ふとしたことで その岩の存在を知った
時とともに それは 僕の中に拡がった
そして 岩への 幻想が始まる
手に入るものは ことごとく読み耽った
記録も 詩(ウタ)も 伝説も
人の話しには 全身を耳にした
畳の上にひろげられた 一枚の地図
--- 終日 時の経つのも忘れた
他人には何でもない 小さな活字
--- 僕の血は騒ぐのだ
そして 心は 遠い 岩稜に飛ぶ
その一瞬 息をのんだ ---奈落の底だ
悪魔の息吹か 灰色の霧は
その中から 時々姿を見せる 壮大・峻険な岸壁
この威圧 この垂直
何百メートルあるのだろう 空はあるのか
遂に見た 岩は 矢張りあったのだ
本当にあったのだ ---想像を絶して
しかし この胸の高鳴りは どうした訳だ
恐怖ではない ---- 不思議なおののき
それから 何度も何度も山へ行った
岩は いつも そこにあった
相対している それだけでよい
そばにいる それだけで充分 生きる喜びだった
ある夏の日 眠れない程 こがれて 僕は出かけた
睡眠不足のせいにするのか
最初から足が重かった 気ばかり急いだ
---時計の音と耳鳴り 遂に動けなくなった
吐き気をもよおし めまいがした
脱ぐのももどかしく 着ているものをとった
---倒れたようだった
---心地よい感触で気づいた やさしい岩肌だった
冷気は 頬から 腕から 足から
五体に浸透していった
パンやジュースが見捨てた この肉体を
岩は やさしく 蘇(ヨミガ)えらせた
濡れた岩肌・・・ 大いなる慈愛 生の充実
それを この身体で確かめた
---それは 遠い 少年の日の夢
こうして今 岸壁をのぼっていると
不思議な虚しさを 感じてしまう
ハーケンの音が 冴えれば冴えるほど
言い知れぬ 空虚に襲われる
出てくるときは あんなに求めているのに
みんなも 必死になって求めている その岸壁に
眺めるだけでなく
こうして 実際 手で触れているのに
もう 足が震えることも なくなった
本谷から這い上がってくる 陰険な霧が
ひんやりと 身体の中を 吹き抜けていっても
静かに 紫煙をくゆらす 私
岩よ お前が悪いのではない ---
みんなが一番求めているものに
これがあるから生きているものに
身を投げだそうというとき
私にとっては 一番くだらないものに
ふっと 思えてしまう
そして そこから 充たされぬ 後向きの生が うまれる
岩よ お前が背むいてくれれば まだ 救いがあるのに