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Noblesse Oblige

「裕福な者には使命がある」

これからは、使命感をもって活きましょう。もっと、もっと、知りましょう。

交渉

2005年12月11日 15時16分28秒 | 国際政治
卒論にようやく向き合い始めてはや2週間。
あぁ、なんでもっと早く始めなかったんかなぁと後悔するここ2,3日。
そんなわけで、日曜日でも大学のメディアセンターにいらっしゃった。

んで、APUMUNの合宿をちょっと拝見。
新メンが9割くらいを占めていたね。
議論もうまくかみあっていないし、何よりも方法論でずっともめている感じだった。

交渉のやり方って別に限ったやり方があるわけではないと思うんだけど、少なくとも国際会議を模擬しているわけで、そして成果文書を作り上げる作業をしているわけで、かつ時間が限られているのだから、「文言」を通じた交渉を展開するべきではないかなといつも考えてしまう。

「このパラグラフのこの文章は、こういう意図に捉えられてしまうから、こういう風に変えることによって(または削除することによって)、こういう意図を打ち出そうよ」とか、「この文言は、事前に決めたこういうコンセプトとは異なるものだから、こうしようよ」などという具合に交渉は進めるべきではと思うのです。

交渉の過程で、他国の大使がこういう考えをもっているのだという理解は可能となっても、採択された文言を観るのは、外交官だけでなく、その場にいなかった人々であって、その文言から意図を読み取る。ならば、常に文言をベースとした交渉を進めることが前提とされるべきだと思うんです。

もうひとつ、口頭のみでの交渉は、しばしば頭にのみ記憶されることになる。すると、「前はこういったのになんでこうなるの」といった具合の不毛な議論が始まる。やはり、文言ベースで交渉をしないといけないよね。


年末の全日では、安保理で活発な議論が展開されるでしょう。でも、活発な議論の内容にどれだけの意義があったとしても、決議にその意義が反映されないと、外部から見た場合には、浅い議論だったと思われかねない。常に文言が意識された議論が展開されればいいなと思う。

でも、交渉のやり方はいろいろ。人それぞれ、自分のスタイルにあったやり方を主張していけばいいと思う。それが、自分の考える交渉スタイルよりも、いろんな意味で良いのであれば、方法論を統一させて会議を効率的に動かすべきだろう。


MUNの活動ってほんと、将来に使えそうだよね。

世界学生観光サミット宣言文

2005年12月07日 10時01分34秒 | 国際政治
‘Towards the future of tourism’ – Ritsumeikan Asia Pacific University, Beppu, Japan


After extensive deliberations at this summit, we, the representatives of seventy-eight international and local universities meeting in Beppu city, Oita Prefecture, issue the following declaration:

We, as students of the world, believe, in recognition of our concern for the future of the tourism industry, that our voices should be heard by governments, educational institutions, and all other industry stakeholders.

That stakeholders––be they host governments, non-governmental organizations, host communities, tourists, the media, or others–will work together to ensure that tourism, as an industry, will flourish in the future;

That stakeholders, through the promotion of tourism, will work to eliminate barriers among peoples of the world and foster effective international cooperation in terms of information exchange and intercultural understanding;

That governments’ tourism policies will stress concern for the social, economic, and natural environments, in order to offset the impact of past negative practices and to minimize future impact;

That stakeholders of the tourism industry will work closely with local governments by assisting in and providing feedback;

and That conflicts among stakeholders will be overcome.


We recognize:

That the industry is now moving forward with more long term planning, with more proactive local government policies, and with more integrated communication among neighbouring communities and countries;

That governments in all parts of the world share information, especially in security issues concerning terrorism;

That while the media may have positive and negative impacts, information technology and the media have the potential to responsibly support the development of tourism;

That there is growing concern over the level of participation by local communities in the development of tourism and, further, that, while the literature on environmental degradation, pollution, and misuse of natural resources is abundant, industry and government measures to monitor and protect the environment need to be improved;

and That there seems to be insufficient guidance in sustainable tourism development, leading to problems in guiding tourists and educating the local people concerning the importance of responsible tourism, further, that governments need to be educated concerning the concept of sustainability, and that the term “sustainability” not be used for inappropriate promotions.


We, the students of the Summit, are convinced that:

When the above concerns are addressed, and if appropriate considerations are given in the future, tourism will:

Develop from an alternative industry to a flourishing prime industry, providing jobs in local communities and enhancing cooperation among stakeholders;

Diversify and improve the use of technology and media, leading to a greater understanding of their function and potential;

Encourage recognition of the importance of integrity and trust among stakeholders, in return aiding international communication and encouraging peace among nations;

Encourage the creation of policies based on sound knowledge of multiple considerations, thus reducing risk factors;

Persuade mass tourism to be practiced in a sustainable manner, with greater support, provided that there is sufficient education, policy development, and understanding of financial capacity;

and Assist in environmental conservation and preservation.


We call upon our home universities, other educational institutions, host governments, host communities, pressure groups, the media, and all interested organizations and individuals to:

Take up the challenge to educate the citizens of each country about the importance of sustainable development;

Work closely with the host governments and tourism developers to maintain sustainability in their projects;

Create policies that will minimize the negative socio-cultural and environmental impacts of tourism;

Be more active in the planning of their own neighbourhood developments;
Promote international relationships and intercultural understanding to achieve sustainable tourism;

Promote the sustainable development of tourism and work closely with other stakeholders in seeking an approach that will protect the environment;

Be responsible in disseminating information to the general public regarding issues that affect tourism;

Be more proactive in voicing concerns regarding the future, not least of all on issues concerning tourism; and

Establish a World Tourism Student Organisation in the near future.


In conclusion:

We, the students, propose that in the future, not only Ritsumeikan Asia Pacific University but also universities of participating members of the Summit take continuous action by holding similar summits to promote sustainable development.

観光とICT

2005年11月07日 22時31分47秒 | 国際政治
世界学生観光サミットで僕の所属する分科会のテーマは"Information and Technology for Tourism"ということで、今日は少し観光とICTの話でも。

観光という分野、大学4年間でほぼ一度も勉強したことない分野でして、いまだによくわからないうちにあさっての分科会スタートに落ち合うことになりそうです。

そもそも「観光」の定義を大きく分けると、

1.「経済活動としての観光」 つまりは、観光産業などの動きに焦点を当てて、発展のためのマネージメントやら各機能(交通・情報・広告など)の効果を考えたりする。

2.「抽象的観念としての観光」 この意味では、観光は実態的な意味を潜め、たとえば観光が人の国際移動に与える影響など、抽象的な議論に進む形が多い。


観光といえば、positiveなイメージで固まってしまうが、実際には国際政治に影響をもたらすほどのnegativeな面も有している。それは、経済的格差に起因する問題もさることながら、「文化の売却」という側面が強調されることに起因する問題に注目するが故である。こうした問題を解決するために、国連はWTOを設置した。WTOといわれて多くの人がイメージするのは、World Trade Organizationだろうけど、ここでいうWTOはWorld Tourism Organizationね。意外と観光も政治的側面から勉強ができるようで、ある種の楽しさを発見した。


さて、観光産業に寄与するために情報の果たす役割はなんだろうか。情報と一言でいっても、非常に多義的で気安く使用するには躊躇いをおぼえるこの用語、いかに規定すべきだろうか。この点、いわゆるマスメディアとしてのメディアの機能を定義として規定した上で、議論を進めた方が、観光を考える際には有益なんだろうと思うのです。いわゆるメディア論とはかけ離れた世界ね。

マスメディアは、新聞、テレビ、ラジオ、インターネット(あれ?マスか?)などなど含むけど、このサミットではとりわけインターネットの機能に焦点が当てられそうだ。インターネットの発達は必ずしも広告の面で観光産業に寄与しているだけではなく、その他の多様な手段による観光産業の発展にも寄与している。例えば、旅行代理店は世界各地に支店を持つわけだけれども、こうした支店同士がインターネットでつながることによって、需要と供給の双方のニーズを充足させる要因となった。一重にインターネットの機能といへども、one dimentionではないということだね。一方で、インターネットの機能が観光に悪影響をもたらす事例も考える必要があるでしょう。ここで浮かぶのが、イメージ提供道具としてのインターネットの役割だろうか。僕らは、写真や文字から、旅行先のイメージをつかむわけだけど、実際に現地に行ってみると、行く前に思っていたイメージとは異なる面をたくさん拝見する。それは、よい面もあるが、それによって大きく損なう点もあるだろう。とはいへ、こうした問題ってどう改善すべきかが皆目検討もつかないよね。


さて、技術という面ではとりわけ交通手段の発達を考えなければというところでしょうか。とくに航空産業の発展は観光産業の発展に大きく寄与していると考えられていますね。例えば、格安航空券の誕生によって、単純に旅行者の数がグンっと挙がったとか、大量輸送によって行き来が容易になったよね。一方で、問題点としては大量輸送によるマスツーリズムの発生、格安航空券の出現による人気のない路線の閉鎖にともなう範囲の狭まりなどがある。


意外と考え出せば、きりがなくなるのも観光を勉強することのよい点でもあるのかな。もう少し早い段階で興味をもてれば、また違った大学生活を送っていたりして。何はともあれ、サミットでの議論の成功を祈って、少しは勉強してみよう。


観光に詳しい人には、どういう風に楽しいのかを教えてもらいたいもんだ。よろしくね。


アジア外交の危機

2005年11月01日 22時28分02秒 | 国際政治
という厳かな見出しの新聞各紙、そして社説等々…
第3次小泉改造内閣の閣僚名簿に多少の驚きも感じつつ…
国内政治については(何度も告白するが)とても疎い自分を戒めつつ、、
麻生太郎・安部晋三の外交姿勢をどう捉えるべきか。

内閣官房長官に安部さんが就任したことは、大した驚きではなく、むしろ当然という向きもあるようだが、さすがに麻生さんの外相就任には驚いた。え、、外交できる人なの?と。いや、それ以上にタカ派ぶりをメディアに晒している方が外交のトップに立つことへの警戒感。

新聞各紙が特に懸念しているのは、首相含めたこの3人が揃って靖国参拝を支持しているということで、対中・対韓関係が悪化するのではという点。

その前に、対中・対韓関係の悪化のことを「アジア外交」の悪化と表現するメディアにはまた嫌悪感。参拝支持派が俗に言う、「中韓以外の国は参拝を批判していないではないか」という意見に同調するようで癪ではあるけれども、中韓以外のアジア諸国に失礼であろう。簡単にアジア外交と一まとめにしないでほしい。せめて、「北東アジア情勢」という単語でも使ったらどうなのだろうか。

彼らがタカ派と呼ばれる所以は主に靖国参拝を支持する理由付けとその実際の行動にあるのだろう。安部さんなんか、終戦の日に行く人で、中韓にはとても嫌われているらしい。今朝の朝日新聞でも、この二人は名指しで中韓の新聞に批判されていたそうな。安部さんは、メディアでも取り上げられることが多いため、実際にタカ派のイメージをもつことができる。でも、麻生さんは実際のところ、本当にタカ派と呼ばれるのかよくわからない。確かに、あの独特の言い回しは、タカ派というよりも「ふてぶてしさ」をイメージさせてしまうが。ためしに、外相就任会見語録でも見てくださいな。(http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/kaiken/gaisho/g_0510.html#12)

官邸主導が定着しつつある(らしい)日本の外交政策を考えるに当たって、やはりこの二人がどのような考えをもつ人であるかを知ることは重要なのだろう。あまり、他人事のように見ているわけにはいかないね。しっかりと監視をしなくては。

だいぶ昔の記事でも書いたように、僕は日本がアジアから、特に近隣諸国から、好かれる国になるべきだと思っている。それを当然のこととしながらも、実際には友好関係が構築されるべき流れが生まれていないのも事実。もちろん、外務省はじめ、民間、政府、さまざまなレベルでの交流は進み、水面下での行動は継続されている。それでも、メディアに映る日本の対アジア外交は、小泉さんの主張に始まるトップダウンの方針に従事した、アジア軽視という誤った見方を生ませているのではないだろうか。話は逸れるけど、こうしたボトムアップの動きが注目されずに、トップダウンの動きのみがクローズアップされる構造は、どのように転換されるべきなのだろうか。グローバリゼーションが進展する上では、必ずしもボトムアップだけでなく、トップダウンの、社会学的に言うならばそれこそ「グローカル」な動きに注目されてくるはずである。それを、外交という国益が直接的に絡む問題にリンケージすること自体が無謀ではあるけれども、単純なトップの動きがある国とある国の関係を形成するわけではないことを理解することも必要なのかなと思う。

つまり、結論というにはあまりに乱暴なのだけれども、トップの人間が代わったから、日中・日韓関係がより悪化するという考えに寄りすぎず、水面下での交流、関係正常下に向けたボトムでの活動にも気を配り、構造的に国との関係を見ることを忘れてはいけないのかなと思ったわけです。それは逆に、別に誰がトップになっても、何かが劇的に変るということを暗示しているわけではないということでもあるわけです。民主国家であるならばなおさら、ボトムでの動きが重要なのだなと思った、今日の記事でした。



人権の普遍化

2005年10月21日 21時14分04秒 | 国際政治
一回生主体の国際法勉強会いってみた。
すごく、面白かったし、勉強になった。
これはヤバイと思って、今日はその一端をば紹介。

プレゼンテーターはMUN歴も長い1回生のカズ。
タイトルは「国際人権法と死刑」で、判例はソーリング事件。
あまり、人権には深く突っ込んでなかった自分にとってはまさに好遇。

プレゼンは、国際人権法と国際人道法の概説と相違から始まり、死刑制度へ。
この勉強会には、立命館大学の木原正樹先生が来てくれてます。とても丁寧な解説をしてくれてました。ちょっと、長いのがネックな気がしないでもないけど。

以下、特に興味をもった点(というか知らなかった点というかわかってなかった)。


① なぜ死刑制度の存在する国と存在しない国があるのか?

カズの意見としては、タリオ思想なるものが背景にあるらしい。いわゆる、「目には目を、歯には歯を」という考え方ですね。でも、まさか、これだけで国家は死刑制度の設置を決めないよね?どんだけ恨み合いの世界やねん!って突っ込みをしてみた。

先生曰く、死刑というか、刑罰の制定は大きく分けて二つの考えに基づいている。
第1に予防という側面、第2に応報という側面。前者はさらに、一般と特別に分けられる。つまり、刑罰をすることにより、類似の犯罪が次からはおきらないようにとする考えで、たとえば世間一般が殺人という行為をしなくなるというのが一般、そして強盗していた人がもう強盗することをやめるというのが特別。しかし、こうした分類自体は、数値の上から無意味ではとの批判がある。つまり、実際に死刑を実施している国でも犯罪は減らないし、実施していない国では減っている場合がある。非科学的だという批判だね。

応報について、これがいわゆるタリオ思想に基づいている刑罰の考え方。そうであるならば、結局は応報が死刑の存在根拠になっているのかな。と思いつつ、死刑制度についての話はこれでおしまい。


② ソーリング事件がもたらしたものは人権の普遍化と国際法の個人主体性か?

と強引にまとめると以下のようなことを考えた。思いっきりはしょってソーリング事件を解説すると、欧州人権裁判所が死刑制度のあるアメリカに英国がソーリング氏を引き渡すことをやめさせた事件であって、この結果、欧州における国際法の個人主体性が強調されたことと、主権国家の裁量が人権の普遍化の名のもとに狭まれたとも解釈できる事件(ものすごく異論反論あるだろうけど・・・)。

この点、勉強不足な自分には、国際法が個人に適用される感覚がどうもわからなかった。国際法の主体はあくまでも国家であり、個人はその反射作用を受けているだけだと思っていたわけ。だから、欧州がここまで、主権国家の裁量を制限して個人の人権を重視した点はある意味画期的だったし、驚いた。んでいろいろ考えたけどおいといて。

何が一番気がかりだったかというのは、欧州における人権重視の国際化への懸念。この点、先生も気にしていたのだけど、僕の懸念していた点とは多少違う。先生の懸念は純粋に法学者としての意見とでも言えるのか、要は、英米の犯罪人引渡条約が本来適用されるべき点で、人権を根拠にその適用を否定した欧州裁判所の態度は、法を適用し解決するいう裁判所のあるべき姿からは逸脱しているからいかんのではと。僕の懸念は、他の一年生にも似たようなことを言う人がいたけど、欧州の人権への考え方の戦略性、具体的には国際法を(人権に限りだが)個人に直接適用し、国家の裁量を狭めるという考え方が実際に、B規約委員会でも行われているという点。なぜならば、人権概念の普遍化は、そりゃ根底では世界に共通するところはあるだろうけど(殺人は悪とか)、地域によっては、この概念が普通だというところで、普通ではないという場所がある現実がある。そうであるならば、人権概念自体が普遍化をすることをまたずして、欧州の戦略により、国家の裁量を狭められ、個人の人権が尊重されるのは、現実の国際社会の姿からして危険なのではと思うのです。極端に言えば、西欧概念の対外的な圧力のかかった輸出に対する抵抗があるんじゃないかと。まぁ、何の実証もなくこう発言すること自体ふざけたことだけど。


そんなことを考えた、今日の国際法勉強会でした。
それにしても、よく1回生はあの勉強会を理解できるよなぁ。
本当にわかってるのかはわからないけど。

何はともあれ、久々に頭を使ったBLOGにしてみた今日この頃。
図書館を追い出されそうなのでサヨウナラ。

村田晃嗣講演会@小倉 その①

2005年09月27日 15時06分58秒 | 国際政治
2005年9月19日@小倉リーガロイヤルホテル

今回は、「朝まで生テレビ」でおなじみの同志社大学法学部教授、村田晃嗣先生の講演会に行ってきました。もう1週間前のことでややおぼろげ気味ですが、以下に僕がとりわけ関心に残った点をまとめようかと。

この講演会のきっかけは、サークルの友達が「がんばろう日本!国民協議会」という団体(僕は民主党の支援団体と捉えてますが…)で、村田先生の講演会が九州で開かれるということを教えてくれたことにあります。やはり、真剣に日本の将来を考えている人は、アンテナが広いなと改めて思ったね。

さて、村田先生の講演、題目は「日米関係と中国・朝鮮半島」というものでした。しかし、その内容は題目とはおおよそ逸れ、まずは日本の政治について話してくれました。これは僕のもうれしい誤算で、国内政治に疎い僕にとっては逆にいい機会になりましたね。

氏曰く、アメリカのカトリーナだけでなく、日本にもタイフーンがやってきたということです。すなわち、先の衆院選の結果、自民党が大勝し、一方で民主党が半壊したと。この点につき、氏はこれまでとどのように変わっていくかにつき展望されました。

一、自民党が採用した公募制という方法によって、これまでの自民党構成とはまったく背景の異なる人々が多く自民党員になったという点。それはつまり、政治に疎い人々が多く入り、自民党政治の素人化が生じる可能性がある。

この点、先の報道でも話題になった、26歳の衆議院議員、杉村太蔵氏の例を見れば微妙に納得してしまうところです(ちなみに氏のブログはhttp://sugimurataizo.net/)。一方で、既存の勢力も数多く残る中で、そう簡単に素人化という現象は生じないとは思うのですが。


二、民主党は、自民党との差異を強調するあまりに、左傾化する可能性がある。民主党は、さまざまな背景を持つ人々の集団であるため、下手すると政権交代が伸びる中で空中分解する可能性があるという。

これについては、何も言えないです。何を言えばいいかわからない…


さて、小泉外交についての氏の評価について書きます。氏は外交赤字という概念を用いて解説していました。外交赤字とは相対的で抽象的な概念だけど、ようは日本にとってマイナスの影響を及ぼしたことですかね。ならば、あまり用語を使う意味もない気がするのだけど。

氏は日米関係については肯定的評価を、それ以外の外交については否定的な評価を与えました。それぞれについての詳細を語る前に氏は小泉首相の外交姿勢についてこう評しています。

「小泉は外交を知らなかった」「外交に無関心でしかなかった」

そして、この傾向は自民党の圧勝により加速するだろうと言います。すなわち、国会の3分の2を占める大与党の元では、国会を通すことの少ない外交問題は後回しにされて、それこそ郵政民営化法案のように国内の重要問題の解決に時間を割き続けるだろうということです。これは後述するように、日本の世界における地位を考えたときには危険なことだろうと。


さて、日米関係について、小泉首相とブッシュ大統領の親密さを見ればその関係が以前よりも強化されているのは明らかです。しかし、この傾向がこのまま続くかというと微妙であると氏は言います。

すなわち、米にとっては、カトリーナ(そしてリタ)に関連する国内政治に手を追われて外部に目を向けることが困難であると、つまりはマネージメントがうまくはいかなくなり、日本への関心も低下するだろうとのことです。

一方で、日本は、米が日本に期待を寄せている多くの分野について、その期待に応えていないといいます(具体的にそれが何なのかについては述べていなかったと思うのだが)。こうした中、BSE問題などが政治問題化し、両国間の懸念事項として存在していることは危険であると言います。BSE問題ついて、米国議会は制裁措置も含めた決議をしているわけですが、こうした動きの中心となっている議員のほとんどはブッシュの年金政策(ブッシュの最重要政策のひとつ)の支持者であるということです。これらの議員たちは総じて畜産関係出身であり、故にBSE問題を押し出しているということです。ブッシュ大統領は自分の中心政策を持続するためにも、BSE問題をプッシュせざるを得ず、日本との関係が悪化する可能性は存在するということです。


さて、長くなってきました。
そして、僕も忙しくなってきました。
そんなわけで、また次回に書きます。

コメントください。


<続>

「考える」ことを考える①

2005年09月17日 16時04分10秒 | 国際政治
模擬国連の全日本大会が「考える」におかれていることで、BGを執筆する中でもいかに参加者に「考える」機会を提供するかも考えるわけです。

って、考える考えるってややこしいので「考える」を「思考」と表記しちゃいます。

さて、「思考」をするには、何かしらのキッカケが必ずあると思うんです。
その際たるものが、①読書②会話でしょう。

APUにいるとよく思うことが、APU生はよく「思考」することはできます。しかし、その割に何かを質問すると多くの確率でまともな「回答」が返ってこないわけです。じゃあ、質問に弱いからAPU生は②が無いのかというとそうでもない。とはいへ、APU生が①読書をしているとも考えられない。

ところで、「思考」の中身とでも言うのだろうか、方法とでもいうのか、それにも代表的なパターンがあると思うんです。一つ目が、論理展開型。つまり、何事も起承転結を交え、相手に自分の意図を1から10まで理解しようとしてもらうという「思考」法。二つ目が、いわゆる直感型。これは、パッとひらめいたことを口に出し、後からなんでそう思い立ったのかを「思考」するタイプ。

APU生に多いのはほぼ圧倒的に直感型でしょう。なんせ、会話をしても何の論理性も感じないのに、妙に納得してしまう機会が多い。そもそも、学生層の半分が留学生でしかも、日本語基準といっても在日コリアンや、中高で普通じゃなかった特殊な背景をもつ学生が多い。こうした人々の意見は「おぉ」っとよく感じる一方、「んで、それは何でそう思うの?」といってみると、多くの場合「なんとなく」。

論理展開型と直感型の人間がいて、どちらがよくてどちらがだめなのかと、考えても意味がないのかもしれないが、やはり「論理性」は必須の要件だと思うんです。
だって、相手に対して説得力をもたない意見は、自分の中で消化されて終わりなわけでしょ。人が発話をするときには、何かを理解してもらいたいから発話するのが当たり前だと思うんです。たとえそれが何気ない一言であっても無意識的にです。

ならばこそ、やはり「論理性」を磨く必要があると。ならばこそ、①読書をし、②会話をすることは重要だと思うんですね。人間誰しも成長したいと願うのは、こうした能力を鍛えたいという無意識的な願望の現われなんじゃないかな。

では、①読書と②会話は、どちらが重要なのか。当然どちらも重要なんですよね。でも、とりわけ大学生活は4年間というあっという間の時期。やはり、ある程度の見切りは必要なわけですよ。

僕は、やはり「読書」が重要だと思うんですね。なぜならば、自分が考えも及ばないことがずらーーーーーーーーっと書かれている。こんなに「思考」をめぐらせてくれる機会は無いでしょう。よく、読書をすると眠くなるから無理という人が多いんだけど(とくにAPUには)、それってただ文字を見て進んでいるからであって、一文字一文字に「思考」を巡らすことができれば眠くなるわけがないんですよ。とはいへ、文字に注目しすぎるのはよくないのだけど。

とまぁ、適当なシメをしてみて、次回は、「思考」の方法について考えてみます。メタ視点の重要性、critical thinkingへの疑問などなど…


※注意! 「APU生」といっても当然例外も多くいますよ。でも、すくなくとも4年間で出会った人の最大公約数を考えると以上のような見方になるわけです。怒らないでねー



自民圧勝の裏に無知が…

2005年09月13日 18時27分13秒 | 国際政治
などと、政治学をろくに学んでいない私には己の無知をさらけ出すことになるかもしれないのだけれども、選挙について書いてみます。

ご存知のとおり、自民党の歴史的大勝(得票率はともかくも議席数から明白)に終わった今回の選挙、色々と考えることが可能なのではと思います。とりわけ、僕が興味を持っている点は、無党派層の若年者層における自民党支持数の急激な増加です。

テレビや新聞などでも流れているとおり、これまで選挙にいかなかった、あるいは適当に投票していたという若者が自民党に投票した理由のほとんどが、「郵政民営化に賛成」とか、「小泉さんが好き」などであった。

僕は、このような理由で投票すること自体に疑問があるのではなく、当然に文句があるわけでもなく(ここに文句を言えば、知識層の独りよがりでしかない…)、ただメディアのあり方、とりわけテレビのあり方に疑問が残ったわけです。

管直人がインタビューの中で、「日本のメディアのレベルが低い」という言い方をしてましたが、質の問題というよりかはその構成の仕方がいけないのではと思います。

つまり、僕ら若年層が注視するテレビ映像に流れてくるのは、そのほとんどがキーワードであり、小泉さんの顔であり、一貫した政策の説明をしている場面がほとんどなかったわけです。

そこで重要となるのが、討論番組の存在ではないのだろうか。別に番組にする必要はないかもしれないが、選挙カーからの一方的な叫びではなく、各地で各政党の候補者が議論をし、その様子を有権者が簡単にのぞくことができる体制が必要なのだと思う。

民主党の意見と被ってしまう点が恣意的ではあるけれども、党首討論の機会をもっと多くメディアで取り上げる、または創る必要がある。つまり、僕ら若年層がより相対的な判断をできるように、論点を番組が設定し、それに関する党首の意見をぶつけあう姿、それを僕らが見れれば、より正確な「民意」を示すことができるのではないだろうか。

マニフェストなるものが存在するが、そんなものを読むのは所詮は知識層か暇人だろう。一般(?)の若者にとっては、そんな文字だらけのものを見ようとは考えない。それでも頼らなければいけないもの、それがテレビである限り(インターネットもありえるが…)、その映像が僕らの適切な判断を引き出すために必須の材料となると思う。


僕自身は「外交政策」を中心に支持政党を決めたいと考えていた。しかし、テレビにおいても、新聞においても外交政策について各党の考え方を示す番組、欄は皆無であった。マニフェストにおいても、抽象的なことを書いてあって、違いがよくわからない。

小泉首相が「郵政民営化」の是非を決める選挙だというならば、郵政法案が可決された後、ふたたび衆議院を解散してほしい。なぜならば、僕らは「郵政民営化」という論点でしか今回の選挙を見れなかったからだ。

日本の未来を担う、僕らの世代に、少しでも「考える」機会を与える、社会のあり方、メディアのあり方、政治のあり方が必要とされるのではないかと思う。無知な僕らを無知を前提でなんとかして「考え」させる機会を与えてくれなければ、そのうちに日本は世界から「馬鹿」にされるのではないかなと思う。


細かい知識がないなか、思ったことと言えばこんな感じでした。
みんなは今回の選挙に何を思ったのだろうか?

哲人宰相 マハティール(下)

2005年08月15日 11時37分40秒 | 国際政治
『立ち上がれ日本人 21世紀のリーダー像』

マハティールの講演のタイトルです。
要は、リーダーとはどのような人物であるべきかということについて話しました。

おそらく、主催者側は、いわゆる団体におけるリーダーとして、必要な要素をマハティールに話してほしかったようなのですが、彼自身は首相というリーダーとして考えるべきことについて終始話していました。まぁ、それでもいいかと思いながら、じっくりと話を聞いてみたところ以下のとおり。

*********


そもそも民主国家においてリーダー(国家元首)とは、国民に尊敬される人物でなければならない。そのためには重要な要素が二つある。すなわち、

かつてのリーダーは、その人がやりたちということを単純に決定するだけでよかった。すなわち、君主の言葉を待ち、人々は行動をしていた。

しかしながら、現代においては、リーダーがしようとすることに対して、国民が支持しようとしなければ、その物事は成立することはない。故に、リーダーは、国民が何をもっとも望むのかを把握し、それを実現させなければならない。

そのために必要な要素が、

第一に、国民の望むことを理解すること
第二に、リーダーが権威(Authority)を有すること

これらの要素を兼ね備えるには多くの時間が必要となるだろう。
故に、独裁的なリーダーが政策を実行する上では重要なのである。

Time is the most significant actor to implement for leader でなのである。


************

このように、マハティールは自身が独裁的なリーダーであったことを国民生活の向上のためには必須の要件であったとし、正当化している。

確かに、必ずしも独裁政権は問題とはならない。一方で、独裁政権の問題はその多くが汚職による、近親者のみでの政策運営をすることである。この点、マハティールは専門家委員会の設立により、客観的でもっとも有効性のある政策を採用している。そうした政策は、独裁的なリーダーであるからこそ、確実に実施することができるとしている。

米国の大統領制は、任期4年で再選が可能となっている。しかし、3選は不可能であるが(ケネディの例を除いて)。つまり、8年の任期が大統領には与えられるため、独裁的な(言葉が不適切な気もするが)政権を有し、有効な政策を実施することができる。

一方で、日本は小泉さんこそ長期だけれども、その多くが短命となる。ならばこそ、任期を設けるなどの議論も必要となるのかもしれない。

さて、彼は日本についても以下のように語った。


************

日本の政権担当者にとって重要視すべき点は、「Humanityと謝罪」である。

現在、東アジアにおいて共同体を創設する流れがあり、日本は東アジアのリーダーになろうとしている。そうなるためには、日本はアジア地域において尊敬される国家にならなければならない。

そのために必要なことは、日本がアジア諸国に「全面的に」謝罪することである。
日本は確かに、謝罪は繰り返しているが、南京大虐殺しかり、従軍慰安婦しかり、惨状を隠している点がまだ存在する。日本にとって、こうした惨状を認めない理由はないわけで、素直に認める必要がある。

一方で、こうした過ちを認めた場合、アジア諸国はそれらの惨状を過去のこととして忘れる義務がある。一部の国(中国)では、過去のことにいつまでもこだわり、未来志向をしないが、それは誤りである。グローバル化した現代において、過去のことを現在の関係に影響させてはならないのである。


日米関係について、日本は米に文句を言える国とならなければならない。本当の友人であるならば、相手が過ちを犯したときに、それを支持したりせずに、叱咤するはずである。ところが、今の日本は米のなすことをすべて正当化し、本当の意味での独立国とはなりえていないのである。


日本と中国の関係は確かに悪化している(政治的には)。国際関係において、人間関係においてと同様に、もし相手のことを敵と認識した場合、両者は必ず戦争をする。よって、日本と中国は互いを敵としてみることなく、尊敬しあうことが必要である。中国が戦争の準備を始めた場合、日本は米国により追従し、両者の溝はより拡大してくであろう。東アジアにおけるバランスオブパワーは日中という大国によって形成されるに違いないだろう。

日本の経済力は間違いなく、great power である。日本は大国としての自覚をもち、真の独立国として中国とともに東アジアの平和に取り組まなければならないのである。


ところで、大国に対して抵抗する手段としては、イラクにおけるアメリカに対するテロが物語るように、テロリズムであることに間違いはない。その点でテロリストが核兵器を使用することはなんとしても避けなければならない。なぜならば、テロは本来的に脅威で降伏させる主体であり、核は脅威を与えるもっとも有効な手段となるからである。

一方で、テロを名目としてテロを実行している国がアメリカである。イラクにおけるアメリカの攻撃は、イラク国民に十分な脅威を与えた。これをテロといわずしてなんというべきであろうか。人はみな、何が正しくて何が正しくないのかを自分の判断で認識しなければならない。アメリカのテロ攻撃に対して、われわれはNOを示す必要があるのだ。


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以上、質疑応答の内容も含めて書いたのでかつかつになってしまったけど、マハティールの講演内容でした。

日本人のやる講演と比べても、マハティールの使う言葉はその一言一言が非常に明快でわかりやすい反面、物事かなり単純化しすぎている気がした。しかし、この点、今回の講演会は基本的には高校生を対象として行っていたためにやむを得ないのかなとも思う。

やはり僕としては、日本が真の独立国となれるかという点に関心が向かった。
軍事能力の大半をアメリカに依存する以上、確実な独立国となることは不可能な気がするが、一方で、真の友人であれば過ちを指摘することができるはずだというマハティールの言葉にも納得がいく。

しかし、安全保障の観点からも、アメリカに軍事力を依存している以上、自立的な発言をすることは困難ではないだろうか。では、アメリカの軍事力が日本から撤退した場合はどうなるかというと、日本は中国という仮想敵国が存在する限り独自の軍事力を拡大せざるを得ないだろう。

一方で、そうした行為はアジア諸国に不信感を撒き散らせ、日本を尊敬する国が減る要因となる。

そうであるならば、日本はアメリカに依存せざるをえないのではないか。
ところが、こうした考え方は、日米関係と日アジア関係をゼロサムゲーム的に考えているところにミスがあると思う。

大分の国会議員である吉良さんにも質問したのだが、日米関係と日アジア関係の双方を醸成させていくための有効な手段があるとしたらそれは何なのであろうか。



哲人宰相 マハティール(上)

2005年08月13日 18時57分06秒 | 国際政治
8月2日@福岡県

高校生の養成プロジェクトの一環として、マハティール元マレーシア首相が福岡県に来た。運よくAPUの教授のつてでマハティール講演会を聴講することができた。

上下に分けて、マハティールについての話、マハティールが話していた中でとくに印象深かった部分を書こうかと思います。

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まず、マハティールというと講演前のイメージとしては、

「反米強硬派」「強情で強い」「ルック・イースト」

など「強い」という印象がありました。

ところが、一目見て驚いたのは、彼自身が華奢であり、温厚であり、人情味あふれる人物であるという点です。これが、アジア通貨危機の中、借款を断り、固定レートの維持をするなど、奇抜なというか強情な政策を打ち出した人なのかと思ったわけです。


彼自身、生い立ちはマレーシアの貧困層であり、バナナの叩き売りをしていたらしいです。青年期には、日本の占領下の中で日本人がどのような人なのかをはじめて知ったらしいです。

そのときの、日本人の印象というのは、

「日本人は勤勉で努力をする」「身を粉にすることができる」

なそうで、現在の日本人も多くがこうした人たちなのだろうという印象を持ってくれています。勤勉、まじめ、努力、って日本人ですよねえ。


そんなわけで、こうした彼の日本人観が後の「ルック・イースト政策」につながったのでしょう。

この政策、具体的には日本に留学生として派遣するわけですが、マハティール自身、首相就任と同時に国の柱は教育にありと考えていたようです。
それまでのマレーシアは、彼曰く、「ぬるま湯で怠けていた」らしく、とかく日本人のように勤勉なマレーシア人を育てたかったようですね。


また、「通貨危機」におけるマハティールの政策についてですが、これはアンクールによる米型政策が失敗に終わったことも影響があったようですね。

ただ、単純に固定相場制の維持を決心したわけではなく、NEACという協議機関を設け、各専門家を招集し、長時間議論し、こうした固定相場制の維持、内需拡大による危機打破を狙ったらしいです。

それは、首相自身が専門家ではなく、専門的な知識は専門家に任せ、最終的判断のみにおいて首相が結論するべきだという考えに立っているようです。
こうした、自分の能力を理解したうえで、メリハリをつける。どこぞの国の郵政民営化馬鹿も見習ってほしいですな。


さて、教育についてですが、マレーシアの教育は基本的に英語で行われ、小学生のころから英語での授業によって知識を獲得していきます。日本は翻訳文化のため、英語で知識を得ることはできないですけど、これについては、必ずしもマレーシアのやり方を賞賛することもないかなとはおもいます。日本語大好き。


最後に、マハティールさんは現在何をしているのか。
どうやら、『イスラムと非イスラムのかけ橋』となる活動をしているらしいです。
すなわち、テロが横行するこの時代において、イスラムに対する一辺倒のバイアスをなくし、世界中の人にイスラムの本当の姿をみてもらいたいらしいです。


そして彼は、日本にアドバイスをくれました。

① アメリカに追随するな
② 独立国であれ
③ 過去の罪から解放されろ
④ 日本の財産は人材にあり


さて、いかがなものか。

以下、続く。

紛争・平和・未来・現実

2005年07月14日 15時07分38秒 | 国際政治
みんなは、今この瞬間、どれくらいの武力抗争が世界に存在しているか知っていますか?
人と人が殺しあっている現実は現に存在するんです。

だからといって、常にその状態を意識する必要はないんです。
僕らには僕らの環境があって日々淡々とすぎていくんです。
でも、

ふとそういった現実を考えてみることも必要なのではないでしょうか?

身近な友と国際生と地域紛争、戦争、平和について裸になって話してみてください。
自分の常識は他の常識にあらず。新たな視点は自分の視野広げてくれる。
こんな環境に身をおいているからこそ、会話、対話すなわちダイアログが必要だと思うんです。

だから、少し考えてみてください。
自分と彼らと自分の世界と彼らの世界。
きっと、70カ国の学生が何かについて同時に考えれば、
そこは新たな視点の宝庫になる。

だからみんなで対話しよう。
いろいろな現実と自分を向き合わせよう。

そういった場を僕は作ります。
秋セメスターに対話の場を作ります。

あの、スリランカシンポで学んだ経験を活かしましょう。


有志募集


おだ

「ブーゲンビル」を知っていますか?

2005年06月24日 11時56分36秒 | 国際政治
「ブーゲンビル」ってどこにあるか知っていますか?

以下、『やじ研』というHPから拝借しました。


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ブーゲンビル島はパプア・ニューギニアの東北端にある島だが、1975年のパプア・ニューギニア独立時に「北ソロモン共和国」、90年代には「ブーゲンビル共和国」と、2度にわたって独立を宣言している。特に1988年から10年間続いた独立戦争では、激しい戦闘に加えて経済封鎖による食糧・医薬品の不足で、18万人の島民のうち1万人以上が犠牲になったとも言われている。

ブーゲンビル島独立の直接のきっかけになったのは鉱山だ。島にある銅鉱山はオーストラリア資本の経営で、一時期パプア・ニューギニアの外貨の60%以上を稼ぎ、そこから上がる税収は政府歳入の20%に達していたほどだが、豪州領時代からこれらの利益はほとんどが本国へ吸い取られ、島にはわずかな地代しか還元されなかった。しかも日本でも足尾銅山の鉱毒事件があったように、川や海は鉱山の廃水に汚染され、魚は捕れず畑の作物も食べられないようになった。「金は寄越さず、公害だけ撒き散らす」じゃ島民の怒りが爆発するのも無理からぬこと。1988年に島民が鉱山会社へ地代値上げの要求をしたのを皮切りに、デモや官庁襲撃、空港破壊、鉱山占拠などと、政府側の容赦ない弾圧に応じてエスカレート。ブーゲンビル革命軍(BRA)というゲリラ組織を結成し、90年5月にはブーゲンビル共和国の独立を宣言した。これに対して政府側は島への交通を一切遮断して、経済封鎖で対抗した。

政府軍はオーストラリアからの武器援助を受け、南アフリカから傭兵を雇って掃討作戦を続けたが成功せず、一方で島民側も多くの犠牲を出して疲弊。1998年にはオーストラリアとニュージーランドの仲介で停戦合意が実現し、国連の監視の下でBRAの武器回収と自治政府作りが進んでいる。ただし、BRAの強硬派の一部は、その後も鉱山に立て篭もって抵抗を続けているようだ。

ブーゲンビル島独立の背景には地政学的な問題もある。そもそもブーゲンビル島はソロモン諸島の一部で、ニューギニア本土へは500km以上も離れているのに対して、ソロモン共和国の島々へはほんの数kmだ(地図参照 )。これは民族の分布などとは関係なく、旧宗主国の国境線をもとに独立したためで、ニューギニア北東部とソロモン諸島北部はかつてドイツ領だったが、ソロモン諸島北部は1900年にイギリスが買収し、それ以前からイギリス領だった南部と合わせて1978年に独立。ブーゲンビル島を含むニューギニア北東部は、第一次世界大戦後(1920年)に豪州の委任統治領(後に信託統治領)となり、それ以前から豪州領だったニューギニア南東部と合わせてパプア・ニューギニアとして独立した(ニューギニア西部はオランダ領→インドネシア領となり、西パプア共和国としての独立運動が継続中)。つまり、島民の生活圏とは関係なく、イギリス領か豪州領かで線引きされてしまったわけですね。

パプア・ニューギニアが独立する際にも、ブーゲンビル島は隣接する英領(後にソロモン共和国)のショートランド諸島を合わせて、北ソロモン共和国として分離独立しようとしたこともある。ブーゲンビル島が10年にわたる経済封鎖でも何とか持ちこたえていたのも、ソロモンへ頻繁に密輸ボートが行き来していたからで、BRAは「かつて日本軍が捨てた武器を掘り起こして戦っている」と言われ、海外マスコミの取材陣に写真を撮らせていたが、実際には50年間も熱帯のジャングルで野ざらしになっていた武器が使えるはずはなく、戦闘に使っていた武器はソロモン経由で密輸していたようだ。


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これから、模擬国連の年末の大会に向け、安全保障理事会で議題となっている、約30の諸問題について、簡単にまとめようかと思います。

孤島の住民である日本人は、ともすれば近隣や欧米にのみ目がいきがちだけれども、世界は広いし、僕たちの知らないところで、信じられないような惨状が現に存在するわけです。

地球人として、こうした状況に無知でいることに、何か苛まれる感ありませんか?
別に、何かをやろうとか、お金をあげようとかではなく、世界がこういう状況で今の僕らがいるという意識も必要なのではと思うのです。

何かをする一つの主体として「外交官」がいるわけだけど、彼らの行動は結局は、日本全体の意思表示になるわけです。だから、少しでも世界で何が起こっている人々が増えることは、日本としてその問題が起きている場所に対して深くコミットできるわけです。

ある種の「国益」の原点はこういうところにあるのではないでしょうか。
「外交」と自分自身をあまり遠距離に感じるべきではないということです。


ところで、「外交官」は高給取りだという見方はやめてくださいね。
だって、初任給からして、圧倒的に一般企業より安いですから…
ほんと、これ以上、世間の誤解で給料減らされるのは辛いっす…

拒否権(The Veto Power)

2005年01月21日 01時24分25秒 | 国際政治
みなさんお久しぶりです。

ほんとーーーーーーーーーーーーに、長い間、更新さぼってごめんなさい。
意外なことに、けっこう読者がいたらしく、申し訳ない。

ところで、今度、外務省主催の学生討論会なるものにでることにしました。
といっても、書類予選で落とされたら終わりだけど。

論題の二つ目は「新常任理事国への拒否権の付与の是非」です。
ってなわけで、今回は拒否権です。

とはいえ、自分の意見はちょっとおいといて、楽しい論文があったので、僕の稚拙なかつ恣意的な和訳あんど気に入ったところを以下に乗せます。また、基礎的な事項についての解説も書きます。最後にちょっと感想を書きます。


1. 拒否権とは

拒否権(veto)とは、実際に存在する権利ではありません。
国連憲章(UN Charter)の27条3項は「安全保障理事会の決定は、常任理事国の同意投票を含む9理事国の賛成投票によって行われる」と規定しています。

つまり、安保理で決議を採択する際には、常任理事国5カ国(英米仏中露)の賛成(もしくは棄権)票が必要となるのです。それゆえ、常任理すべてが納得しない決議案は採択されないという状況が生じます。この権力を拒否権と呼んでいます。

2. 拒否権の行使

冷戦時代、米ロは安保理で対立し、拒否権の相互乱用により、安保理は機能麻痺に陥りました。
拒否権の行使は、決議案の不採択を意味し、それは、国際の平和と安全の維持の主要な責任を担う安保理の機能停止をもたらしたのです。

冷戦が崩壊し、新たな世界秩序の模索が続く中、地域紛争や民族紛争が多発するようになりました。冷戦期で米露という超大国による上からのイデオロギーの押しつけが安定をもたらしていた地域に、その押しつけがなくなったことで、民族主義などの理由から紛争が続発しました。

ところが、冷戦後は冷戦以前に比べ、格段に拒否権行使の回数は減りました。
これは、上記の国際関係の変化が大きな理由の一つとなるでしょう。
すなわち、国際社会はもはや、国家間の対立ではなく、国家内での対立への対策をする必要があったのです。

しかし、拒否権の効力が弱った訳ではない。それが、以下で述べる論文のスタート地点です。"Hidden Veto" という力が現在においてもなお顕在化しているのです。



3. 本論

"Hidden Veto"、いわゆる拒否権という言葉を使わないでも、案に常任理が討議中の決議案に対して、拒否的な反応を示すことによって、議論の行方を大きくかえる力、が問題となる。

この"hidden veto"は、冷戦後においても、回数が減ったわけではない。そもそも、数えることが不可能なので、具体的な数はないが、何百回以上もその機会があったという。

この"hidden veto"は、公開会合(つまり記録に残る会合←TVでやるやつ)では、拒否権を明示しなくなったが、非公式討議(informal consultation)では、その力が猛威をふるっている。P5は記録のとられないところでは、他のメンバーに対して、自由に圧力や脅威を与えている。つまり、公開会合で拒否権行使を示唆する前に、非公式討議においてメンバーをP5はより自分たちの立場にシフトさせ、国際世論を彼らの思うが方向に向かわせているということ。

例えば、アメリカはイスラエルに関する決議についてはほぼ例外なく拒否権を発動する。アラブ諸国はこれに対し、毎月イスラエルと自治区に関する討議をするようにしむけているが、アメリカはイスラエル問題に対する安保理の重要な役割というものは妨害している。

その一方で、2003年のイラク戦争開戦前の安保理での討議における、フランスの拒否権の行使の仕方は稀なケースであるが、非常にpositiveな効果を与えたと評価する。上記にいうように、冷戦後、hidden vetogaが非公式討議で頻発する中で、フランスは公開討議の中で、vetoを示唆していた。これは、アメリカ以外のおおくの国が、フランス側にたつことになった大きな理由である。

しかしながら、多くの場合は、ある一カ国の拒否権の問題が、多数派国の意思を妨害しているのである。さらに、それは、圧倒的多数を誇る国連加盟国、そして、国際世論にさえも影響を与えているのである。

それゆえに、安保理は決して、P5自身が関連している危機に対しては、議論をしないのである。こうして、チェチェン、チベット、シンチャン、北アイルランド、スーダン、ウガンダ、コロンビアなどの忘れられた紛争が存在するのである。

国連憲章は議事進行上の問題として拒否権という権利を与えたわけではないのに、P5は拒否権という権利を主張するのである。


< Blocking Action >

イラクに関する討議は、これまでにないぐらい、拒否権のあり方を批判させる契機となった。10年以上にもわたって、米英は露中仏とhidden vetoの行使によって衝突してきたのである。それは、安保理という場だけではなく、例えば経済制裁委員会においても同様である。

hidden veto は悲惨な結果をもたらす。安保理は、1994年のルワンダでのジェノサイドに対する行動をフランスと米がhidden vetoを行使することで防ぐことができなかった。仏米は国連の行動を妨げた訳ではないが、hidden vetoの行使が、国際法上の重大犯罪であるジェノサイド行為の重大さを弱めたことは確かである。国連の報告書(s/1999/1257)では、安保理の失敗は、ルワンダでの状況を明確にジェノサイドだと認定しなかったことであると指摘している。ジェノサイド条約は、ジェノサイドと認定された場合は、集団的な介入を要求している。しかし、安保理は、ルワンダの状況を"genocide"と示す決議を採択することができなかったのである。

その他にも多くの悲惨な結果がhidden vetoによってもたらされた。human rights watchはこのような批判をしている。「アメリカはお金を節約することを、ベルギーはメンツを保つことを、フランスは彼らの同盟国であるジェノサイド政府を守ることを、唯一の関心事項として抱いていたのである。」。


拒否権という力自体をなくすことが、hidden vetoの問題を解決する唯一の方法である。しかし、P5は拒否権システムのいかなる改革にも反対している。P5はいかなる拒否権廃絶の提案も拒否し続けるであろう。たとえそれが、拒否権行使の制限に関する提案であっても。P5は、拒否権は最後の手段であると言及しつつも、実際には彼らはhidden vetoを頻繁に行使するのである。

彼らの特権の乱用は、安保理を堕落させ、非民主化させ、正当性を失わせ、悲しい非効率をもたらすのである。

以上。




非常に、拒否権に批判的な書き方をしているけど、いってることはかなり現実的で、それゆえに拒否権を廃絶すべき意義がよくわかります。

その一方で、拒否権の有用性については、イラク戦争時のフランスのやり方から認めており、この点を考察深めれば、新たな拒否権のありかたとして十分に議論できるのでないでしょうか。

現P5が、拒否権の制限をあくまでも拒否し続ける以上、安保理改革に残された選択肢は、新たな拒否権のあり方という点に集約されているんだね。そういう意味では、そもそも拒否権の廃絶というのは論外になってしまうけど。

みなさんは拒否権についてどう思いますか?


その際、「非民主的」だからとか、「不平等」だからという理由で、拒否権の廃絶を主張するのは弱いと思います。国際社会における、パワーゲームの中で、拒否権というのがどのような効果を持ち、どのような結果を生み出したのかを知った上で、初めてその廃絶を議論できるのではないでしょうか。

ある特定のスーパー国家に対してのみ与えられる特権は、ときとして国際の平和に重要な貢献をしてきたのです。5大国が戦争をする姿を誰も望みません。




以上です。いっぱい書きました。

感想待ってます。


では


2005年1月21日

安保理改革(2)

2004年12月16日 01時11分43秒 | 国際政治
しばらくぶりです。
更新しようしようと思いつつも手がすすみません!

そうこうしているうちに、北朝鮮が嘘つき国家であることが日本を怒号の海とさせ、
IBMが中国企業に身売りし、ウクライナで大騒動などなど、いろいろありますねえ。
日々刻々、世界は動き、日本も動く。そんなこんなで安保理改革の続き。

前回は、安保理改革の大枠の説明をしました。
今回は、もう少し各論に触れて、具体的に考えて見たいです。


そもそも、何を基準にして、各国は安保理の議席拡大を訴えているのでしょうか。
先日、提出されたパネルの報告書では拡大された議席数を24-25辺りとしていますが、
24という数字は実は多くの国が提案している数字です。

現在の安保理理事国の構成国を見てみると、常任理事国にはアジアが1(中)、北米1(米)、CIS1(露)、欧州2(仏・英)となっています。
それに対して、非常任理事国は、アジアが2(パキスタン・フィリピン)、アフリカ3(アルジェリア・アンゴラ・ベニン)、ラ米2(チリ・ブラジル)、欧州3(ドイツ・ルーマニア・スペイン)となっています。

安保理は常任理事国が拒否権を有するため、決議を採択する際には、常任理事国5カ国+非常任理事国3カ国の賛成が必要になるわけです。つまり、もしアフリカの3カ国が採択に全員反対したとしても、決議は採択され、先進国有利の決議しか採択されません。そこで、もし24カ国に議席が拡大した
場合、どの地域からどのくらいの国が増えるかは決まってはいないものの、過半数の15カ国は途上国、あるいは経済推移国に位置する国が占めることになるでしょう。

それは、これまでとは違った、安保理の議論が進み、やや途上国にも配慮された内容となることを意味します。その一方で、利害がより複雑に絡む構成になるという意味で、議論の迅速性は減速する可能性が大きいことも意味します。

国際の「平和と安全の維持」を目的としている安保理ですが、安全保障の問題を扱うが故に、各国の利害関係はダイレクトにぶつかりあい、ときとして安保理の麻痺という最悪の状況を生む可能性すらあるわけです。

単純に、191加盟国を15ヶ国代表するのはおかしいから拡大しようと、そういう話ではないわけですね。拡大することの不利益をしっかり認識した上で、拡大することの利益と比較考量しながら議論をする必要があると思います。

日本が安保理常任理事国になるにあたって、その経済力を中心とした「カネ」の側面が強調されますよね。では、今の安保理構成国はそういう貢献をしてるのでしょうか?

現在の非常任理事国であるベニンなどは、国連加盟からずっと、分担金を滞納している国です。なぜ、このような国が、191カ国を代表する安保理のメンバーとして機能できるのでしょうか。

身近なことを考えてみれば、僕らの血税がPKO派遣にとられているはなしは前回しましたが、そうした派遣の議論をするメンバーの一員としてお金を払っていないベニンなどが参加しているわけです。この状況もおかしいですよね。

安保理改革の議論をするには、まず拡大ありきではなくて、なぜ拡大する必要があるのか、どのような国が安保理のメンバーとしてふさわしいのか、そういういった点からスタートして議論を始めなければ、えてして数だけの議論となってしまい、中身の無い議論となる。それは、すなわち、各国の支持を得ない議論となる。それゆえに、理念という部分での、各国のコンセンサスが必要となってくるのではないでしょうか。

もちろん、外交の担当者たちはそんなことわかってるとは思うんですけどね。
テレビや新聞で僕らが知れるのは、せいぜい、あの国が日本の常任理事国入りを支援してくれているだとか、あの国が反対しているだとか、そういった表面的な内容に限られています。そういった見かけにだまされずに、その根本の部分に触れることで、こういった情報が効果を得ると思います。

次は何かこーかな。




安保理改革(1)

2004年12月03日 02時41分04秒 | 国際政治
12月になりましたね。
本当にときが経つのは早いものでして、もう2004年が終ってしまう…
ついこのあいだまで、ミレニアムだの同時多発テロだの言っていたのに、2005がやってきます。
素敵な1年をおくれましたか?あと1ヶ月、がんばりましょー

さて、

11月30日、アナン国連事務総長の諮問機関である、国連改革に関する「ハイレベル委員会」が報告書が提出されました。

「国連改革」は、ミレニアムサミットでもその重要性が謳われましたが、いわゆる「安全保障理事会改革」とは多少異なり、例えば、国連の費用負担から活動のあり方から幅広い分野の改革を促すものです。今年末に開かれる模擬国連の全日本大会の会議の一つもこの「国連改革」をテーマにしています。興味のある方は参加してみてください(http://www.ajmun.org/04/top.html)。


「安保理改革」は「国連改革」の中でも、極めて重要な地位を占めています。それは、第一に国連の目的は、『国際の平和と安全の維持』であり、その主要な任務を安保理が担っているからです(国連憲章参照)。第二に、近年の安保理における議論は、大きな注目を浴びています。とりわけ、イラク戦争開始か否かにおける、仏西露VS英米の対立は記憶に新しいでしょう。

安全保障理事会は、国連が発足した当初は、常任理事国は現行と同じ5カ国だったものの、非常任理事国は6カ国でした。それが、1965年には植民地主義からの開放に伴う国連加盟国の増加により、非常任理事国を10カ国に改定しました。それから、およそ50年、国連加盟国は設立当初の51カ国から191カ国にまで増加しました。それにも関わらず、周知のように、安保理の議席は15のままです。

安保理の代表性、正当性を考えるとこの191:15という比率は誰がみても疑問に思うところでしょう。しかし、現実に50年にも及ぶ安保理改革の議論は実らず、現在の状況を続けているのです。

この議論を難しくさせているのは何でしょうか。そこには、多くの要因があります。常任理事国の拡大について見れば、日本が立候補すれば韓国が反対し、ブラジルが立候補すればアルゼンチンが反対するなど、ライバル国家の対立があります。また、単純に米国の影響力が低下することによる米国の消極的な態度もあります。非常任理事国については、どの地域からどのくらいの国を出すのかが問題になります。191カ国のうち、そのほとんどは発展途上国です。つまり、安保理が代表性に正当性を持たせるのであれば、現状の安保理に占める途上国の数すらもおかしいということになります。

安保理改革の問題はこれだけではないです。例えば、日本の血税は、PKOが派遣されるたびに使われているわけですが、非常任理事国もない日本は(来年1月からは非常任理事国)、どのような議論を踏まえてそのPKOが派遣されるのかを把握していません。国連常駐代表部の方もいってらっしゃいましたが、日本の代表部に請求届けだけが届けられ、お金だけを取られているのです。つまり、安保理における意思決定過程はそのほとんどが非公式会議であり、それらの議論の過程はほとんど記録されないのです。

また、拒否権の問題も大きな焦点となっています。日本は従来より、新たに常任理事国となる国と現在の常任理事国は差別されるべきではないと主張し、新たな常任理事国に対する拒否権の付与を主張していました。しかし、米国を含め、すべての現常任理事国は拒否権を付与することに反対しています。

この件に関して、日本はインド・ブラジル・ドイツ(いわゆる「G4」)と協調し、常任理事国になることを優先し、拒否権に関しては、議論しないことにしました。これで、少しは議論が円滑に進むのかな。

少し専門的な話になりますが、安保理改革の議論は通常、クラスターⅠとクラスターⅡというふうに分類されます。前者は主に、議席の拡大や拒否権を論点としていて、後者は安保理の透明性やプロシージャーについて議論しています。マスコミなどの報道はほとんど、前者に傾倒してますが、とりわけ金持ちの日本にとっては、先述のとおり、透明性の問題も重視しなくてはなりません。学生は、拡大議論ばかりに傾倒しないで、後者の問題にも目を配りましょう。Global PolicyのHP(http://www.globalpolicy.org/security/reform/index.htm)は大変充実してます。ぜひ関心をもって覗いてくださいな。

さて、安保理改革の議論はここまで述べただけでも、大変多くの論点があり、またその一つ一つが困難な問題であることが理解できると思います。それだけに、勉強をする面白みがふんだんにあります。また、Global Policyにしてもそうですが、非常に多くの勉強材料もあります。さらには、模擬国連の活動でも安保理改革は人気の議題です。しかし、しばしばゲーム性を重視されますが、上記の点を考慮して少しでもリアリティのある充実した会議にするのもいいと思いますよ。

とまぁ、まるで終わりますという雰囲気ですが、このテーマは実は僕にとっても非常に好きなテーマうです。しかも、今回は基本的な事項の羅列に留まっており、はっきり言って語りたりません。これからはいろいろな議論を展開していきたいと思います。

これをみたアナタ、安保理改革について思うことを、ぜひともコメントしてみてください。
議論こそ勉強のための有効なツールです。

では