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Noblesse Oblige

「裕福な者には使命がある」

これからは、使命感をもって活きましょう。もっと、もっと、知りましょう。

都知事選

2007年03月15日 23時52分29秒 | 国内政治
ご無沙汰してます。特に何もせずに淡々と日々が過ぎています。廃人になりかけですね。追われるモノ・コトがないとダメな人間なんです。

報道ステーションを見ていました。都知事選に立候補している4人の議論を聞いていました。何か、興味が沸いてきた。東京都をどう育てていくのか。何とも楽しそうな話じゃないですか。わくわくするね。

東京オリンピックについて、石原さんは国威発揚としての意義を訴えて、吉田さん、黒川さんはそれを目的としてほどの意義があるのか。他に資源投入すべきでないという旨で反論。浅野さんは、何のためのオリンピックなのかを議論して立候補の有無を決めたらよいという論。

僕は東京でオリンピックが見てみたい。オリンピックが国威発揚でなければ何なのか。それが国威発揚であることに疑いは無いわけで、むしろ国民が本気でオリンピックを開催する気があるのか無いのかという点を重視すべきではと思う。あるいは、東京という環境の中で現実に世界の他の候補地に勝てるだけの計画があるのか否かという点ではないでしょうか。福岡と争ったときの東京の計画を今度は候補者が議論しているのを見ることができればよいのでは。

浅野さんが提起していた、東京で急激に増加する老人に対する介護、あるいは石原さんがいうところの介護を必要としない老人の生きていける環境整備という点にも興味が惹かれた。対立点が一見わかりづらいこうしたテーマも、老人にとってどのような環境で幸福な日々を送ることができて、そのためにはどのような箱やシステムを創ればよいのかという繋がりの見えるわかり易い議論がされればと思う。

それにしても、黒川さんの態度は失礼極まりない。カメラの前で愚痴をこぼすなんてありえないでしょう。政治家でなくてただの有識者だってことが露見されちゃったね。浅野さんがかなりいいなと思った。4人の中で最も議論の筋が通っていて、ブレが少なかった。石原さんは話が飛びすぎ。吉田さんは話が極端になりすぎ。政治家っておもしろい職業ですね。

法人税

2006年12月04日 15時13分44秒 | 国内政治
政府税調による答申で法人税の減税が問われている。法人税を現行の40%から35%くらいにまで減らせという要求のようだ。

実は、法人税は全ての企業が払うものと思っていたのだけど、そうではなく一部の大企業のみが支払うらしい。つまり、儲けている企業は社会に還元せよということなのだろう。

国際基準からは、日本の法人税はやや高い部類には入るものの、極端に高いわけではない。減税を要求する人々は、国際競争力の確保を念頭においているようだ。

しかし、本当に法人税を減税することは正しいのだろうか。借金まみれの日本では、払える人が少しでも多く払うという考え方をするべきだと思う。実際に、国際競争力は現行の法人税率であっても、全ての企業が諸外国に対抗できないということではない。

払える人が払えるだけ払うべきなのか、払える能力のある人にはアメを与えてより強力な力を蓄えてもらい、国際優位に立たせるべく支援していくべきなのだろうか。一部の企業が大きな力を得るよりも、現行の法人税率によって賄える歳入を中小企業に転化することによって日本全体の企業の活性化に繋げるべきではないのかというのが多くの人の意見なのではなかろうか。と思う。わけです。

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介護悲劇

2006年11月22日 13時34分27秒 | 国内政治
「介護悲劇」という言葉を最近知りました。ニュースでよくみるようになった、介護に疲れた夫が妻を殺害するという事件をこのような言葉で表現するようです。高齢の夫婦のどちらかが介護を必要となった場合、当然、どちらかが介護をするわけですよね。そうなると、老人が老人を介護するという状況になる。高齢の母親が高齢の息子を介護するというケースもテレビでやってました。いずれのケースも、介護する側ですら、病院に通い、自分の病気と闘いながら相手の介護をするという状況。

自分の妻なのだから、介護をするのは当たり前だと、当たり前のように考えられる人ほど、市や国の制度に頼ろうとせず、自分だけで頑張ろうとするらしいです。介護する側もされる側もそうした助けを求めたくないと考え、そして追い込まれ、死を選ぶというのはあまりに悲劇的だと思う。

では、市や国が強制的に介護することがよいのかといえば、そう簡単な話でもないですよね。本人たちが嫌だといっている以上、助けようにも助けられない。ならば、こうした制度を利用することを嫌う人々をどうすれば救えるのだろうか。

一つには、制度の実効性というか信頼性を向上させること。現状では、ホームヘルパーの数が足りないという数字面での困難さもさることながら、家庭訪問した職員さんが、その家庭の実情を把握できるだけの能力を有していないというキャパシティの問題が深刻なようです。でもね、そもそもこうしたヘルパーになろうとする人々がたくさんいるということだけでも、僕はすごいと思うわけです。いや、すごいなんて言い方は本人たちには失礼なのだけど、やはり自分にはできそうもないことなので、尊敬します。

いま一つには、地域のコミュニティを活性化させること。つまり、「お隣の○○さんのおじいちゃん、最近、散歩しないわねぇ」と思ったら、すぐにインターホンを押して、「元気ですか?」と一言かけられるような環境つくりが必要だと思うんです。そのためには、形骸化している自治体(少なくとも僕の地元は)の会合なので、定期的に該当する家庭の状況を確認しあうとかの場を設けるなど、すればよいのではと思います。しかし、こうしたやり方も、僕のような介護に対して真剣に向き合えない、つまりは思いやりのない(?)人間が本当に協力してくれるのかどうか疑問です。

結局のところ、どれだけ真剣にこうした人々のことを一人ひとりが本気で考えられるかというところなのではないだろうか。老人に優しく、とか、子供もみんなで守るとか、個人個人の意識面での改革が一番重要なのだなと思います。僕も、もう少し、おばあちゃんに優しくなろう。

教育基本法改正案

2006年11月17日 15時47分23秒 | 国内政治
野党欠席のまま衆院通過をしたわけですが、結局、愛国心などの議論はどういう結論になったのだろうか。採択された文言は、「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」とされ、戦前の軍国主義を想起しづらい文言だと思う。民主党の文言はより直接的な表現だっただけに、本当に採択されてしまってよかったのだろうか。

こうした、議論を愛国心についての議論として扱ってきたメディアも、どこか民主党の行動に興ざめしてしまったようだ。そもそも、なぜこのような文言を新たに加える必要がでてきたのか。

一つには、伝統芸能や、伝統技術を引き継ぐ人材が急激に減少し、古来より日本に残る文化が無くなっていくという危機感があるのだろう。日本という国に対して何も感じないという若者がいるということに対する危機感よりも、こうしたある意味実利的な側面を重要視した結果としての文言ではなかろうか。

具体的に教育の現場でどのような指導が行われるのか。気になるのはその一点であって、政治的な駆け引きにこの種の議論が持っていかれるのは筋が違うと思う。重要なことは、教育委員会の存在やら、いじめの存在やら(そんなものはなくならないわけで…)ではなく、子供達に教師が何を用いてどのように指導するのかという点だろう。

例えば、地元の伝統芸能を学ぶことを必修科目としたり、京都への修学旅行を全ての学校の必須事項(笑)としてみたり、そうした具体的な議論が聞きたい。子供を持つ親や、これからそのような親になろうとする僕らの世代が気になるのはそこだろう。こうした具体的な提案は政治レベルではしなくても結構。ならば、どこで議論されるべきなのかという指標くらい提示してもよいのではなかろうか。例えば、学校単位で保護者と教員が年に一度の授業編成会議みたいのを開催して、その中でオリジナルの授業を創っていくというのはどうだろう。

グローバル化が進展しているからこそ、海外の人に対して、「日本はこういういいところがあるんだよ」と、全ての子供が自信を持って言える環境を創っていくことは必要だと思う。それは、何の観点からそう思うのかといえば、誰もが一度は考える、「自分は何なのだろうか」という疑問を持ったときに一つの答えとなるようなもの。空虚な自分を感じたときに支えになる何かとしての国を愛する気持ちとして、愛国心というのは必要なのではないかと思う。

憲法公布60年

2006年11月05日 12時20分38秒 | 国内政治
11月3日で憲法が公布されてから60年が経った。今の憲法は、60年前のそれと全く変わらず、さまざまな解釈変更を伴って弾力的に用いられてきた。世界は変わっているのに、日本の憲法は変わっていないというだけで憲法を変えるわけにはいかない。憲法はその国のアイデンティティであり、日本とはどのような国かということを内外に示すものだから、当の国民がそれを意識しない限り憲法を変える必要はない。

憲法19条の幸福追求権によって、環境権、日照権、プライバシー権など新たな人権が憲法上も認められるという解釈がなされた。逆に言えば、これらの新たな人権を憲法に改めて書く必要性はそれほどない。また、統治の分野でも、連邦制を採用するならともかくも、道州制を採用するならば、憲法解釈によって可能であって、改正をする必要はない。結局、憲法改正問題は第9条の問題に集約されるのだろう。

憲法には自衛隊に関する規定がない。一方で、「防衛庁」という組織が「防衛省」へと変わろうとしている。戦力を保持しないはずが、戦車だったり武器を保持している。だから、現実と乖離しているといわれる。これが、第9条を改正する理由の一つとなる。現実にそぐわない内容ならば、改正してしまえばよい。と思ってしまうわけだけど、事はそんな単純ではないみたいだ。

戦前の軍国主義の反省に立ち返り、本当の平和国家とは何かということを広い視野で考えていかなければならないのだろう。力を持つことは平和と反することなのか。理想ばっかり言っているわけにはいかない。米国軍が日本から完全に撤退すれば、現実に他国が日本に攻め込んでくる脅威が増す。また、テロリストの躍進(?)によって、対国家ではなく、対非国家を想定した防衛を整備する必要が出ている。確かに脅威は存在する。だから、力を持つことは必要。でも、これは根底に争いがあるということを前提とする。じゃあ、平和国家って何だろう。

代理出産

2006年10月27日 00時54分06秒 | 国内政治
塾講師として二人目の小論文の生徒を指導してきました。受験まであと2週間と少しということで先生も必死です。小論の授業って面白い。論理的な物事の考え方を語るとともに、色々な問題に対する客観的な見方など等を教える。テーマも多彩。

今日は医療問題を中心にフォローしました。特に熱くなったのが代理出産について。向井さんの裁判がきっかけで一気に注目されたこのテーマは、入試でも狙われる可能性あり(と勝手に思ってる)。

問題となっているのは、代理出産によって生まれた子供が、代理出産を依頼した夫婦の子供として法的に認定されるか否かである。この議論は倫理面と法制面から議論がなされている。倫理面からは、代理母のお腹に何ヶ月もいた子供が、生まれた瞬間に違う人のもとへ行くことによって、代理母の心理的な負担が高まる等といわれる。法制面からは、民法に夫婦の絆について、子供を生んだ母という規定があるわけだから、法理解釈によれば代理母が生んだ子供が依頼した母の子供と認定されることはない。ならば、法を改正する、あるいは解釈を変更することによって積極的に法的絆をもたらす措置が必要なのか否か。

向井さんのケースは裁判所がこの解釈変更を行った故に注目された。文科省は代理出産についての見解を変更することを検討しているらしい。代理出産が認められる方向に向かうのだろう。

生徒から出た重要な問題点としては、代理母のメンタルケアに関する議論を除いた形で代理出産を認めるか否かの議論をするのは妥当ではないということだった。なるほど、痛い思いをして生んだ子供とすぐに離れるというのは辛い。

そこで提案されるのが、一族による代理出産という方法。代理出産を実の母に依頼するケースが存在する。これならば、代理母の心理的負担も比較的少ない。よって、代理出産を一律に認定するのでなく、こうした制約を加えた上で認めるべきだという結論になった。

いずれにしても、子供を生みたくても埋めないという夫婦のために代理出産という手段があるのだから、個人の人権を尊重するという観点からは代理出産という手段は認定されて然るべきなのかもしれない。むしろ、費用負担の軽減を含む積極的な保護措置が必要とされるべき問題なのでは。

核武装論

2006年10月18日 14時53分33秒 | 国内政治
にわかに注目を集めているのが、日本の核保有に関する議論。中川政調会長の発言がメディアに取り上げられ、物議を醸していた。日本が核を保有するということに、大多数の人は必ず反対する。言うまでもなく、日本が唯一の被爆国だから。

しかし、核を持つ家が隣にあって、睨みを効かせている状況で、盾も持たずに時が経つということほど怖いことはない、ということも実感しなければならないと思う。唯一の被爆国だから核を保有すべでないというのはその通り。僕も広島と長崎の2つの原爆記念館を訪問し、このような悲劇は二度と繰り返されるべきでないし、このような武器を持つ国は一国でもあるべきではないと思っている。

ところが、煽るわけではないけれども、隣にこのような悲劇をもたらす核兵器を持つ国がいるという重大な脅威を、もっと身近なこととして認識する必要はある。「日本が核を保有するという可能性を議論する」ということ自体が否定されるべきだという意見が大勢を占める中で、なぜか「日本をどのように守るか」という議論までやりきれない雰囲気があるのではないかと思う。

日本は米国の核の傘によって、脅威を和らげてもらっている。しかし、北朝鮮が核を放棄しない限り、この脅威は消えない。ましてや、北朝鮮が核を放棄するなどとは金正日体制においては考えられない。軍事的措置によって放棄を強制させる可能性がかなり低い現状、核を持つ隣国がいるという切迫した現況で、日本がどのように自国を守るべきかという議論を盛り上げることは重要なのではと思う。

新内閣発足

2006年09月28日 10時47分34秒 | 国内政治
僕は国内政治に疎いので、あまり政治家についてはよくわからないです。今回、入閣した人の半数以上が始めて名前を聞くような人達。これを、華のない内閣というかは別として、マスコミが取り上げる論功行賞内閣というレッテルは、マスコミの論理を聞くと納得する。

でも、論功行賞だろうが、華がない内閣だろうが、国民のための政治をやってくれるのであれば善いわけであって、あまりレッテルには興味がない。

気になるのは、ワシントンポスト等がタカ派内閣というレッテルを貼っているということ。安倍さんや麻生さんは、話を聞く限り、タカ派とは到底思えない。ただ、言いたいことを遠回りでいうことの多い日本人の中で、自分の意見をはっきりと言う人だということは明らか。それが、タカ派と見られているのであれば、日本人はどんな人間の集まりだと思われているのだろう。

政治家であれば、国民のために働くのだから、第一に国家の安定(安泰)を維持することに力を注ぐ必要がある。そういった意味では、教育法改正で日本国民としての意識を高める政策や、日米同盟を引き続き堅固なものとするという政策は支持されてしかるべき。

「美しい国日本」というフレーズは、よくよく言われているようにその中身が良く分からず、あまりに抽象的だという批判は当たっているのかもしれない。しかし、日本とはどういう国かと外人に聞かれたときに、こういう国ですとはっきり国民が言えるような社会になるということは、国家の繁栄と安定のためにも重要なことだと思っているのです。はい。

東郷茂徳

2006年09月24日 10時27分31秒 | 国内政治
2週間前にくらいになるだろうか。直木賞作家の阿部牧朗著の「東郷茂徳」(学陽書房)を読んだ。

東郷茂徳

一般的なイメージでは「終戦時の外相でA級戦犯」だろうか。A級戦犯という言葉が多くメディアで取り上げられるようになって、他方で、「A級戦犯とは到底言えない人物が含まれる」という台詞が専門家やら政治家が言っていた。どのような人たちなのだろうと思って、読んでみた。

東郷は名前から察するように、薩摩の出身。ちなみに、西郷とは全く血縁関係もない。むしろ東郷の先祖は朝鮮からの渡来人らしく、その点からも多くの差別を受けてきた。明治維新後も、薩摩では城下士と外城士という差別が残っている。朝鮮の血を引いて外城士である東郷はよくよく殴られていたそうな。しかし、剣術や武力を高めようとする他の人々とは違い、東郷はよく勉強をした。時は、日清戦争の頃である。結果、主席となって、東京帝大に入学する。

帝大では文学者を志していた。しかし、帝大の授業には失望しており、全く授業を出ない。そういえば、日露戦争の主役の一人、秋吉なんかも同じく授業は全く受けない人だったな。こういう人が偉人では多い(?)。文学者としての自分に未来を感じない東郷は外交官試験を受ける。2年目で合格し、ドイツ文学を専攻していたこともあって、ドイツ方面で活躍する外交官となる。

外交官としての東郷を待ち受けていたのは、軍部との対立であった。ドイツ大使を務めていた東郷を待ち受けていたのは、ドイツの政府高官と交渉をする日本陸軍士であった。軍部が政府高官と交渉する姿に東郷は愕然としつつ、内外の敵と戦いながら、交渉を続ける。第二次世界大戦に参入する根拠となる日独伊三国同盟に対して、東郷は当初から反対していた。ヒトラーが危険な人物であるとこの当時、すでに分かりきっていた。他方で、軍部は当然のことながらこの同盟を結ぼうとする。結果、東郷の隙を見て、陸軍が草案を作り、独との同盟が成立してしまった。東郷はソ連に飛ばされた。

日ソ中立条約を結んでいたにもかかわらず、太平洋戦争末期にソ連が満州に攻め入ったことは日本の敗戦の大きな要因である。東郷はソ連の当時の外相、リッベントロップの能力の高さを認めていた。それだけに、晩年、ソ連が条約を反故にしたことにはショックを受けたようだ。この当時、ソ連とはノモンハン事件で軍部が衝突していた。その流れの中で、漁業協定や領土問題などの交渉を行っていた。しかも、日本の国益に適う形で妥結しているのだから、交渉力の高さがわかる。リッベントロップをして「これほど自国のために信念を曲げない人はいない」と言わしめたよう。

「信念の外交官」という形容の仕方が一番あっているのだろう。日米関係が日中戦争によって悪化の一途を辿る中で、軍部は日米戦争開戦の必要性を説いた。米は日本への石油禁輸措置をとっており、軍部は屈服させる必要があるのだと。外相となった東郷は、反対した。何より、米国と戦争をして勝てる見込みがないではないかと。米国から、ハルノートが送られてきた。直ちに中国から撤退しろ、占領地から全て撤退しろと。さもなければ戦争だという。東郷の説得も虚しく、この条件を軍部が飲むわけはなくて、開戦へと進む。

米国との戦争は、周知のごとく日本の敗戦となった。しかし、戦争末期のこの時期にふたたび外相として就任したのが東郷である。彼はなんとしてでも早期に戦争を終わらせたかった。日本は完全に疲弊しきっていた。しかし、軍部は敗戦を認めようとしない。カミカゼがことのほか成果を挙げていたこともあるのだろう。だが、資源のない日本に勝ち目はなかった。そして、原爆が投下される。

最後には神の一声が降りた。東郷は吉田茂などと工作をし、天皇に敗戦を認める旨を奏上した。軍部も涙ながらに認めた。そして、ポツダム宣言を受諾する。

東郷は一連の米との交渉で痛感した。日本は明治維新後、めまぐるしい勢いで成長していった。いや、西洋化していった。大国ロシアに競り勝つまで大きくなった。これが、日本の力の過信の源泉であったのだ。日本は欧米から所詮は黄色人種としてしか観られていなかったのだと。白色人種による黄色人種への嫌悪感がもともとあったからハルノートのごとき、戦争をやめさせようとする意思のない通知が来ていたのだと。

思えば、日本はアジア諸国民に対して優越感を持ち、大東亜共栄圏のごとき壮大な野望を持っていたが、欧米から見れば井の中の蛙であると。東郷は城下士と外城士という差別化で育ってきた環境を思い出した。何も変わっていないのではないかと。無常の念でいっぱいだったのだろう。

東郷はA級戦犯として認定された。この間、東郷は東京裁判が国際法の常識から全く外れたものである点、淡々と主張していた。しかし、戦勝国側からすればそんなことはどうでもよかった。差別的姿勢は常に維持されていた。戦前、戦後の激務で疲弊しきっていた東郷は、刑期を終える前に病没した。

差別的な境遇から東郷の人となりが形成された。それでも、東郷は日本のために命がけで交渉を繰り返した。それは、差別してきた輩への復讐ではなく、自分こそが本当の日本人であるとの証明であったという。「信念の外交官」は人々の記憶に残っていない。著者は、鹿児島に行ったが、東郷を知るものは皆無であった。そこで、著者は思った。A級戦犯の共同墓地で眠る東郷を、「掘り起こそうと思った」と。


久々に熱くなりました。陸奥、小村、幣原などは偉大な外交官だと思っていた。でも、東郷もこれに加えたい。ストイックに日本を思うその気持ちで、外交をする姿勢に背中を押された気がした。

ODA

2006年07月23日 16時40分23秒 | 国内政治
日本の政府開発援助(ODA)が3%削減されるようです。またしても、削減に走る日本は完全に世界の流れに逆行している。テロの温床は貧困にあるというテーゼに従って、ODAを増加させている欧米とは方向が違うようです。

ODAの削減が意味することは、これまでODAによる恩恵を享受していた世界の貧困者の多くが、明日の食糧を失い、希望を失いうるということを指す。

国際問題をかじった人や、貧困などに目を向ける日本人の多くは、こうしたODA削減に反対するわけです。でも、実際にはODAの削減に賛成する日本人の方がマジョリティなようです。確かに、日々の生活の中で生きていくのに精一杯な日本人が多くいるのに、海外にお金を振りまくことに反対する人が多いのは納得いくのだが。他方で、今にも死にそうな人々への食糧を目前で減らそうとする姿勢を残虐だと考えてしまうのも事実。

とある米の学者さんが、「日本の政治家は中身よりも数字をまず先に考える。そうではなく、何が必要であるのかという議論を先行させてから、数字を考えるべきだ」と言っていた。当の政治家が実際に数字を先に考えているかどうかはわからないけど、メディアから発信されるのは、まず「3%減」とか「増額」という表示のみであって、そうした数が先行している感は否めないわけです。

麻生外相をはじめとして、外交官の方々は、例外なくODAの増額を主張してます。でも、結局は減額になって財務省からのOKがでる。予算交渉の場で何が起こっているのかを知りたいと思う。でも、自分がその立場になったときにどのようなアクションを起こして担当の財務官に増額要請をするのか。やっぱり、現場に居ない人間にはわからないのだろうか…



PS. いよいよ明日の1時です。もう、今から、心臓がバクバクです…

討論番組

2006年07月05日 20時22分35秒 | 国内政治
僕は討論番組は好きなほうで、TVをつけてやっているときは大抵はみてる。しかし、しばしば感じる素人丸出しの議論や無責任な発言の数々に怒りを覚えてチャンネルを変えることがよくある。

7月2日付讀賣の「地球を読む」で岡崎久彦氏がこの点を論じていた。曰く、「同じ1時間で、アメリカの視聴者が得る情報の質と量に比べて、日本の視聴者のそれは比較にならないほど貧弱である」加えて、「日本の視聴者は、…どんな素人でも一言は言えることを、大きな声で『激論』しているのを改めて見るだけである」という言う。さらに、ある局では、編集者がシナリオを描いてその通りに録画編集するらしい。その理由は例のごとく視聴率を得るためだと言う。

この点、視聴率第一主義によって「社会の木鐸たるメディアの任務」を放棄するばかりか、実際には視聴率向上にすらつながらないという。「徹子の部屋」が記録的ロングランを継続している理由は、事前にシナリオを作らないからだという。

我が家ではBSでCNNなどを観ることができるが、こうした局では、指揮者とインタビュアが面と向かって問答を繰り返す。驚くべきは、識者の返答ではなく、するどい質問をぶつけるインタビュアーの能力である。

「激論」とタイトルを括っている番組は激論をするべくもない問題について激論することを要求している。でも、多くの視聴者が観たいのはわけもなく激論をしている「姿」ではなく、まさに出演者の「論」である。この点、国会議員の出演者が要点を端的に述べない姿は痛々しく見えるが、そもそも1分やそこらじゃ説明できないような解答を求められている場合が多々あるのだから仕方ない面もある。

以前にもブログで書いた、メディアの世論形成機能故のメディアの責任感が求められているのでは。あほな国民と言われるぬように、ある種、構造的な変化がそこに求められているように思う。

自衛隊帰還

2006年06月26日 23時34分06秒 | 国内政治
約3年間、イラクのサマワで人道支援に貢献してきた自衛隊が帰ってくる。日本人として、彼らを誇りに思う。国際社会の責任あるアクターとして、金だけでない行動で貢献したことに誇りを感じる。自衛隊を派遣すること自体に反発する勢力も数多くいるなかで、当の自衛隊員は辛い思いをした人もいるのではないか。日々、テロの恐怖と戦い、日中50度にも及ぶ苦しい環境を、一人の犠牲者もなく乗り越えたことは奇跡に近い状況だと思う。当然、そのための緻密な計画がなせる業だったのだろうが。

イラク派兵の根拠となった法律はイラク支援特措法である。これまでの自衛隊の派遣もその度に非恒久的法律を成立させて派兵している。そのため、武器使用基準や、任務遂行基準をめぐってその都度多大な労力を有する。国家は、自衛隊の海外派遣の際に基準となる恒久法を制定するべきだと思う。憲法9条2項を改正するか否かという議論以前の話としてだ。

サマワの人々が自衛隊の活動を賞賛している記事を読むと、自分のことのように嬉しくなる。彼らには少なくとも、日本という国を好意的に描いてくれているのだから。日本の安全保障のため、もとい日米同盟強化のための派兵だからと銘打たれていては、一般人の心には響かない。ただ、自衛隊は日本人を代表して紛争地で立派な活動をし、日本という国のイメージ向上に繋げてくれたことに感謝すべきだ。

他方、米軍が多くの死傷者を出している状況を差し置いて自衛隊を称えるわけにもいかない。誰の目からみても、戦後イラクの復興に第一に貢献しているのは米軍であり、その存在なくしてイラクの破綻国家化の防止はありえないのだから。推測にすぎないが、米軍兵の中には自衛隊を恨めしく思う輩だっていたはず。自分達ばかりが危険な場に身を置き、やつらはおいしいところだけをもっていくと。それは事実であり、それゆえに無条件に米軍を批判することなどできやしない。

日本の貢献は少なからず国際社会に認められた。しかし、新たな事態の発生に向けて、どのようなシチュエーションであれば、どこまでの活動が求められ、何をすることで日本の国益に適うのかという基本的な議論を詰めていく必要があるのだろう。一体、日本に求められているのは何なのか。ただの資金援助でないことだけは明白だろう。

アフリカの記事

2006年05月25日 21時44分38秒 | 国内政治
毎日パソコンをあけてネットもしてるけどブログは更新せず。
いざ、更新しようとするとがつんと書きたくなっちゃうものだね。
しかし、そんなゆとりもなくなってきた。

あと23日

最後の模試の結果も返ってきて、正真正銘本番待つのみ。
さぁさぁ、ラストラストスパートでし。


ところで、我が家は讀賣新聞をとっているのだが、最近よく思うこと。
かなり、アフリカ関連の記事が増えたと思うのです。
同じこと思った人います?あるいは、そんなことないよーって人います?
最近、2日に1回はでてくるンだよね。
これは、けっこう驚いてます。

以前は、スーダンで「史上最悪の人道危機」なんて書いておきながら、その後の情勢については触れなくて、結局どうなったんだという関心ももたれないままに終わっていた。だけど、近頃はニュースの連続性がでてた。角で発生している大干ばつの記事読みました?あの、牛の骨だけの写真はかなりインパクトあるね。

実際、あんなにひどい状況だとはつゆ知らず。
日本の新聞で自分の知らない出来事(アフリカ関連ね)を知ったのは久しぶり。


以前、讀賣新聞社がAPUで提供講義をしていたので、講師の元特派員の方にいろいろと聞きました。なぜ、アフリカ関連の記事はないのか。利益優先、国民の関心優先だからというのがこの方々の定石通りの返答だったわけで、不思議です。

何かあったのだろうか。誰か、新聞記者に知り合いいたら聞いてみてください。利益優先、国民の関心優先というのであれば、イラクでの自爆テロや中国情勢に紙面割いたほうがアフリカの旱魃を紹介するより優先されるだろうし。

ちなみに、特派員の方々と話したとき、こんな質問もしました。国民の関心が高いものを記事にするといいますが、国民の関心は新聞やメディアによって高められる部分が高いわけで、そうなると、永遠に関心の方向性は変わらないのではないですか?と。特派員の方々は歯切れ悪そうにそんなことはないですといってたけど、有効な反論はされず。果たして、メディアなしにどうやって国民の関心を作り上げていくのやら…

政治によって関心を変えることができるといわれそうですが、どうでしょ。政治家の関心もまたメディアに影響されるのでは。

難民認定法改正

2006年04月18日 12時03分53秒 | 国内政治
ふとしたきっかけで難民の勉強をしていたら僕の記憶していたことがいくつか変更されたみたいです。大学時代に一時期はまっていたので、久々に難民について語ろうかと思います。ちなみに、ふとしたきっかけというのは、以下のHPをみたことなのですが…

http://www.shugiin.go.jp/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/000415920040525029.htm

まぁ、おそらく大部分の人が始めて見るであろう、国会での委員会審議の議事録です。そして、驚いたのはゼミの先生で、僕の恩師でもある山神先生が参考人で発言しているではないか!そして、その内容が、どこかでやったことがあることだと。

大学ではAIRサークルというサークルを仲間と立ち上げ、(一応)国際問題に対するディベートをするという活動をしていたわけです。あれは、2003年だったろうか、ディベートのテーマを「日本の難民制度」みたいな感じにして、ディベートしたんですね。そしたら、「60日ルール」というのを勉強して、このルールがようは、難民申請を60日以内にしなければ、認定されない(=強制退去)という制度がありまして、この制度がディベートの論点になったのです。僕は、確か、日本の難民制度はcon派だったと思うので、この制度をぼろくそに言いました。そして、本音の部分でも、非人道的で、非弾力的で、どこに利点があるのかを理解していなかったわけです。それは、確かpro側も利点は理解してなかったと思う。そして、ディベートが終わって、AIRサークルの顧問を務めてくださっていた(進行形?)山神先生が一言。

「いやぁ、その制度、僕が作ったんだよねぇ…」

みんな、「えぇ!!」っとなったわけ。僕も、内心「まじかぁ」とか思って。そして、先生はその制度主旨を説明してくださった。それが、今回の(といっても2年前だが… ん、まさか僕らのディベートのときと時期が被さっている??)審議の内容だったわけです。

「60日ルール」の制度主旨は、難民認定の氾濫の防止であることに疑いはないわけですが、その背景には、日本が島国ゆえ、難民申請者が少なかったということ、欧州では申請の氾濫が現に存在していたといことがあったといいます。この点、現在の交通手段の低価格化に伴う、国境間の移動のしやすさ、そしてNGOの発展を踏まえて、今後、日本への難民申請者が増加することは予想されます。そもそも、少子化の過程で労働力不足に対する外国人労働者による労働力供給の増加という手法が現実味をおびえているわけですから(フィリピンの看護婦等)、来日する外国人の身分を審査する機会は増加し、様々な問題も発生する、というかすでに発生している。1年前くらいだったろうか、トルコ人難民申請者が国連大学の前でガソリンを体にかぶって抗議していた事件は、メディアでも報道されてましたよね。

一方で、例のごとくテロリストの国内進入を阻むためにも、その審査の厳格化は否定されるべきところではない。この点、今回の難民認定法改正によって、60日ルールは撤廃されたところは諸手を挙げて賛辞するべき点ではないのかも知れない。

今後、北朝鮮の政権崩壊に伴う、膨大な量の難民発生という事態も考えられるわけで、こうしたときに政府は、そして、大量の難民を受け入れうる、日本の国民はどのような反応をするのだろう。なんとなくですが、大多数の日本人は親しみよりも警戒感を強めるのではないかな。外人からよく言われますが、日本人ってやっぱり鎖国の影響によって、排外主義的というか、寛容さが足りないという点も感じます。口先だけのグローバル化だけでなく、心のグローバル化というか、そういった要素も重要になっていくのだろうと思います。

「憲法」を学ぶ

2006年04月13日 00時15分47秒 | 国内政治
受験生も2年目ともなると、勉強しながらいろんなことを考え付いたり、1人でにやけてたり、変な意味での余裕も生まれてきます。いきなり話は外れますが、先日、東京で後輩に、「小田しゃぁん、すっかり浪人生っぽいですね」と言われました。雰囲気、いや貫禄が出たようだ。

さて、試験科目でもある「憲法」、去年は初学者だったこともあり、覚えることだらけで嫌気もあったわけだが、最近は一番楽しめる科目になってきた。ちなみに、経済学は泣ける科目、国際法は苦しい科目な訳だけども。なんせ、わくわくしながら問題を解くことができる。ここ最近やった問題はこんな感じ。

【地方自治法を改正して、都道府県制度を廃止し、道州制を導入することは憲法上問題ないか?】

憲法は『地方自治の本旨』に基づいて地方公共団体の行政が行われることを要請している(92条)。この『地方自治の本旨』が意味するところは、住民が行政を担うという意味での住民自治と中央から独立して地方が行政を運営するという意味での団体自治を意味しており、前者から市町村制度が、後者から都道府県制度が導かれるから、憲法はこの二層制の維持を必要条件としている。だから、市町村がなくならないなら、道州制にしても大丈夫。

他にはこの問題も面白かった。

【官公庁などの記者クラブ制度は、フリージャーナリストや外国人記者の参加を事実上、許容していない(組織に所属が前提だから)。そこで、あるフリージャーナリストが記者クラブですでに発表済だった情報について省庁に取材を申し込んだところ、記者クラブで発表したからという理由で拒否された。以上、憲法上の問題点は?】

大きく二つに問題は分けられます。一つは、憲法21条1項の表現の自由の侵害について。つまり、取材ができなかったことは、報道の不可欠要素である取材が制限され、報道ができなくなった。報道は民主制に資する重要な表現の自由の一部だから、↑の措置は21条に違反するのではないかと。結論としては、取材の自由を判例上、憲法が保障しているとはいえない。つまり、実は取材の自由は報道の自由とは違い、21条によって保障されない。だから、↑の措置は憲法に反しない。

二つ目の問題は、フリージャーナリストを記者クラブ所属のジャーナリストと差別するのは憲法14条の法のもとの平等に反するのではないかという点。この点、記者会見を開くか開かないかはそもそも行政の裁量しだい、制限を設けないと無数の記者が押し寄せる等の理由から、機能的平等は確保されているとして合憲と言える。もっとも、制限の仕方など、いくらでも反論は可能。


とまぁ、こんな具合にです。すると、ふとニュースを見ながらでも、憲法との関連で、あれはおかしいんじゃないの?とか、そんな考え方ありえないでしょうとか、考えてしまう。きっと、これはよい傾向だと思うけど(笑)

そんなこんなで、受験勉強といへども、楽しんでますよという結論でした。なんじゃそりゃ…