夢追い人の「つぶやきブログ」

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非暴力の闘争

価値観の「空位」

2010年02月09日 | 人生
「二十世紀前半の本質的な特性は、価値の概念の希薄化、いやほとんどその消失」
「数年前ヴァレリーが指摘したように、とくに善に関係する言葉が、堕落してしまっています。徳、高貴さ、名誉、誠実さ、寛大さ、といった言葉は、ほとんど口に出せないものになるか、あるいは偽似的な意味をもってしまいました。言葉はもう人間の特性を正当に讃えるためには何の手段をも提供しません」
シモーヌ・ヴェーユ(シモーヌ・ヴェーユ著作集)



「ヴェーユの言葉をタイムスリップさせて、今日の世相に当てはめても、全く違和感がない。否、病はより「膏肓(こうこう:からだの奥深いところ)」に入っているかもしれない。病理の集約的な現れともいうべき戦争のかたち一つ取り上げてみても、大量破壊兵器といいテロといい、現代戦争を特徴づけるのは、”無差別性”です。"無差別性”は、個々の人格にかかわらざるを得ない善悪の価値感情を拒絶しているからです。
池田大作(第35回SGIの日記念提言)



僕たちが言葉を発するとき、それはどこから出てくるのだろう。おそらく、その時々の感情、あるいは心といった方が正しいかもしれない。その感情や心の置き所が大事なことなのではないだろうか。つまりは「価値観」である。
ヴェーヌがいうところの「価値の概念の希薄化」は20世紀後半を通り越し、21世紀に入り既に10年経った今でも続いているようだ。
いったい「価値の概念」とは何だろう。
「何のために」ということなのだと思う。
その「何のために」が、個人的なものに萎縮してしまっていくことに、「価値の概念の希薄化」がおこるのではないか。
残虐性は人間誰しもがもっているものだが、「価値の概念」によってそのことを行動に起こすことはまれであるはずだ。しかし、その「希薄化」がおこっているために、おぞましいテロを実行できる人間が出てきている。
おぞましいといったが、我々もまた、そのおぞましい行為をしてしまう可能性をもっていることを忘れてはならない。そのためには「価値の概念の希薄化」を自らの力で防がなければならないのだ。
どうすればよいか。「何のため」である。

我々の目的は幸福である。幸福とは、自分だけがなれるものではない。隣の人が不幸に喘いでいる横で幸福感を味あうなどできない。お互いに、隣近所が、街が、社会が幸福にならなければ本当に幸福とはいえないだろう。
これに置き換えれば、「何のために」は「皆が幸福になるために」となる。

つまり「皆が幸福になるために」、僕たちは生きていて、そしてこれからも生きていくべきだとは言えまいか。
「徳、高貴さ、名誉、誠実さ、寛大さ」といった言葉の失われた本来の意味をこの実践に寄って、取り返すことができると思うのだが。

シモーヌ・ヴェーユ著作集〈2〉ある文明の苦悶―後期評論集
シモーヌ ヴェーユ
春秋社

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