春を感じる風景のイメージは、菜の花の緑と黄色です。
淡い緑の葉に、黄色い花。
そして、暖かい風と揚げ雲雀の声。
河川敷を歩いていると、そんな風景が心地よいと実感します。
雲雀の鳴き声には、勢いを感じます。
生きる喜びを唱っている様です。
彼らはヒナのためにエサを探しに巣を離れて飛び回り、エサを集め終わっても直接巣に戻るのではなく、近くに着地して姿を隠して巣に戻って、巣の在処を隠しているそうです。
今の世の中、散歩に出て近郊の淡い緑に黄色い花の風景を拝める時、何か穏やかな気分にさせてくれます。
中でも河川敷の菜の花が、"いの一番" に思い出されますが、それ以外ではこの彩の風景と言えば、タンポポが身近に思い起こされます。
外出して、ソコに自生していて当たり前な風景。
土のある場所なら、どこででも逢える気持ちのする景色です。
タンポポは普段特に気に留めない限りは、本当に気にもならない雑草の様に、私たちの日常できわめて普遍的な存在に感じます。
どこででも見られる様な風景。
でも逆に考えれば、気づかぬうちにタンポポが徐々にみられる機会が減少しくると、そこには自然が徐々に無くなって行っている、日々の生活の場から自然が遠ざかっているという感じもしたりします。
古き良き昔を思い出す時、脳裏に浮かぶのは春のレンゲ畑や、カラスノエンドウ、菜の花畑やタンポポにテントウムシとか、モンシロチョウ、あぜ道に咲いているスミレや曼珠沙華の鮮やかな景色・・・。
当時はあまりにも当たり前な景色で、気分は今より上々だった。
歳を重ねれば重ねる程、当時の風景を思い出すと、幸せだったなどと・・・。
昔だから護岸工事なんかされていない、草々の繁みに囲まれて水音がかすかに聞こえる小さな流れの用水路。
そこに住んでいるメダカやカエル、ザリガニとか、時にはヘビやトカゲや亀もいたりして、子どもにはアメージングな経験・・・。
浅い水面と川底の丸い石ころや水草、水溜まりには色々な生物がすんでいて、夏になればホタルも光るし、トンボも飛び回り、季節感を肌身に感じさせてくれた。
林や空き地は宅地に整備されて、砂利道はアスファルトで舗装されて、路肩の水路は暗渠で地下に埋設され、木陰や打ち水もされなくなった道路は砂ぼこりがなくなったけれども、殺風景。
蚊や蠅も少なくはなったけれど、カエルの鳴き声やアマガエルさへ何時しか庭先から消えてしまいました。
それでもたまの息抜き、散歩で近所の自然をめでる時、もっとも気を静めてくれる風景の一つに、タンポポの黄色い花と緑が何気なく心を鎮静させてくれて、心穏やかに癒されたりします。
今では最も身近な自然、タンポポの自生を厭う人は、先ずいないでしょう。
タンポポには在来種と西洋タンポポがあるのは、結構有名な話ですが、実際には色々な種類があって、タンポポを研究されている団体もあるそうです。
野草としても古来より親しまれていて、ノンカフェインで胃腸のコンディションに貢献しくれるお茶にもなります。
しかもこれが、雑草並みの繁殖力なのは本当はありがたい事です。
レンゲのピンク イヌノフグリの青 タンポポの黄色 紫陽花の青紫などなどは、幼い子どもには結構記憶に残る風景でした。
今でもチョットした郊外で小さな里山なら、ヒガンバナの鮮やかな赤や小川のフナ、赤とんぼやタマムシ、水カマキリやゲンゴロウやヒキガエルやウシガエルとの遭遇もそんなに珍しい光景ではないでしょう。
昔なら、ドジョウや小鮒を捕まえて、ナマズやウナギが獲れたら父親には褒められ、母親には苦笑された記憶もあったりします。
そう言えば、アジサイにカタツムリの光景がめっきり少なくなってきたような気もします。
それでも尚、タンポポは意外と頑張ってくれている様な気がします。
タンポポの色合い・景色は心穏やかになって、時に自分も活かされているという実感を呼び起こさせてくれたりして、チョットした幸福感を思い出させてくれたりもします。
またある時には、不安やネガティブな雰囲気を払しょくしてくれて、人間真っ裸で産まれ出て、真っ裸で自然に帰る真理を幾度も思い出させてくれて、世間の騒々しい波からコーヒーブレイクさせてくれたりもします。
行き詰まりやどん詰まりを感じて、外出した時上を向くのも結構です。
でもあえて足元を伺えば、タンポポの自生が何言うという事もなく、語り掛けているような気にさせられたりします。
天上天下唯我独尊
うぬぼれじゃなくて、人生一回コッキリ、コレっきりという印象です。
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