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帯とけの古今和歌集

鶴のよわいを賜ったというおうなの古今伝授。鎌倉時代に秘伝となって埋もれた和歌の艶なる情がよみがえる。

帯とけの百人一首 (六十一)

2010-07-04 04:20:57 | 和歌

      



             帯とけの百人一首
                (六十一)


 藤原定家の撰んだ和歌の余情妖艶なさまを、藤原公任の歌論に基づいて紐解きましょう。


 百人一首 (六十一)
                   伊勢大輔
 いにしへの奈良の都の八重桜 けふ九重ににほひぬるかな 

 古の奈良の都の八重桜、今日、宮中で九重に咲いた、あゝ色美しい……過ぎた辺りの寧楽の宮この八重さくら、京、九重に咲き匂ったことよ。

 「いにしへ…むかし…往にし辺」「なら…奈良…寧楽(万葉集の表記)…心やすらかな楽しみ」「都…宮こ…京…極まったところ…絶頂」「八重…何枚も重なる…何度も重ねる…一重より八倍愛でたい」「桜…男花…おとこ花」「けふ…今日…京…宮こ…感極まったところ」「ここのへに…九重に…宮中に…七重八重よりひと重ね多く…より愛でたく…此処の辺りで」「にほふ…艶やかに色づく…愛でたい香りがする」「ぬる…完了を表す…濡る」「かな…感動・詠嘆を表す」。

 「伊勢大輔集」の詞書によると、お仕えするお方が、一条院の中宮として内裏におられたころ、奈良より、ふこう僧都という人が、八重桜を中宮に献上されたときに、これは例年、仕える女房たち、ただではすまさないことよ、今年は大輔が返り事せよと、中宮が仰せになられたので詠んだ歌。

 たぶん咋年は紫式部が返歌をした。伊勢大輔がその役を紫式部から譲られ、みごとに果たしたといえるでしょう。歌は、花実相兼、玄の又玄。姿清げで心におかしきところさえある。余情妖艶。 
 珍しく、ひと月おそく咲く愛でたい桜の原種は、今も、興福寺近辺、東大寺正倉院の北山近辺に残る。


 俊成「古来風体抄」に撰ばれた伊勢大輔の歌を聞きましょう。

 高階成順、石山に籠もりて、久しく音し侍べらざりければ、
 みるめこそあふみのうみにかたからめ 吹きだに通へ志賀の浦風

 夫の成順、石山に籠もって、久しく音沙汰無かったので、
 海草なんて近江の湖では難しいでしょう、せめて我が方に吹き通え、志賀の浦風……見るめこそ、合う身の憂みでは、難しいでしょう、せめてわが方に吹き通え、至賀の心風。

 「石山…石山寺」「石…女」。「みるめ…海草…見る女」「め…女」「見…覯…媾」「あふみ…近江…逢う身…合う身」「うみ…海…湖…憂み…つらい…いやだ」「しが…志賀…至福…至賀…慶賀の極まり至り
…石山に籠もっているよろこび」「うら…浦…裏…心」「風…心に吹く風」。


 成順は筑前守の任を果たして帰京の後に出家した。そのとき詠んだ伊勢大輔の歌がある、聞きましょう。

 けふとしも思ひやはせし麻ころも 涙の玉のかかるべしとは

 わが生涯の京が今日とは思いもしませんでした、浅はかな涙の玉が君の法衣に落ちかかろうとは。

 「けふ…今日…京…絶頂」「麻衣…法衣」「麻…浅」「ころも…衣…生心・生身を包むもの…心身の換喩」。この頃、伊勢大輔は四十数歳。  


 伊勢大輔。父は大中臣輔親、代々伊勢祭主、祖父は大中臣能宣朝臣(四十九)。伊勢大輔は若いころから一条天皇中宮彰子にお仕えした。身近に、紫式部、和泉式部が居て、赤染衛門にも出会った。優れた歌を詠む才能と環境が整っていた。上東門院(彰子)にお仕えして歌合などに出詠した。歌は、後拾遺集に二十七首、新古今集に七首入集。


                 伝授 清原のおうな

 鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。
                 聞書 かき人しらず