じめ(1)先日、三宅雪子さんの応援演説にうかがった時に、船橋駅前でこんなことを言った。「みなさんの中には、原発が必要だ、という方もいらっしゃるし、廃止すべきだ、というかたもいるでしょう。軍隊が必要だ、という方も、戦争がいやだ、という方もいらっしゃるでしょう。」
じめ(2)「民主主義なのだから、いろいろな意見を持つ方がいらっしゃるのはよい。問題は、国会という、法律を決め、行政のトップを出す場に、さまざまな意見の方が集うことではないでしょうか。私は、バランス的に、三宅雪子さんのような考え方の人が国会にいなければならない、と考えています。」
じめ(3)そんなことを言っている時間帯に、私が何を考えていたのか、と言えば、自由意志の問題だった。科学的な立場から言うと、自由意志は存在しない。それは一つの幻想である。もっとも、その幻想をつくりだすために脳はいろいろと工夫をしているのであって、そのわずかな効果にすべてがある。
じめ(4)政治的な意見もまた、自由意志はないことになる。日本は軍備を増強させて、近隣諸国に対峙すべきだ、と考える人も、あるいはジョン・レノンのような平和主義者も、その生まれて以来の生の履歴の中で経験したことの中で、そのような主張をする、必然性があるということになるのである。
じめ(5)私たちの世界観は分裂していて、必ずしもAという命題と、Bという命題の間に一貫性を求めるものではない。だから、私自身も、自由意志はないということを理解しつつも、自分から見て理解しにくい主張をしている人を見ると、その人に悪意を感じたり、敢えてしていると思ってしまう。
じめ(6)しかし、本当は、その人はその人なりの必然性があって、そのような主張をしているのであって、意識という幻想が果たす役割は、あったとしてもほんの小さなものでしかない。だからこそ、人は他人の意見に対して寛容でなければならないし、粘り強くなければならない。
じめ(7)人々には、それぞれの政治的意見を選ぶ自由はなく、ただ、人生の履歴の中で出会うパラメータに支配されたプロセスしかないと思えば、世の中をよくするためには、粘り強く世間にある一定の思想の種、相互作用のきっかけを植え付けていうしかない。貧者の一灯以外に世の中を変える方法はない。
じめ(8)ツイッターで言えば、自分がつぶやくことが言語の海に投げ込まれることによって、いつか、メッセージ・イン・ア・ボトルのように誰かに届き、それがその人の経験の一部になり、ある時、その人が意志決定をする際の決定パラメータとなればと、期待することしかできない。
じめ(9)自己にも他者にも自由意志がないという、命題から出発する。それは、他人に対する過剰な期待と、その裏腹の幻滅から開放されることを意味する。もっとも、私がこのような文章を今朝書くことも、自由意志ではない、ということになるのだから、世界はやっかいだ。いろいろ仕方ないね。
RT @hagi_kazuhiko: 城南信用金庫・吉原理事「原発が無いと電気料金が上がると言うのは全くの嘘!原発は不良債権、その債権を返済するために電気料金を上げて賄っているだけ、火力の方が遥かに安い」#sokotoko @tim1134 #脱原発 #原発
@tim1134 照美さん、唐橋さんおはようございます。間に合った!!城南信用金庫吉原理事長のお話。わかりやすかったです。原発はいらない事、アメリカの大企業も原発から手をひいる!もうテレビでなぜ放送しないのか不思議ですね。
腐れ労働組合は恥を知れ! 【原発再稼働で候補選別 九州電力労働組合】 労働組合は地域住民の安全より、原発維持へ 「再稼働に後ろ向きな陣営を支援できない」と、異例の“色分け”に踏み切った @iwakamiyasumi @tim1134 <bit.ly/STjVOw