は米で作る最上の保存食であり、古くから我が国に伝わる水田稲作

文化の中でも最上級に値する食べ物である。

餅は正月の食べ物として比較的めでたい、または民俗学で言う「ハレ」状態の

食べ物と考えられがちだが、死者を弔う葬儀にも登場する。

祭壇に備える「四十九餅」や墓所で行う「兄弟餅」、「引っぱり餅」などの風習がそれで、

餅を近親者や隣組で分けたり、餅をちぎって捨てることが『死者との食い別れ』を

意味するとされる。

また、餅を鍋の蓋の上で切ったり、塩をつけて食べたりすることで葬儀の特殊性を表したり、

死者があの世へ旅立つまでの四十九日間、一日一個ずつ食べる生命、魂の象徴とも考えられている。

餅を魂の象徴とする捉え方は正月の鏡餅やお年玉などにも通じるもので、

1年のスタートである正月の祝い餅、子どもの初誕生日や節句の祝い餅、家屋の棟上げなどで

振る舞う餅と共通する。

餅は私たちの暮らしや、人生の節目、記念日などに必ず登場する稲作文化を引き継いだ、

日本文化の象徴のように思える。



お飾り市

2011-12-26 09:56:42 | Weblog
宮古地方に古くから伝わる年末の風物詩「お飾り」の市が宮古魚菜市場駐車場で始まった。

期間は本日27日から31日まで。

お飾りは、その年の豊作、大漁、商売繁盛、家内安全、夫婦円満など祈って神棚や年棚などの下に貼る

和紙である。



半間や1間の和紙に七福神や恵比寿、大黒などの図柄を墨や極彩色で描いている。

図柄の種類は豊富で、昆布や日の出、富士山、大判小判、出船入船のほか、お供え餅、イカ釣り、茄子、

鷹、馬、牛など多様なものがあり、その家の職業などに合わせて選ぶ。



お飾りは年末のススハキの時にはずし、大安吉日か年越し、もしくは元旦早朝に新しいものと取り替える

が、不幸があった家では年末を待たずに剥がし、清めて燃やし、その灰を川に流す。

農村や漁村には行商が家々を回って売って歩いているほか、近年はこうした市が開かれている。

お飾りの原型は切り絵だとも言われている。

昔は「宝来」とも呼ばれ、その起源は江戸時代末期からとの説もあるが、その詳細は不明だ。

明治以降は盛岡の絵師が年の暮れに宮古を訪れ「福の神」の絵を行商したともいわれている。

それを冬場に仕事のない左官や仏師屋などが、これをまねて始めたのが今日に受け継がれたものだ。



本日から始まったお飾り市には8店舗が軒を並べている。

今年は震災の影響もあり売り上げが今一つ心配と話していたが、

市には多くの人が訪れ、来る年への明るい期待を込めてそれぞれのお飾りを買い求めていた。






文化によるまちづくり

2011-12-19 11:54:26 | Weblog
昨日、震災後の「新しい公共のあり方」について考えるワークショップ「いわて三陸復興のかけ橋」に参加した。

講演の講師は劇作家の平田オリザ氏。その講演の中で話されたキーワードは「新しい広場を作る」ということだった。

復興は経済原理だけで急ぐと、社会的弱者の居場所がなく息苦しい社会が危惧されるということである。

復興はもちろんやらなければならない事だが、大事なことは人と人が出会う新しい広場を作ることである。

言うなれば「文化によるまちの再生」である。ハードだけにとらわれず「文化の自己決定能力を持つ事」と、

「ソフトの地産地消」を作っていくことが掲げられた。

多くのまちづくりの失敗は、自分たちの強みであるものを、自分たちで考えられなかったこと。
 
大手企業等中央に丸投げしたことで文化的に搾取されていったことが、地域の自立を阻んできた。

「文化によるまちの再生」ーこうしたソフトの復興計画の必要性も大きく感じている。

戊辰戦争と宮古海戦

2011-11-05 09:08:31 | Weblog
本日と明日、宮古市において第12回全国新撰組サミットが開かれる。

このイベントは全国の新選組にゆかりがある市や町、関係者が集結し、会議やイベントを開催しているものだ。

今回は142年前、土方歳三が「箱館政府陸軍奉行並」として軍艦「回天」に乗り込み、新政府軍と海戦を行った地、

宮古での開催ということになった。
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慶応4年(1868)に始まった戊辰戦争は幕末から明治にかけて日本全土を戦火に包んだ。

その戦いはこの宮古の地まで北上。見果てぬ夢を追いかけた男たちの壮絶な戦いがこの地で繰り広げられた。

ある者は海に散り、ある者は命からがら再び北へと彷徨した。

明治2年旧3月25日、後の「箱館戦争」の明暗を分けたとも言われる近代日本初の洋式海戦「宮古海戦」は

わずか30分あまりの戦いだった。

だが、相手の軍艦を奪い取る奇襲作戦というドラマチックな戦いだった。

北海道箱館に立て篭り、新政府との戦いに備えていた旧幕府軍は、旗艦「海陽」を失ったため、新政府軍の「甲鉄」を

宮古湾で奪い取る作戦を企てた。

「アポルタージュ!」

しかし、戦いは新政府軍の勝利に終わる。

硝煙の海原に夢破れた男たちの時代が過ぎ去った。

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この時の宮古海戦では、若き日の東郷平八郎が新政府軍「春日」に乗り込んでいた。

左舷一番砲担当士官射師士だった。

後に、日露戦争で連合艦隊司令長官となり、バルチック艦隊を日本海で撃沈した東郷は「アドミラル東郷」として

世界に知れ渡った。

宮古海戦の戦いが、日本海戦の「此一戦」に生かされたともいう。

市内光岸地の大杉神社境内にある「宮古港戦績碑」の額字は東郷平八郎によるものだ。


仮設クラブハウス

2011-11-01 09:03:37 | Weblog
津波で被災し使用不能となったヨットハーバーのクラブハウス代替施設として、

ヨットや NPO 活動の拠点となる仮設住宅を高知県建築設計監理協会から寄贈された。

この仮設住宅は、同協会が近い将来発生が予想される「南海地震」に備え、

仮設住宅の自給体制を構築しようと研究を重ねてきたもので、

そのプロトタイプ2棟(1棟は施設仕様に変更)を当NPOに寄贈してくれたものだ。

我々はこれをクラブハウスとして使用することとした。



作業は10月29日、30日の2日間。

高知県トラック協会の支援のもとで運ばれてきた建材を10トントラックから下ろし、

呼びかけて集まった会員および高校ヨット部員たち30人と建築を行った。



高知県からは協会メンバー3人、棟梁2人、同行取材のマスコミからも1人がやってきた。

彼らの指示のもとで、素人ながらも英知を結集して2DK(31㎡ 9坪)流し、トイレ、浴室付きの住宅を完成させた。


リアスハーバー宮古が壊滅的な状況で活動拠点を失い、さらに指定管理者を外され今後の活動の方向性が見いだせないでいた中での

この支援は一つの光明を見る思いだ。



今後、この施設を活用しながら我々の新たな活動の方向性を探ると同時に、復興に向けた港のビジョンづくりの拠点としていきたい。

石碑の教え

2011-09-20 17:44:22 | Weblog
三陸沿岸の須賀、港、寺院にはかならず津波記念碑や海嘯供養塔が建立し、津波溺死者の鎮魂、海神への祈り、子孫への警告を刻んでいる。

その数200基以上もある。ツナミのツとは船の着く所、ナミは並ぶ水の並水。

港(陸地)に打ち寄せる大波、チ(地)ナミ(浪)で、これがツナミに転音し海嘯、津浪、津波、ツナミと当てられたという。

三陸地方の津波記念碑、供養塔造立は明治29年(1896)から始まっている。

明治碑は「海嘯」の漢語をツナミと読ませ、生々しい惨状のみを刻んでいる。

昭和8年(1933)のツナミからは津浪、津波と書き、「津波が来たら高い所に逃げろ」と教えている。

さらに昭和35年(1960)チリ地震津波では「外国地震でもツナミが来る」と警告している。

ツナミを方言でヨダ(宮古)とか、オウソ(釜石)、アクソ(悪汐か)とか呼ぶ。

漁村の古老たちは「一生のうち2回はヨダに合うのス」と宿命的に言う。

つまり35年周期説、60年1回説とかほぼ40年に1回の説で津波は襲って来ていること言い表している。

小生もチリ津波の記憶は無いが親に抱かれて逃げた。そして今回の大震災で結果2回経験したことになる。あとは勘弁願いたいものだ。

以前にも紹介したが、重茂姉吉地区の記念碑には「高き住居は子孫の和楽 想え惨禍の大津波 此処より下に家を建てるな」とある。

大津波が日々の暮らしの中で常に想定内にあった先人たち。彼らはその恐ろしさを後世に教訓としてきちんと残してくれている。

これらの石碑はこれまでの暮らし方や価値観をあらためて問い直していることを肝に銘じたい。

海に還る

2011-08-29 08:48:11 | Weblog
昨日、海に出た。

震災後、まちの復旧・復興を願いながらも病魔に勝てず、

あの世へと旅立った海の仲間2人を、母なる海へと還してあげた。

ゴムボート二艇に、遺族をはじめ仲間十人ほどが乗り込み、沖へと向かった。

海はとても穏やかで真っ青な世界が広がっていた。

目的地の海の上で黙祷を捧げ、フォグホーンを鳴らしながら彼らの魂をそっと海に還した。

太陽に照らされ光り輝く海は津波など無かったようにとても眩しかった。

海を愛してやまなかった彼らの魂は、名残りの夏を惜しむように

いつまでも波間に漂っていた。