帯とけの古今和歌集

鶴のよわいを賜ったというおうなの古今伝授。鎌倉時代に秘伝となって埋もれた和歌の艶なる情がよみがえる。

帯とけの百人一首 (百)

2010-08-29 06:24:34 | 和歌

      


            帯とけの百人一首
                (百)


 藤原定家の撰んだ歌の余情妖艶なところを、藤原公任の歌論に基づいて紐解きましょう。

 藤原俊成の云うように、歌は浮言綺語の戯れにも似た歌言葉のうちに余情が顕われる。


 百人一首(百)
                    順徳院
 ももしきや古き軒端のしのぶにも なほあまりある昔なりけり

 玉敷き満ちる古き宮、軒端の忍草、偲んでも、なお余りある昔だことよ……百に繁きや、ふるき退き場のしのぶひとにも、汝お余りある武下肢だったなあ。

 「ももしき…百敷き…宮殿…宮中…宮柱太敷き・玉敷き満ちてなどと詠まれた万葉集の昔より、このように戯れ、言の心は宮中」「ふるき…古き…久しく時の経った…振る気…降る期」「のきば…軒端…退き場」「しのぶ…忍草…堪え忍ぶ…恋い偲ぶ」「草…女」「なほ…猶…汝お…わがおとこ君」「むかし…昔…武樫…武下肢…強いおとこ」。続後撰集 雑下。


 順徳院の、同じ続後撰集雑下にある御歌を聞きましょう。

 聞く度にあはれとばかり言ひすてて いく世の人の夢を見つらむ

 聞く度に、あわれとばかり言い捨てて行く、世の人の夢をどうして見るのだろう……効く度に、あはれとばかり言い捨てて逝く、夜のひとの夢をどうして見ているのだろう。

 「きく…聞く…効く…吟味する」「あはれ…哀れみの詞…感動の詞」「いく…行く…逝く」「よ…世…夜」「人…人々…女」「らむ…原因・理由を推量する意を表す」。続後撰集 雑下。 


順徳院の、配流先の佐渡での御歌を聞きましょう。

 人ならぬ岩木も更にかなしきは みつの小島の秋の夕暮

 人ではない岩や木も、いまさらに、しみじみと心ひかれるのは、美津の小島の秋の夕暮れ……人である女も男も、今更に哀しいものは、満つの来じ間の飽きのはてがた。

 「岩…女」「木…男」「かなし…しみじみと心ひかれる…心が痛む…あわれだ…残念だ」「みつのこじま…美津の小島…島の名、名は戯れる。満つの来じ間、満ち足りることのない間」「秋…飽き…ことの果て」「夕暮れ…一日の終わり…ものの果て」。

 定家は、佐渡より届いたこの歌を見て、「この三十一文字、また一字毎に、感涙抑え難く候。玄の玄、最上に候」と合点してさしあげたという。「玄…くろ…奥深いさま…深遠なさま」。


 順徳天皇。父後鳥羽院のご意向によって兄土御門天皇の譲位をうけ、承元四年(1210)十四歳にして即位。承久三年二十五歳のとき、四歳の皇太子(仲恭天皇)に譲位し、父後鳥羽院と共に、鎌倉方すなわち執権北条氏一派と争い敗北、佐渡に流され、配所にて二十一年間、御年四十六、仁治三年(1242)に崩御。「順徳院御集」がある。


                伝授 清原のおうな

 鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。
                聞書 かき人しらず


 あとがき

 蛇足ながら聞書き人のあとがきを記す。はっきり言って、国文学には和歌と歌物語の解釈は不在である。理性的で、自然科学的な数学的精緻な方法で、歌など解明されているかに見えるが、結局は聞き取った上辺の意味の学者による印象批評が解釈となる。言語の戯れは、縁語とか掛詞という新しく作り上げた概念で克服したのだろうか。貫之や定家の言葉の「色好み」「余情妖艶」といったことは、歌から消えている。歌言葉の戯れを縁語や掛詞と名づけて封じ込めてしまったためである。

 われわれの昔の人は言語の戯れをあるがままに受け入れ歌をよんだ、清げな高音と最低音が同時に聞こえるような歌い方になる。綺麗な衣姿に包んで生身の生心を歌うことができる。言葉が複数の意味にたわむれるなら、複数の意味を同時に歌うことができる。玄の又玄などと言われるその中味を、恋しいほどに聞くには、歌の様式を知り、「言の心」を心得えよと貫之は言ったのだった。それは多く「月…壮士…男…尽き」「水…をみな…女」のような非合理で受け入れ難い戯れの意味である。清少納言は男の言葉も女の言葉も聞き耳によって異なるものだといい。藤原俊成は歌の言葉は浮言綺語の戯れに似ていると言う。このような言葉の世界に入らないと、この時代の歌をはじめとする文芸のほんとうの意味は聞こえない。

 江戸の国学者たちは、この言語認識を無視し、貫之、公任の歌論を無視した。そして理性的解明が、古今伝授などのなかに埋もれた過去の文芸を解明できると考えたらしい。国文学はそれを継承し、より精緻で合理的解明となった。そして公任のいう「心にをかしきところ」や定家の「余情妖艶」が全く見えなくなった。たいした意味の無い歌がほとんどとなり、和歌などは芸術では無いといいたくなる歌の氾濫となる。歌は調べが命であるといい、無意味に意味があるというほかなくなる。国文学的な歌解釈は、間違った方向へ船出したのだ。すでに、危機的状況にある。大船は大海原で彷徨っているのに、乗っているものも乗せられているものも、ただ一つある正しい意味に近づきつつあると思っている。

 和歌の恋しいほどの「心にをかしきところ」を、いちいちの歌について感じ、歌の様に気付いてもらうほかない。清原のおうなは、「百人一首」に次いで、何を紐解いてくれるのだろうか、帯とければ如何なる生心が顕われるのだろうか。伝授はつづく、次の聞書きは近日公開予定。乞御期待。


 新たに、伊勢物語の秘儀伝授の聞書きを始めました。

 gooブログ  タイトル:帯とけの伊勢物語





帯とけの百人一首 (九十九)

2010-08-27 06:06:58 | 和歌

      



             帯とけの百人一首
                (九十九)


 藤原定家の撰んだ歌の余情妖艶なところを、藤原公任の歌論に基づいて紐解きましょう。

 藤原俊成の云うように、歌は浮言綺語の戯れにも似た歌言葉のうちに余情が顕われる。


 百人一首(九十九)
                   後鳥羽院
 人もをし人もうらめしあぢきなく 世を思ふゆゑにもの思ふ身は

 人が愛し、人がうらめしい、つまらなく世を思うが故に、あれこれと悩む我が身は……ひとが愛しい、ひとが恨めしい、味気なく夜を思う故に、もの思うひとの身は。  

 「人…世の人々…民…后・女御たち…女」「も…並列を表す…意味を強める」「をし…愛し…いとしい」「うらめし…不満に思う…恨めしい」「あじきなく…どうしょうもなく…つまらなく」「世…女と男の仲…夜」「もの思ふ…悩ましく思う…ものを思う」「もの…云い難きこと」「身…我が身…女の身」。
 「後鳥羽院御集」の建暦二年十二月二十首御会、述懐の歌。後鳥羽院、御年三十三の御歌。承久の乱の九年前。


 新古今和歌集の太上天皇(後鳥羽院)の御歌を聞きましょう。

 秋露やたもとにいたく結ぶらん 長き夜あかず宿る月かな

 秋露や、袂にひどく結ぶだろう、長き夜明けず、空に宿ってる月だなあ……飽きの白つゆや、たもとにはげしく結ぶだろう、長き夜はてず、宿る月人壮士かな。
 
 「秋…飽き」「露…つゆ…おとこ白つゆ」「たもと…袂…手元…他のもと」「あかず…明かず…夜が明けず…飽かず…果てることなく」「宿…女」「月…月人壮士(万葉集では月よみ壮士とも詠まれている)…男…おとこ」。秋歌上。「秋の歌の中に」。 


 後鳥羽院が喜禄二年(1226)に、遠島で詠まれた御歌を聞きましょう。

 わたつみの波の花をば染めかねて 八十島遠く雲ぞしぐるゝ

 わたつみの世の波の花をば、我が色に染められず、八十島隔てて、雲の上の人、しぐれてる……わたつみの、夜の波の花を色に染められず、多きし間遠く、わが心雲、しぐれてる。

 「わたつみ…海…綿罪…軽い罪」「海…女」「波…世の荒波…夜の心波…情の波」「染めかね…染めることができない…感化できない…色に染められない」「やそしま遠く…点在する無数の島々隔て…八十し間遠く…多情な肢間には遠く」「島…し間…女」「雲…雲の上…煩わしいばかりに心にわきたつもの…もろもろの欲…広くは煩悩」「しぐれ…初冬の雨…つめたい涙雨…冷えたお雨」。「後鳥羽院御集」、題「海辺時雨」。

 
 この歌を他の一首と共に遠く隠岐より送られ、勝負の判定を求められた家隆卿は、「こころ、ことば、たけ限りなく、秀逸にこそ侍るめれ」、「二首争って涙の時雨が愚老の袖を濡らす」、「持となすべきなり」と申し上げたという。  


 後鳥羽院。元暦元年(1184)五歳にて即位。十九歳で、四歳の土御門天皇に譲位。順徳、仲恭の御代にも院政をしく。古今集より三百年後、元久二年(1205)に、後鳥羽院の勅撰集「新古今和歌集」成る。鎌倉幕府と対決した承久の乱(1221)に敗れ、隠岐の島におくられた。延応元年(1239)六十歳、その地にて崩御。「後鳥羽院御口傳」「後鳥羽院御集」を遺された。歌は、新古今集に三十四首入首集。明らかに政治的理由により新勅撰集には入集なし。


                 伝授 清原のおうな

 鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。
                 聞書 かき人しらず



帯とけの百人一首 (九十八)

2010-08-26 06:11:15 | 和歌
       



             帯とけの百人一首
                (九十八)


 藤原定家の撰んだ歌の余情妖艶なところを、藤原公任の歌論に基づいて紐解きましょう。

 父俊成の云うように、歌は浮言綺語の戯れにも似た歌言葉のうちに余情が顕われる。


 百人一首(九十八)
                  従二位家隆
 風そよぐならの小川の夕暮は みそぎぞ夏のしるしなりける

 風そよぐ楢の小川の夕暮れは、禊の神事が、晩夏の証しだことよ……心風そよぐ寧楽のひとの、ことの果ては、身退きが、暑き夏の証しだなあ。

 「風…心に吹く風…ここでは、あきの初風」「そよぐ…(木の葉が)そよそよと揺らぐ…(心が)揺らぐ」「ならのをかは…楢の小川(賀茂の社を流れる小川)…川の名、名は戯れる。寧楽の小川、心やすらかに楽しむ女」「なら…楢…奈良…寧楽(万葉集の表記)」「小…かわいい…細やか…褒め言葉」「川…女」「みそぎ…禊…身を清める…身そぎ…身退き…身を離す」「なつ…夏…暑い…なづむ…しわずらう」「しるし…標し…証し」。
 新勅撰集 夏。詞書は「寛喜元年女御入内屏風」。この時(1229年)、家隆、七十二歳。


 新古今集の藤原家隆朝臣の秋歌を、二首聞きましょう。

 明けぬるか衣手寒し菅原や 伏見の里の秋の初風

 夜は明けたかな、袖口寒い、菅原や伏見の里の秋の初風……夜は果てたか、心も身も寒い、清腹や伏身のさ門の飽きの初風。

 「衣手…袖…端…心の端…身の端」「衣…心身を包むもの…心身」「さむし…ひんやりとする…情熱のさめる」「菅原や…すがすがしい腹や…清々しい心地や」「や…語調を整える…疑問の意を表わす」「伏見…地名…伏し見…伏し身」「里…女…さ門」「秋の初風…陰暦七月初めに吹く風…飽き満ち足りの心に吹く初風」。
 秋歌上、「守覚親王、五十首歌よませ侍りける時」。健久九年(1198)、家隆、四十一歳の作。


 露しぐれもる山かげの下もみぢ 濡るとも折らん秋の形見に

 露時雨、漏れる山陰の、下葉の紅葉、濡れても折ろう秋の思い出の品として……白つゆのお雨、漏れる山ばの陰の下端の飽きの色、濡れても折ろう飽きを偲ぶよすがに。

 「つゆ…露…白つゆ…おとこ白玉」「しぐれ…時雨…その時のおとこ雨」「山…山ば」「陰…陰るところ…衰えたところ」「下もみぢ…下葉の紅葉…下端の飽き色」「折る…枝を折る…身の端折る…逝く」「秋…飽き…厭き」「形見…遺品」。
 秋歌下 「千五百番歌合に」。家隆、四十四歳の作。


 「後鳥羽院御口傳」に、家隆について次のように記されてある。

 家隆卿は、若かりし折りは聞こえざりしが、建久のこころほひより、殊に名誉もいできたりき。歌になりかへりたるさま、かひがひしく秀歌など詠み集めたる多さ、誰にもすぐれまさりたり。たけもあり、心もめづらしく見ゆ。

 ほぼ、次のように読める。

 家隆は、若かった頃は名声を聞かなかったが、建久の頃(三十数歳)より、殊に名誉もできてきた。歌に身をいれた様子、まじめでそのかいあって、秀歌など詠み集めた多さ、誰にも優れ勝っていた。歌は崇高なところもあり、深い心も心におかしきところも、新鮮に見える。


 従二位藤原家隆(1158~1237)。父は中納言光隆、摂関家一門ではない。歌は俊成に学んだ。後鳥羽院の御信頼・評価は定家より高い。「新古今和歌集」の編者の一人。五十歳で宮内卿。従二位。八十歳没。歌は、千載集に四首、新古今集に四十三首、新勅撰集に四十三首入集。


                 伝授 清原のおうな

 鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。
                 聞書 かき人しらず



帯とけの百人一首 (九十七)

2010-08-25 06:08:38 | 和歌
      



             帯とけの百人一首
                (九十七)


 藤原定家の歌の余情妖艶なところを、藤原公任の歌論に基づいて紐解きましょう。

 歌は、父俊成の云うように、浮言綺語の戯れにも似た歌言葉のうちに余情が顕われる。


 百人一首(九十七)
                  権中納言定家
 来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに 焼くやもしほの身もこがれつゝ

 来ぬ人を待つ、松帆の浦の夕凪時に、焼くのか思火、藻しほのように身も焦がれつつ……来ぬ人を待つ、おのほの心の夕凪に、焼くのか、もの火が、身も焦がれつつ。

 「人…男」「松帆の浦…淡路島の浦…所の名、名は戯れる。待つおの心、おを待つ女の心、待つ火の心」「まつ…松…待つ…女」「ほ…帆…お…男…火」「うら…浦…裏…心」「夕凪…夕方波風静まる時…果てた心の凪」「やく…気をもむ…思いこがす…万葉集巻一の歌(あみの浦のあまおとめらが焼く塩の思いぞ焼くるわが下ごころ)の焼く」「や…詠嘆を表し語調を整える…疑いの意を表わす」「もしほの…藻塩草のように…藻し火が」「も…藻…水草…女」「し…強意を表す」「ほ…火…炎」「の…比喩を表わす…主語を示す」「こがれ…待ち焦がれ…恋い焦がれ…乞い焦がれ」「つつ…詠嘆の意をあらわす…反復の意を表わす…筒…おとこ」。新勅撰集 恋歌三。詞書は「健保六年内裏歌合、恋歌」。健保六年(1218)は承久の乱の三年前。


 建久九年(1198)の「仁和寺宮五十首」では、次の歌を詠んだ。定家三十七歳の作、聞きましょう。

 春の夜の夢の浮橋途絶えして 峰に別るゝ横雲の空

 春の夜の夢の浮橋、途中で絶えて峰で別れてる、ただならぬ雲のある空……春の夜の浮天の夢の身の端、途中で絶えて、山ばの峰で別れてる、よこしまな心雲のひと。

 「春…季節の春…春情」「橋…ものの峰へ架けられた橋…端…身の端」「峰…ものの山ばの頂き…極まり至ったところ…絶えて別れるところ」「横…よこざま…ふつうではない状態…よこしま」「雲…空の雲…心に湧き立つ煩わしいもの…情欲…広くは煩悩」「空…天…あま…女…空しい」。これらは、俊成の云う浮言綺語のような歌言葉の戯れ。


 定家が「百人一首」を撰んだ嘉禎元年(1235)頃、後鳥羽院は承久の乱に敗れ遠島にて十数年経っていた。

 「後鳥羽院御口傳」の定家についての批評は、ほぼ次のように読める。

 歌の優しくて、もみもみと(ひとが身もだえるように)見える姿は、ほんとうに在り難いものに思える。歌の道に達した様子など、殊に優れていた。歌を見知っている様子、大したものであった。ただし、(他人の)歌の意を汲みとる心になると、鹿をもって馬とするように強引である。傍若無人。理屈も過ぎていた。他人の言葉は聞く様子もなかった。

 彼の卿の歌の姿は、殊に優れたものではあるけれども、人が模倣すべきものではない。(深い)心あるようなのを理想とせず、たゞ、詞、姿に艶があって優しいのを本体とするので、歌の骨子の優れていない初心者が模倣すれば、正体もないことになるであろう。定家は生得の上手であるからこそ、(深い)心が何にもないけれども、うつくしく言いつづけてあれば、殊に優れたものなのである。

 秋とだに吹きあへぬ風に色変る 生田の森の露の下草

 定家自讃の歌、まことに、「秋とだに」と始め、「吹きあへぬ風に色変る」という詞のつづき、「森の下草」と置いた下の句。上下(上の意味と下の意味)相兼ねて、優な歌の本体と見える。此の歌よくよく見るべきである。詞が優しく艶がある他は、(深い)心も姿もたいして無いのである。森の下に少し枯れた草のある他は、景色も理も無いけれども、言い流した詞のつづきは大したものではある。
 釈阿(定家の父俊成)・西行などのは、最上の秀歌である。詞も優にやさしい上に、心が殊に深く、理もある。

 此の歌を、よく見ましょう。

 秋だとばかり、いまだ吹ききれぬ風に、少し色変わる生田の森の露の下草……飽き足りたとは、いまだ吹ききれぬ心風に、少し色変わる幾多の盛りのつゆのひと。

 「秋…飽き」「風…季節の風…心に吹く風」「色…色彩…色情」「生田の森…森の名、名は戯れる。幾多の盛り、生き田の盛り」「田…女…多」「つゆ…露…おとこ白つゆ」「下草…木の下の草…女」「木…男」「草…女」。

 仰せのように、深い心は無いと見える。言葉だけの清げな姿と、妖艶な「心におかしきところ」はあるけれど、公任のいう優れた歌ではない。

 義理は無いけれど、定家を弁護すると、貫之、公任と続く正統派歌論に飽きたりず、貫之以前の「色好みな歌」に学べと定家はいう。色好みで妖艶な余情こそ歌の命である。父俊成の云うように、それは煩悩であり、表現すれば即ち菩提(真理を知って得られる境地)である。人の業を説くものはみな正法であるという。歌の余情妖艶なところは「心におかしきところ」であると共に「深い心」である。


 権中納言藤原定家(1162~1241)。「新古今和歌集」編者の一人。承久の乱(1221)のとき六十歳。貞永元年(1232)、後堀河天皇の御時、「新勅撰和歌集」を撰進。此の頃より「伊勢物語」をはじめ平安時代文芸を書写し伝え遺そうと懸命だったように見受けられる。世の中変わり、和歌の真髄が埋れる危機を予感していたに違いない。歌は、千載集(俊成撰)に八首、新古今集に四十六首、新勅撰集(定家撰)に十五首入集。


                 伝授 清原のおうな

 鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。
                 聞書 かき人しらず



帯とけの百人一首 (九十六)

2010-08-23 06:03:13 | 和歌

      



             帯とけの百人一首
                (九十六)


 藤原定家の撰んだ和歌の余情妖艶なさまを、藤原公任の歌論に基づいて紐解きましょう。

 浮言綺語の戯れにも似た歌言葉に顕われる余情は、品さまざまながら、必ず添えられてある。


 百人一首(九十六)
                 入道前太政大臣
 花さそふ嵐の庭の雪ならで ふりゆくものはわが身なりけり

 落花を誘う嵐の庭の雪ではなくて、ふりゆくものは、我が身であったことよ……お花の散るを誘う山ばの荒らしのにわが、ゆき成らず、ふり逝くものは我が身だったなあ。  

 「花…梅・桜…木の花…男花…おとこ花」「嵐…山ばで心に吹く激しい風…荒らし」「庭…ものごとが行われるところ…女」「雪…白…逝き」「ふり…経り…古り…振り…降り」「ゆく…行く…逝く」。新勅撰集(定家撰)雑歌一、詞書「落花を詠み侍りける」。


 入道前太政大臣藤原公経の新勅撰集の歌を聞きましょう。

 荻の葉に吹きと吹きぬる秋風の なみだ誘はぬ夕暮れぞなき

 荻の葉に吹き続いた秋風が、涙を誘わない夕暮れはないことよ……お木の端に、吹き続いた飽き風が、なみだを誘わぬ
果てはないなあ。

 「をぎ…荻…植物の名、名は戯れる。男木、男」「木…男」「葉…端…身の端」「秋…飽き…飽き満ち足り…厭き厭き」「風…心に吹いた風」「なみだ…目の涙…おとこのなみだ」「夕暮れ…ことの果て方」。新勅撰集 秋歌上。


 わたのはら波とひとつにみくま野の 濱のみなとは山の端もなし

 海原の波と同じに、みくま野の濱のみなとは、山の端もない……綿の腹、汝身と一つに見く間のの、端間のみなとは、山ばの端もなし。

 「わたのはら…海原…女はら…綿の腹」「綿…やわらかい」「なみ…波…汝身」「みくまの…ひら野の名、名は戯れる。見く間野、見てる間のひら野」「見…覯…媾」「濱…女…端間」「みなと…女…みな門…一本、みなみ…みな身」「みな…水…女」「山の端もなし…山などない…山ばがつづき果てもない」。新勅撰集 雑歌四。


 公任の云う「心におかしきところ」は、俊成の云うように歌言葉の浮言綺語のような戯れのうちに顕われる。それは、清げな姿に
包まれてある。


 入道前太政大臣藤原公経。鎌倉幕府とのかかわり深く親幕府派で、後鳥羽院とは対立的だった人。承久の乱(1221)のとき、五十歳。鎌倉幕府執権の北条氏入洛、勝者となる。貞応元年(1222)、太政大臣となり我が世の春を迎えた。六十一歳で出家。七十四歳没。歌は、新古今集に十首、新勅撰集に三十首入首。


                 伝授 清原のおうな

 鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。
                 聞書 かき人しらず
 


帯とけの百人一首 (九十五)

2010-08-22 06:35:30 | 和歌
      



             帯とけの百人一首
                (九十五)


 藤原定家の撰んだ和歌の余情妖艶なさまを、藤原公任の歌論に基づいて紐解きましょう。

 歌は「清げな姿」とともに「心にをかしきところ」が添えられてある。それは浮言綺語の戯れにも似た歌言葉に顕われる。定家は、余情の妖艶なのを良しとした。


 百人一首(九十五)
                  前大僧正慈円
 おほけなくうき世の民におほふかな 我がたつ杣に墨染の袖

 身のほど過ぎて、憂き世の民に覆うかな、わが立つ杣山にて、法衣の袖……身のほど過ぎて、浮き夜の多見に、おおうかな、わが立つそ間にて、澄み初めの身のそで。  

 「うき…憂き…見たされず辛い…浮き」「世…夜」「民…多見…多情…女」「おほふ…覆う…被う…広くゆきわたらせる…布教する…披露する」「そま…杣…(宮殿の材となるような)立派な木のある比叡山など…杣山からきりだした材木…立派なおとこ…其間…夫間」「木…こ…おとこ」「すみぞめ…墨染…法衣…澄み初め…心澄んだばかり」「そで…衣の袖…身の端」。千載集 雑中、題しらず。


 「後鳥羽院御口傳」に次のように記されてある。

 大僧正は、おほやう西行がふりなり。すぐれたる歌、いづれの上手にも劣らず、むねとめずらしき様を好まれき。そのふりに、多く人の口にある歌あり。やよしぐれ 木の葉に袖を比ぶべし 願わくはしばし闇路に、これ体なり。

 ほぼ次のように読める。
 大僧正は、だいたい西行の詠みぶりと同じである。優れた歌は、どの上手にも劣らない。主として新しい様を好まれた。その詠みっぷりに、多く人の口にのる歌がある。「やよ時雨」「木の葉に袖を比べるがいい」「願わくはしばし闇路に」、このように詠むのが慈円の歌の体である。


 その歌を聞きましょう。

 やよしぐれ物思ふ袖のなかりせば 木の葉の後に何を染めまし

 さて時雨、もの思う涙の袖がなかったならば、木の葉の後に何を冬色に染めるのだろう……八夜しぐれ、もの思う身のそで、なかったならば、木の葉の後に何を枯色に染めるのだろう。

 「やよ…さあ…さて…や夜」「しぐれ…初冬の雨…その折のおとこ雨…飽き過ぎた果てのお雨」「そで…袖…端…身の端…おとこ」。新古今集 冬歌


 明けば先ず木の葉に袖を比らぶべし 夜半の時雨よよはの涙よ

 夜が明ければ、先ず木の葉に袖を比べるといい、夜半の時雨よ、夜半の涙よ……こと果てれば、先ず木の葉に身のそでを比べるといい、夜半の時雨よ、余波のお涙よ。

 「明け…夜明け…果て」「そで…袖…端…身の端」「しぐれ…初冬の雨…その折のおとこ雨…飽き過ぎた果てのお雨」「よは…夜半…余波」「なみだ…袖濡らす涙…端濡らすお雨」。健仁元年二月の老若歌合の歌。

 歌言葉の浮言綺語のような戯れのうちに顕われた「心におかしきところ」は、それぞれに感じるべきこと。


 前大僧正慈円。父は法性寺入道前関白太政大臣藤原忠通。京での保元の乱(1156)のとき、慈円は二歳、忠通は勝者となるが十年後出家。慈円は十三歳のとき出家。二十一歳で、比叡山にて修行。二十四歳で法性寺座主。三十八歳で天台座主。各種歌合に出詠した。新古今集成立の元久元年(1205)の時、五十一歳。歌は、千載集に九首。新古今集に九十二首、西行の九十四首に次いで多い。新勅撰集に二十七首入集。朝廷も幕府も激動の時代を生きた。承久の乱(1221)により、後鳥羽院と順徳院の配流の事あり。嘉禄元年(1225)没、享年七十一。


                 伝授 清原のおうな

 鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。
                 聞書 かき人しらず


 

帯とけの百人一首 (九十四)

2010-08-21 06:30:00 | 和歌
      



               帯とけの百人一首
                (九十四)


 藤原定家の撰んだ和歌の余情妖艶なさまを、藤原公任の歌論に基づいて紐解きましょう。

 歌は清げな姿とともに「心におかしきところ」が添えられてある。定家は、浮言綺語の戯れにも似た歌言葉に顕われる、その余情の妖艶なのを好しとした。


 百人一首(九十四)
                   参議雅経
 み吉野の山の秋風小夜ふけて ふるさと寒く衣うつなり

 み吉野の山の秋風、小夜更けて、古里寒く衣打つ砧の音が聞こえてる……身好しのの山ばの飽き風、さ夜更けて、ふるさとさむく、しとね打っている。

 「み吉野…所の名、名は戯れる。美吉野、見好しの、身好しの」「山…山ば」「ふるさと…生まれたところ…女…古里…古妻」「里…さと…さ門…女」「さむ…寒…冷える…高ぶっていたものが静まる」「衣うつ…砧で衣を打つ(冬衣を作る)…衣を手で叩く…しとねを叩く…不満を表すか」「ころも…衣…しとね」「なり…音が聞こえる…状態である」。新古今集 秋歌下。詞書は「擣衣の心を」。


 「後鳥羽院御口傳」に次のように記されてある。

 雅経は、殊に案じかへりて歌詠みしものなり。いたくたけある歌などは、むねと多くは見えざりしかども、手だりと見き。

 ほぼ次のように読める。
 雅経は、とくに思案を繰り返して歌を詠んだ者である。たいそう崇高な気品の高い歌などは、主として多くはなかったけれども、熟練した上手と見た。


 新古今和歌集の選者の一人であった参議雅経の歌を二首聞きましょう。

 きのふまでよそにしのびし下荻の すゑ葉の露に秋風ぞ吹く

 昨日まで他所に忍んでた下荻の末葉の露に、今日は秋風吹いている……京の前まで他人のせかいに忍んでた、下お木の末端のつゆに、今は飽き風吹いている。

 「きのふ…今日の前…京の前」「京…絶頂」「よそ…他所…他人の世界」「下荻…薄に似た草の名、名は戯れる。下男木、おとこ」「末葉…末端…身の端のさき」「露…つゆ…おとこ白つゆ」「秋…飽き」「風…心に吹く風」。新古今集 秋歌上。


 白雲の幾重の峰を越えぬらん なれぬ嵐に袖をまかせて

 白雲がどれほど重なる峰を越えただろう、慣れない嵐に袖を任せて……白き心雲、どれほど重ね峰を越えただろう、慣れない嵐に身のそで任せて。

 「白…果ての色…おとこの色」「雲…心に煩わしくも湧き立つもの…情欲など」「みね…峰…山ばの頂上」「嵐…荒らし…山ばで吹く激しい心風」「そで…衣の袖…身のそで…おとこ」。新古今集 羇旅歌。


 顕われた余情の妖艶なさまは、それぞれに感じるべきことで、歌のそれを普通の言葉では表現できない、説明するようなことでもない。


 参議雅経。父の藤原頼経は、源頼朝、義経と同時代の人。雅経も鎌倉の実朝と関わりが深かった。建仁元年(1201)に、藤原雅経は「新古今和歌集」選者の一人となる。詩歌、管弦、書、蹴鞠など貴族的教養の十分な人で、春日社歌合、北野社歌合など各種の歌合に参加。歌は、新古今集に二十二首、新勅撰集に二十首入集。承久三年(1221)、参議従三位にて没。享年五十二。没後、承久の乱勃発。


                 伝授 清原のおうな

 鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。
                 聞書 かき人しらず



帯とけの百人一首 (九十三)

2010-08-19 06:27:00 | 和歌

      



             帯とけの百人一首
                (九十三)


 藤原定家の撰んだ和歌の余情妖艶なさまを、藤原公任の歌論に基づいて紐解きましょう。

 公任「新撰髄脳」に「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを優れたりというべし」とある。これは優れた歌の定義で、このような三拍子揃った歌を詠むのは難しいけれども、歌には「心にをかしきところ」が必ず添えられてある。


 百人一首(九十三)
                  鎌倉右大臣
 世の中は常にもがもな渚こぐ あまの小舟の綱手かなしも 

 世の中は常住であってほしい、渚漕ぐ海人の小舟の引綱せつなそうだなあ……女と男の夜の仲は、絶えないでほしい、なぎさこぐあまの小夫ねの、つなてかなしい。

 「世の中…男女の仲…夜の中」「常にもがもな…永久に変わらないでほしい」「がも…願望を表す」「渚…磯(岩)…浜(濱)…女」「こぐ…漕ぐ…おし進む」「あま…海人…女…吾間」「間…女」「の…所在を表わす」「ふね…舟…夫ね…ふ根…おとこ」「の…所有を表わす」「綱手…綱手縄…舟の引き綱…ふ根の推進力」「つな…なわ…緒…絶えるもの…男…おとこ」「て…性質などを表わす、浅手・薄手・細手など」「
かなし…愛し…せつないほど愛おしい…悲しい」。
新勅撰集 羇旅、題しらず。


 鎌倉右大臣実朝の歌を二首聞きましょう。

 道の辺のをのの夕霧たちかへり 見てこそゆかめ秋萩の花

 道の辺の小さな野原の夕霧、たち帰り見てゆこう、秋萩の花……みちの辺の、おののはて限り、起ち返り、見てゆこう、飽き端木のはな。

 「道…路…満ち」「をの…小野…おの…おとこの」「夕霧…日暮れの霧…ものの果ての限度」「たち…立ち…起ち」「かへり…帰り…返り…繰り返し」「見…覯…媾…まぐあい」「ゆく…行く…逝く」「め…む…意志を表す」「秋…飽き」「はぎ…萩…小低木…端木…おとこ」「木…男」「花…木の花…おとこ花」。新勅撰集 秋歌上。


 山は裂け海は浅せなむ世なりとも 君にふた心我があらめやも

 山は裂け深い海は浅くなる世となっても、君に二つ心を我がもつであろうか、ありはしない……やまば崩れ、をみなは色香褪せる世となっても、貴女に二つ心を我がもつであろうか、一心に思う。

 「君…主上…きみ…女」「やも…詠嘆を込めた反語の意を表す」。新勅撰集 雑歌二。


 鎌倉右大臣源実朝。父源頼朝は建久三年(1192)、鎌倉幕府初代将軍となる。実朝は、その年に誕生した。七歳のときに父は没し、兄の頼家が二代将軍となるが失脚した後に惨殺される。実朝は十一歳で三代将軍となり、二十八歳で朝廷より正二位右大臣に任ぜられた後に、身内に殺される。元服より十数年の間、将軍といっても、京の院政と執権北条氏との狭間に浮いている小舟のよう。和歌の方法は若くして身につけていたらしい。鴨長明に習い、藤原定家からは歌の書が贈られたという。


                 伝授 清原のおうな

 鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。
                 聞書 かき人しらず



帯とけの百人一首 (九十二)

2010-08-18 06:15:01 | 和歌
      



               帯とけの百人一首
                (九十二)


 藤原定家の撰んだ和歌の余情妖艶なさまを、藤原公任の歌論に基づいて紐解きましょう。

 公任は「新撰髄脳」で「歌のかたちと言うは、うち聞き清げに、ゆゑありて、歌と聞こえ、めづらしく添えなどしたるなり」という。歌の清げな姿と事のわけのあるところはもちろん、新鮮で好ましく添えられてある「心におかしきところ」を聞き取りましょう。


 百人一首(九十二)
                  二条院讃岐
 わが袖は潮干に見えぬ沖の石の 人こそ知らね乾く間もなし

 わが袖は、潮干にも見えない沖の石のよう、他人は知らない、涙で乾く間もない……わが身のそでは、しお引に、みえない奥の井しのよう、君こそしらね、乾く間もないわ。

 「そで…袖…端…身の端」「しほ…潮…し男…肢お…おとこ」「ひ…干…乾く…引く」「見…覯…まぐあい」「沖…奥…女」「石…女…井し…女」「の…比喩を表す」「人…他人…男」「しらね…知らず…感知せず…しら根…白ね」「白…しらじらしい…果ての色」「ね…ず…打消しを表す…根…おとこ」。千載集恋二、詞書「石に寄する恋といへる心を」。「恋…乞い…求め」。

 石(岩)によせて女の思いを詠んだ歌は、いにしえの「伊勢物語」に見える。石や岩の「言の心」は変わらない。

 むかし、女、人の心をうらみて、
 風吹けばとはに波越す岩なれや わがころもでのかわく時なき

 風吹けば、永久に波越す岩なのか わが袖の涙、乾く時がない……君の心に風吹けば、永遠にお波が越え逝く井はなのか、わが身の端の乾く時がない。


 二条院讃岐の恋歌を二首聞きましょう。

 百首奉りし時
 涙川たぎつ心の早き瀬を しがらみかけてせく袖ぞなき

 涙川、たぎる心の涙の早瀬を、しがらみかけて堰く袖なんてない……涙かは、たぎる心の早き背を、しがらみかけて堰く端なんてないわ。

 「涙…目の涙…ものの涙」「かは…川…女…だろうか…疑問を表す…反語を表す」「早き…流れが速い…その時が早い」「せ…瀬…浅瀬…背…男」「しがらみ…柵」「せく…堰く…堰き止める」「そで…袖…端…身の端」。新古今集 恋歌二。


 暁、かへりなんとする恋といふことを
 明けぬれどまだきぬぎぬになりやらで 人の袖をも濡らしつるかな

 夜は明けたけれど、未だ朝の別れとはなりきれないで、君の袖をもわが涙で濡らしたわ……明けたけれど、まだ、きたわきたとは成りきれず、君の身のそで濡らしたね。

 暁に、男が帰ろうとするときの乞いということを
 「きぬぎぬ…後朝…男女の朝の別れ…来ぬ来ぬ…山ばの頂上が来た来た」「ぬ…完了の意を表す」「人…他人…男」「袖…端…身のそで」「かな…感嘆・詠嘆の意を表す」。新古今集 恋歌三。

 俊成の云う歌言葉の戯れのうちに、公任の云う歌の添えられた趣旨が顕われる。


 二条院讃岐。父は従三位源頼政。讃岐は、二条天皇にお仕えした女房。二条天皇は御年十五で即位、在位七年にて、永万元年(1165)に崩御。後に讃岐は後鳥羽院中宮宣秋門院に仕え、清輔や俊成が判者をつとめる各種歌合に参加した。生年未詳、晩年出家、健保五年(1217)頃没。歌は、千載集に四首、新古今集に十六首、新勅撰集(定家撰)に十三首入集。


                 伝授 清原のおうな

 鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。
                 聞書 かき人しらず



帯とけの百人一首 (九十一)

2010-08-17 06:10:03 | 和歌

      



             帯とけの百人一首
                (九十一)


 藤原定家の撰んだ和歌の余情妖艶なさまを、藤原公任の歌論に基づいて紐解きましょう。公任は「心深く、姿清げに、心におかしきところ有るを」優れた歌という。



 百人一首 (九十一)
               後京極摂政前太政大臣
 きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに 衣片敷きひとりかも寝む

 こおろぎが鳴いているなあ、霜夜の筵に衣片敷き独りでか、寝ることになるのだろうな……胸きりきりす、ひとは泣いているのか、霜夜の寒々しい筵に衣片敷き独りだろうか、でないかも、寝ているのだろう。

 「きりぎりす…こおろぎ…秋に鳴く虫の名、名は戯れる。きりきりする、胸きりきりす」「鳴く虫…女」「鳴く…泣く」「や…詠嘆・感動の意を表す…疑いを表す」「さむしろ…さ筵…寒白」「片敷き…独り分だけ敷く」「かも…疑いの意を表す…反語の意を表す」「む…(寝ることになるの)だろう…(寝ているの)だろう……『ながながし夜をひとりかも寝む』と同じく恋人の様子の推量」。新古今集 秋歌下、詞書「百首奉りし時」。

 歌の言葉は
「浮言綺語の戯れには似たれども、ことの深き旨も
顕われる」と藤原俊成はいう。そこには公任のいう「心におかしきところ」も顕われるでしょう。
 


 「後鳥羽院御口伝」に、後京極摂政藤原良経について次のように記されてある。
 

 故摂政は、たけを旨として、諸方を兼ねたりき、いかにぞや、見ゆる詞のなさ、歌ごとに由あるさま、不可思議なりき。百首などのあまりに地歌もなく見えしこそ、かへりては難ともいひつべかりしか。秀歌あまり多くて、両三首などは書きのせがたし。

 ほぼ次のように読める。

 今は亡き摂政(藤原良経)の歌は、姿の気品・格調の高さを旨として、もろもろのことを兼ね備えていた。どうしてか、見ばえする歌詞のなさ、それなのに歌毎に奥深い意味のあるさま、不思議であった。百首集めた時など、あまりにも平凡な歌が無いように見えたのだ、かえって難点と言うべきか。秀歌あまりに多くて、代表する歌数首などは書きだし難い。

 このような批評に共感できれば、歌のほんとうの意味に出遭っていることになる。
 ほとんどすべてが秀歌とせられる、藤原良経の恋歌を二首聞きましょう。

 家の歌合に
 吉野川はやき流れをせく岩の つれなきなかにみをくだくらん

 吉野川、早き流れを堰き止める、岩のつれない中に水脈砕く、どうしてだろう……好しのかは、早き流れを堰き止める、井はのつれなき中にわが身を砕くだろう。

 「吉野川…川の名、名は戯れる。好しのひと、見好しののひと」「かは…川…女…疑問を表す」「いは…岩…女…井は」「は…端…身の端」「みを…水脈…水流…身を…おとこ」「らん…らむ…原因・理由を推量する意を表す…推量を表わす…現在の事実を詠嘆的に述べる」。定家撰「新勅撰和歌集」恋歌一。


 家の歌合に
 忘れじのちぎりを頼む別れかな 空ゆく月の末をかぞえて

 忘れないよの契りを頼りの別れだな、空ゆく月の巡りくる末を数えて……見捨てないよの契りを頼りの別れかな、空々しく逝く、つき人おとこの末を考えて。

 「契り…言葉の約束…男女の交わり」「別れ…月日巡り来るまでの離別…ものの峰の別れ」「空…天…空々しい…空しい」「ゆく…行く…逝く」「月…大空の月…月日の月…月人壮士(万葉集の歌詞)…男…おとこ…突き…尽き」「かぞえて…数えて…計算して…考えて」。新勅撰集 恋歌三。


 後京極摂政前太政大臣藤原良経(1169~1206)。祖父は藤原忠通(七十六)。父は右大臣藤原兼実。後白河院、後鳥羽院の院政のもとにあって、良経は、正治元年(1199)に左大臣に、三十五歳で摂政太政大臣となった。三十八歳の若さにて急逝。此の間、日吉社歌合などに出詠。新古今和歌集仮名序は良経の作。歌は、千載集に七首、新古今集に七十九首、新勅撰集に三十六首入首。


                 伝授 清原のおうな

 鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。
                 聞書 かき人しらず