司馬遼太郎と言えば、昭和世代なら最も有名な日本歴史小説の大家の一人という印象です。
池波正太郎や柴田錬三郎と並ぶ、直木賞的な作家で、新聞記者から転身された作家だった。
映画「悪名」で、八尾の朝吉と言えば勝新太郎と田宮二郎、の名コンビその小説を書いた作家が、今東光。
売れに売れた日本映画でした。
氏は坊さんの印象でしたが、政治家にもなったりして、結構破天荒な僧侶のイメージでした。
一説によると司馬遼太郎は、彼に作家になれと勧められたそうです。
当時すでに有名だった小説家、海音寺潮五郎からも讃えられた事も記憶の端に残っているのですが、これは個人的おぼろげな記憶なので真偽のほどは不明です。
海音寺潮五郎には、西郷や大久保を教わり孫子も教えてくれたイメージです。
第二次大戦を経験して記者だったこともあり、当時の世相に一投を投じていたのは作家としても有名だったので、そんな彼の言には、子ども心にも何か複雑で難しい感覚を感じいていたモノです。
彼の作品は大河ドラマ化されて、かなりの評判だった。
同世代付近の方々なら、司馬遼太郎の名を知らない人はいないでしょう。
生涯、東大阪市の小阪を住処にして、それは市長さんか誰かに、ここでずっと執筆してくれと請われたそうで、当時いたずらなガキだった亡父が、多分先生に怒鳴られたかもしれない頑固そうなオヤジさんが、彼だったかもしれないという昔話をしていたのを覚えています。
亡父は、柴錬と司馬遼を専らの愛読書として生前、蔵書していました。
という事で親子共々、歴史認識がどうしても彼等から影響を受けています。
例えば、坂本龍馬は英雄だし、幕末の志士、西郷や大久保、大村益次郎、高杉や容堂、以蔵に岩崎弥太郎、象二郎、新選組に至るまで彼の書籍から受けた印象です。
慶喜もそうでしたが海舟だけは何故か、子母沢 寛が濃密に脳裏にこびり付いています。
司馬遼太郎はフィールドワークが凄まじい印象でした。
海音寺や子母沢の頃はまだ、明治を知る人々が生きていて口伝で、事件を知る事も可能でした。
司馬遼の時代になるとその様な事も難しかったのではないでしょうか・・・。
その分、文献や現地の史跡を訪ねて元来記者でもあったから、取材力にはかなりの手腕が発揮された事でしょう。
逆に言えば記者だったウィークポイントもあったのかもしれません。
それが何かなのかは知る由もありませんが、大戦の経験は大きかった事でしょう。
彼の作品は信ぴょう性の塊で、ツイツイノンフィクション的判断に傾倒してしまいそうになります。
彼亡き今となっては、作品などを通じて今を知るしか術はありません。
中国との国交が開かれた時、彼や井上靖、陳舜臣、須田剋太等がかの国を訪れて、そのエッセイも結構人気になりました。
今それらを再読した時、かの国の異常なまでのドラスティックな変貌には、さらにそれ以前のかの国の歴史に新たな洞察を想像できたりさせてくれます。
当時を生き抜いた、作家や画家の作品の対し方にも同時に新たな洞察が加味されたりもします。
司馬遷から名を借りた彼の小説にも、私的なエッセンスが含まれているだろうことは当時から薄々感じてはいましたが、その様な線上ででも時の流れというモノは更なる気づきを示唆してくれるのが、分かるような気になったりします。
NHKがアーカイブで過去の中国を訪れた映像を流している時、ふとそんな事が脳裏を過ぎりました。
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