定年夫婦の暮らし方(店長日記)

盛岡に住む定年夫婦(昭和20年生)の暮らしを分ち合います。

115回ピースボート世界一周航海記その35(ポーランド・ビルケナウ)

2024年02月29日 | 思い出の旅行

10月28日  ・ビルケナウ強制収容所
       ホテル泊 ヴェエナ・ハウス・アンデルズ・クラクフ


 6時、起床、シャワーを浴びて身支度、外は暗く寒い。近くにあったスーパーへ入ってみる。
 大きく、品揃えも豊富だ。
 6時20分、朝食、パン、スクランブルエッグ、ソーセージ、チーズ、野菜(トマト、きゅうり、パセリ)ヨーグルト、ブドウ、コーヒー
 8時、帰室、トイレを済ませロビーへ
 8時20分、バスで出発、15分程でビルケナウ強制収容所着、屋外なので吹きさらしで寒い、カミさんは防寒コートをバス(我々を下ろして移動)に置き忘れ、皆さんに心配をかけ、ホッカイロをもらったりショールを借りることになった。
 中谷さんの案内で見学開始。チケットもチェクインも無い、残念なことにヘッドホーンも無い。目の前に写真で見たことがある「死の門」と呼ばれる収容所の建物とレールが目に入った。感動的だ、ユダヤ人達がどんな思いでこの建物を見たのか、劣悪(トイレはない洗面器のような容器に排泄物を入れた)な貨車での移動から開放された安堵感はあったのだろう。その後の運命は想像できなかっただろうし、想像したくなかっただろう。
 ポーランドやナチス占領下のヨーロッパから集められたユダヤ人たちが列車(貨物用)で到着、降ろされたユダヤ人達がゲシュタポによる労働が可能か否か選別(ガス室送りか労働させるか判断にドイツ人医師も関わっていた)された場所だ。
 監視塔に登り全体を俯瞰する、広大な敷地だ。一部、左側にはバラックが建っている、右側には一部バラックもあったが、レンガ製の暖炉と煙突が並んでいた。
 建物はここが開放された後、かってここに住んでいたポーランド人が帰ってきて(何もない状態)家を建てるのに残されたバラックを剥がして持ち去ったため、残っていないとのこと。現在のバラックは再現したものだろう。
 敷地の奥にガス室(アウシュビッツ強制収容所に展示されたいた石膏模型で構造がわかる)がある。右手にはレンガ製の丸いタンクが並んでいる、浄化施設とのこと、死体を焼いて骨は砕き、残った内臓は水を貯めた浄化施設で浄化させ、上澄みを池にためてから川に流したとのこと、徹底している、まるでゴミ処理工場のようだ。
 中谷さんにアウシュビッツがレンガ造りに対してここはなぜバラックなのか質問すると収容者が増えたこと、恒久的使用を考えていなかったとのこと。アウシュビッツは恒久的に利用するつもりであったとのこと。
 ユダヤ人収容者を運んだ貨物車が1両ぽつんと置かれていた。ユダヤ人を降ろした場所だ。まさにここで選別があった場所だ。当時の写真も展示されている。奥に行くと破壊された地下構造物が現れる、ガス室への入口に文字が書かれた握り拳大の白い石が置かれている、訪れたユダヤ人が置いていったもので、ユダヤ人にはそのような習慣があるとのこと。
 入口で髪を切られ、シャワーを浴びるとの理由で裸になりシャワー室(ガス室)に誘導された。安心させるため脱いだ服が判るようにハンガーの番号を覚えて置くように指示していたとのこと、その徹底ぶりは驚きしかない。そしてチクロンBを注入されもがき苦しんで亡くなった。チクロンBは殺虫剤とのこと、虫を殺すように人を殺した。
 死体は焼却炉(コークス炉)で焼かれた、間に合わない場合は野焼きされた。これらの作業はユダヤ人がやらされた。ユダヤ人の選別やチクロンBの投与はドイツ人がやっていたが死体の焼却、骨の破砕、骨の廃棄はユダヤ人がやっていた。髪を切り、残された歯から金を取り、宝飾品、メガネ、義足、食器、櫛、衣類、靴など分類して再利用していたが大量すぎて保管のための倉庫が必要であった。これらの作業もユダヤ人が担っていた。嫌な仕事はユダヤ人にやらせる仕組み作りが巧妙で呆れるばかり。
 再現された居住棟、トイレ棟を見せてもらった。トイレ棟は沢山の穴が空いているだけ、座って用を足す、アウシュビッツより劣化している、水もトイレットパーパーも無い。しかも1箇所だったので居住棟が遠い人は大変だった様だ。(弱った収容者は垂れ流しだったとのこと)居住棟は三段ベットがぎっしり並んでいた、寝具は再現されていなかったが藁など粗末なものだったろう。冬は暖房しても隙間風が入り寒かったと思う、履物を枕がわり(盗まれないように)に体を寄せ合った寝たとのこと、食料も不足して寝具も不十分であれば風邪をひいたり、肺炎になったりしただろう。
 ビルケナウ強制収容所の施設を3時間かけて一周した。途中に暖房が完備したトイレがあったので助かった。収容所の丸い穴だけのトイレを思い、ありがたみを感じながら用を足した。
 12時、中谷さんの案内と説明は終了、次の案内があるとのこと。ここでお別れ、記念の写真をお願いしたが断っているとのことだった。
 少し離れたところにあったナチスが利用した娯楽施設の見学に行く。国から残された施設を譲り受け八人で復元を目指して活動しているとのこと。マンパワーも資金も大変な様子だったので皆で少しだけど寄付をした。私は5ユーロ出した。

 13時、バスに乗りクラクフに戻る、紅葉が綺麗、ガイドの森川さんはポーランドでは赤がないので「黄葉」と言うとのこと。
 15時、クラクフ市内に戻り中央広場にあるレストラン「JDesele」で昼食、前菜は山羊のチーズ、メインは豚肉とうどんの様なものとの付け合わせ、デザートのチョコレートケーキは美味しかった。ロゼワイン2杯とデザートにあう甘いアルコール飲料(名前は分からない)を飲む、不思議な飲み物だ。
 16時30分、ホテルに戻りチェクイン、少し休んで街に出て散策、聖マリア教会でミサがあったが時間が無く途中で帰る。
 19時、夕食、メインは抜かす、デザートもケーキ半分残す。昼食との合間が短すぎ、お腹がこなれていない。

 

   

   死の門、ここから入ったら戻れない。列車はこの先で終わり、その先にはガス室はある。

   

   死の門から見た収容所の景色

  

  ビルケナウ収容所構内図

     

 中谷氏の著書あるビルケナウ収容所の構内図 クレマトリウム(脱衣室、ガス室、焼却炉を備えた施設、地図から4基あったことが分かる。)

  

収容者を運んだ貨車

  

パネル写真、奥に死の門が見える、降ろされた収容者は男と女に分けられた。次に、労働に向くか向かないか選別する、向かない高齢者、身体障害者、子供は向かいとされそのままガス室へ送られた。

 

死の選別をするゲシュタポの詰所 この横を通ってガス室へ向かった。

列車を降りて労働に向かないと選別された人々(2枚上の写真参照)は線路を横切り詰所を右に曲がりガス室に進む (上にゲシュタポの詰所が見える)

 

 施設の修理も行われていた。

 

 広大な敷地にバラックが整然と並んでいる。

 

 監視塔

 

 

クレマトリウム、ナチスが犯罪を隠すために爆破した。(当時のままで残されている)階段を降りると脱衣室がある。シャワーを浴びるとの口実で服を脱がせガス室に誘導した。

爆破され天井が落ちている。

クレマトリウムの構内図 

A:入口 C:脱衣所 D:ガス室 E:チクロンBが投入されるハッチ F:5基の火葬焼却炉を備えたホール

K:医師メンゲレの解剖室 

部屋の機能

ユダヤ人が残したメッセージが書かれた小石  左:二度としないで サリガニ 

石を墓などに置くのはユダヤ人の習慣(天国への手紙)

残された煙突が慰霊碑のように整然と並んでいる。

バラックの中

トイレ、穴しかない。汲み取りなので悪臭がひどかったと思われる。

当時の様子が分かるようにパネルが設置されている。

復元されたバラック

パネル(写真)

収容者から奪った金品の保管場所

収容者が奪った金品を整理している写真

残された食器

残された食器のUP

焼却された遺体は砕かれ浄水槽で浄化された。

浄化された水は溜池で更に浄化しうわ水を川に流した。収容者から衣類、貴金属、靴、メガネなど(女性は髪の毛まで)を収奪してガス室で殺し、遺体を焼却炉で焼き、骨を砕き、浄水槽、溜池で浄化して川に流すまでの一貫した処理はまさに殺人工場だ。

当時の浄水池の様子が分かる写真

 

 

 

 

 

  

 

 
 


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