みやこ海風だより

市議会報告からNPO活動、海を活用したまちづくり、文化創出のまちづくりをベースにしたつぶやきです。

3.11 津波

2011-03-29 10:47:46 | Weblog
あれから20日あまり。やっと、そのことを綴れるようになってきた。

しかし、まだまだ街は壊滅的な状況であることを知ってほしい。



あの日のことを思い出してみよう。

あの日、私は宮古市役所で会議中だった。間もなく閉会を迎えようとしていたその時、

大きな揺れが庁舎全体を襲った。会議中の一同、騒然となりその揺れはかなり長く、

激しく続いた。庁舎が今にも崩れそうな揺れで会議場から飛び出す人もいたが、

私は机の下に身を隠し、持っていたボイスレコーダーでその状況を記録した。

それはよく分からないが、飛行機事故などに遭遇した時のような心境で、

何か記録とメッセージを残さなければと、覚悟を決めたものに近いものがあった。

長い揺れが止まったとたん、庁舎が停電となったが、すぐ自家発電での電気がついた。

閉会が宣言され、まだ騒然とした中、防災行政無線で大津波警報が発せられた。

私はすぐに庁舎を飛び出し、海辺の磯鶏地区へと車を走らせた。

この時点で地震発生から約10分くらいだろうか。

石崎地区の山の斜面が崩れ国道に落ちていた。

何か異様な感じがしてヨットハーバーにいくのをためらった。

磯鶏の町内をぐるりと回ってから自宅に顔を出し、

妻の無事を確認してまた市街地へ戻ることにした。

この時点で約20分が経過。(津波来襲まであと数分)

情報収集のため市役所に戻ることを決めて、来た道を戻った。

役所前交差点にさしかかったら、海辺方面から避難してきた車で渋滞となっていた。

これはダメだと思い、とっさに市役所に入らず松山地区にある会社に向かう

ことにして、大通りから宮町バイパスへと抜けた。

(おそらくバイパスを走っていた時に、市役所をはじめ市街地まで津波が来ていたものだろう)

このことが結果的に津波から助かる明暗を分ける道だった。

あのまま海側に車を向け、渋滞の中を市役所に入ろうとしたら、

きっと流されていたに違いない。

しかも、そこまで津波が迫って来ているという現実を知る由もなかったから。


バイパスから小山田橋にさしかかった。通行止めになっていたので車から降りて

川を見た。愕然とした。川がどす黒い色となって激しい勢いで逆流している。

小船や車などが流されてくる。一体何が起こっているのか理解できなかった。

宮古湾から2~3キロほどの場所なのだが、ただただその異様な光景を見つめていた。

この時、海辺の街が壊滅的に流されていることや、多くの友が津波に流されていること

など知る由しもなかった。。。。。