夢追い人の「つぶやきブログ」

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非暴力の闘争

哲学的逡巡

2010年02月13日 | 偉大なるメッセージより
わたしは歴史の絶対的な予定説を信じない。私は逆に、あらゆる生、したがって歴史的生は、純粋な刹那によって構成されているものであり、その一瞬一瞬はそれに先行する一瞬に対して相対的に未確定であるために、現実はその一瞬において逡巡し、一カ所で足踏みし、多くの可能性の中のどれに決めるべきかに迷うものであると信じている。この哲学的逡巡こそが、あらゆる生的なものに、あのまごう方なき不安と戦慄を与えているのである。
オルテガ・イ・ガセット(大衆の反逆)



肝心なことは、”問答無用”の暴力の誘惑に抗して、最後まで「哲学的逡巡」「緊張そのもの」「不断の精神闘争の溶鉱炉」の不可欠性を、そして人間を人間たらしめる鍛えの場はそこにしかないことを、決して忘失してはならないということであります。本来、人間が人間らしく生きるために、絶対に避けて通れぬ前提が「他者」の存在です。すなわち、辛抱強く自身を鍛える過程で必然的に、否応なく浮かび上がってくるものこそ、「他者」との対峙、対話の要請に他なりません。
池田大作(第35回SGIの日記念提言)







「哲学的逡巡」とは真の意味での「祈り」ということに近いかもしれない。僕たちは一瞬一瞬選択を迫られている。それはどちらが「善」であるか。その答えは時には正しく、時には誤って、そしてそれを経験として蓄え、次の「瞬間」の決定の参考としている。人間として鍛え上げられるのはそうした場面の繰り返しであることには違いない。そして、自分以外の「他者」との対峙、対話の中で「哲学的逡巡」を繰り返していくことによって、あるいはそのことによってのみ、人間が人間らしく鍛えられるのではないだろうか。
「祈り」と言ったのは、「他者」の声を聞き取ろうとするその行為が、自発能動的な行為として一番近い言葉のような気がしたから。「自分」をわからせようとする前に、「他者」の思いに心を傾ける、その行為は仏法でいう慈悲の行為に違いなく、それはまさしく「祈り」なのだと思う。






大衆の反逆 (ちくま学芸文庫)
オルテガ・イ ガセット
筑摩書房

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