定年夫婦の暮らし方(店長日記)

盛岡に住む定年夫婦(昭和20年生)の暮らしを分ち合います。

115回ピースボート世界一周航海記その34(ポーランド・アウシュビッツ)

2024年02月29日 | 思い出の旅行

10月27日  ・アウシュビッツ強制収容所
       ホテル泊 ホテル・インペリアル・オシフェンチム


 早朝、曇天、サイレンの音が聞こえる
 7時、起床、7時30分、朝食はビュフェ形式、パン、チーズ、ハム、野菜、カフェオレ
 8時30分、帰室し準備 9時50分、荷物を持ってロビーへ
 10時15分、バスに乗り込む、クラクフの街中を通り川を渡り一路アウシュビッツへ向かう。 
 オシフィエンチム(所要時間1時間30分)
 12時30分、ホテルの前のレストランで昼食


 14時前、雨の中、アウシュビッツ強制収容所到着、中谷剛さんに説明、案内していただくことになったのは幸い。(誰が担当か分からないとのことだった)入口は見学者でいっぱいヨーロッパの若者のグループが目立つ、中谷さんの説明ではEU諸国は取り決めでアウシュビッツを見学することが勧められているとのこと、雨は降るし入口はごった返しているし、どうなるのか心配になる程。
 予約が2時とのことでそれまで待機していたようだ。中谷さんを先頭にチェクイン手続き、最初にチケットとパスポートを提示し、名前の照合をする。次にチケットのバーコードの読み取り、そして荷物のX線検査、金属製のものは全てトレーに入れ、人は金属探知機の下を通る。何度かひっかかり、やり直す。これで入場のための手続きは終了となった。なんと厳重な手続きか、驚く。それだけ重要な施設なのだと言うことだろう。説明用のヘッドホーンを装着し準備完了。ヘッドホーンは耳の悪い我々に取って有難い。中谷さんの説明がよく聞こえる。
 雨の中、傘を刺して施設内を進む、案内先はガイドが3時間という制約を前提に見学者に合わせて設定しているようだ。また、多くの見学者いるので混雑を避けることも配慮しているようだった。建物も多く、見学順に記録することは出来なかったので主な見学先を売店で購入した資料や帰国後入手した資料と合わせて紹介したい。
 資料:アウシュビッツ・ビルケナウ その歴史と今   
                 国立アウシュビッツ・ビルケナウ博物館
    アウシュビッツビルケナウあなたが立っているところ・・・ 
                 国立アウシュビッツ・ビルケナウ博物館

アウシュビッツ強制収容所
 ドイツ領にされたポーランドのオフィエンチム市郊外に1940年にドイツによって設立。その後、ドイツ語のアウシュビッツと言う地名に変更(ドイツ人にとって言い難いからとのこと)、収容所の名前にもなった。ポーランド人の収容者で溢れていたことが設立の直接の理由であったが1930年代から作られていたテロシステムの収容所の一つとして考えられ、1942年から徐々にユダヤ人絶滅センターになって行った。その背景にはドイツ軍がポーランドやロシアを侵略することでそこに住んでいた大量のユダヤ人や捕虜の扱いが問題になっていった。ユダヤ人を移住させることも検討されたが実現できず、収容しきれない状況になってナチスは労働者として使えない収容者を絶滅する方針に舵を切った。

 アウシュビッツ強制収容所の守備隊はSS(ナチス親衛隊)のメンバーで成り立っていた。SS隊員は収容所の幹部でありユダヤ人絶滅作業にも参加し死刑も執行していた。収容所が存在した期間に送り込まれたSS隊員は8,000人を超え、女性監視員200人が任務についていた。

 収容所の拡大
 ドイツの占領下のヨーロッパのほぼ真ん中に位置し交通の便が良かったことが同収容所がユダヤ人絶滅センターとして使われる背景だった。1940年最初にポーランド人政治犯(社会思想家、インテリ、文化人、学者、レジスタンス、将校など)728人が送り込まれた。更に強制退去されられたポーランドの住民やワルシャワ蜂起の市民、さらに占領した他国からの人々、ロマ、ソ連軍捕虜が入っていた。1942年から大量虐殺のために移送されたユダヤ人や選別の結果、労働力又は生体実験の材料として登録されるようになった。
 アウシュビッツ収容所に連行された130万人の内、登録された囚人となったのは40万人(20万人のユダヤ人、14万人のポーランド人、21,000人のロマ、12,000人のソ連軍捕虜、その他の国民が25,000人)その内の50%が重労働、飢餓、死刑執行、病気、伝染病、拷問などによって死んだ。また、20万人近くの囚人たちは他の施設に移され多くの囚人は命を落とした。アウシュビッツが解放された時は約7,500人の囚人たちが残っていた。

ユダヤ人絶滅センターとしてのアウシュビッツ
 1942年から収容所はユダヤ人絶滅センターとして2つ目の役割を果たすようになった。性別、年齢、職業、国籍、政治的思想を問わずユダヤ人あることだけで殺害された。連行されてきたユダヤ人の大半がSS医師の選別で労働に適さないと判断されガス室で殺された。老人、病人、妊婦、子供には生きる権利はなかった、彼らには囚人として登録もされなかった。その為、アウシュビッツで何人亡くなったのか分からない。
 

アウシュビッツ強制収容所はナチスが恒久的施設として建造したとの事、レンガ造りの立派な建物で悍ましい雰囲気は感じられなかった。現在でも使用できるように思えた。1列12棟が2列、1列8棟(形が異なる建物1棟を中央に挟んで)が1列に密集している。囚人の居住用として寝室棟(2段ベット)、トイレ棟、洗面棟がある。SS幹部室、事務室もあった。
 
収容所
 <寝室>
 復元された3段ベットがぎっしり詰まっている、マット(展示されていない)は藁(ノミやシラミに悩まされただろう)だったと想像した。薄い毛布や着ていた服を被ってくっ付き合って寝たのだろう。(映画のシーンから想像できた)暖房はあったが凍死しない程度最低限のものだったのではないか。生き残った収容者の「衰弱したり下痢をしてトイレにも行けない収容者は垂れ流しだったので衛生状態は過酷だった」との趣旨の証言がある。


 <トイレ>
 トイレ棟は一つ、全員ここでトイレを済ますとのこと、囲いは無いが陶器製の便器(蓋は無い)が並んでいた、水道管があったので水洗だったようだ(第二収容所ではコンクリート製の共同トイレで丸い穴が空いているだけだった)トイレットペーパーは無かったと想像する。トイレは大事な情報交換の場となっていたとのこと。


<洗面所>
 洗面棟もあった、U字型のコンクリート製の長い流し、水道管が取り付けられていたような跡があった。ここで顔を洗ったり髪を洗ったのだろう。お湯は期待できない、冬の寒い中で水での洗顔や洗髪は辛かっただろう。

<脱衣室>

収容者が殺されることを察して騒動が起きないように監視は「衣類をかけた場所を覚えておくように」との注意をしていた。

<ガス室>
 壁と天井は黒色(毒ガスで変色したのか)、天井は低く暗い、陰湿な部屋だ、黒い色は時代を経た結果か当時のままなのか分からない。天井の小さな穴(天窓から投入したとの記述もある)からチクロンB(粉状の殺虫剤)を注入したとのこと、初めはシャワーの設備が無いことから異変を感じ、穴からガスが降りてきたのを見て死の恐怖に襲われ毒ガスで苦しみもがき亡くなったのだろう。

<焼却室>
 火葬場にあるような炉が3基セットで5セット並んでいた。もちろん炉は剥き出し、鉄板は黒、構造体の赤レンガが煤けていた。模型では炉の隣にコークス庫(燃料はコークスを使ったとの事)も並んでいた。焼却、遺灰処理はユダヤ人の仕事だ。
 炉を製造した企業からもっと効率の良い炉の提案(製造した企業は何を燃やすか知っていたと言われている)があったことは訪問する前から聞いていた、産業界も加担していたのだ。
 焼却が追いつかない事態になり第二強制収容所では野焼きをするようになる。その現場は翌日見学した。

死の壁
 レンガの壁の内側に二重に壁が設けられている箇所が銃殺刑が行われたところ、死の壁と言われている。ここで数千人を銃殺した。花が手向けられていたのが最近の出来事の様に生々しかった。 建物と建物の間にあり特別な場所と言った雰囲気は無い、しかし、3方のレンガに反射した銃の音が収容所内に響き渡ったと思われる。明らかに見せしめとしていたと思う。「またか!」ユダヤ人の舌打ちが聞こえそうだ。

遺品
 カバン、靴、義足、女性の髪の毛、メガネ、囚人服、食器などの遺品が山のように積み上げられて展示されていた。強制収容所に収容されたユダヤ人から取り上げたもの、再利用することが目的だったが収容者が増え未利用の遺品が残された。第二収容所に野積みにされた遺品を分けるユダヤ人と倉庫が写っている写真があった。
 積まれた遺品は一つ一つに持ち主がいてそれぞれの人生があった、それがある日突然に失われた、山になった遺品は人であったことを否定され消された理不尽な出来事を訴えているようだ。
 女性用のハイヒールが一足、靴の山から離されて展示されていた。流行していたのだろうか、自慢の靴だったかも知れない。こんな結末が待っているとは知らず街を颯爽と歩いていたのだろう。

コルベ神父の房
 日本と深い関係にあったコルベ神父が亡くなった房を訪れることが出来たのは幸いだった。半地下の薄暗い房に教皇からおくられた大きな復活の蝋燭が立っていた。この房で他の餓死の刑に服してた人を讃美歌で励ました、神父は最後まで生き残り、看守が毒を注射し亡くなったとのこと。房の頭上にあった小さな鉄格子の窓から光が差していた。神父や受刑者たちは外と繋がる窓をどのような気持ちで眺めていたのだろうか。どんな賛美歌を歌ったのか、コルベ神父に看取られた受刑者は心安らかにいけたのだろうか、記録をつけながら思いを巡らせた。
 写真撮影禁止だったが売店で房の写真(ポストカード)を販売していたので信者の知人へのプレゼント用に15枚購入する。

5時前、中谷さんのガイドは終了、売店で買い物をして重い足どりでホテルに帰る。少し休んでホテルのレストランで夕食を取る、皆さん疲れが取れたのか少し元気になった。食後、参加者とガイドを交えて感想などを交換する交流会を持った。その席でPBスタッフの冨岡さんから貴重な体験を分かち合う報告会を開催したいとの提案があり、皆さん賛成する。冷たい雨が降る見学で体力的な疲れに精神的な疲れが加わったシンドイ一日だった。

 わずかな食料で重労働に駆り出された収容者は肉体的にも精神的にも人間としての限界を超えた状態にいたがその中で生き残れたのは死の恐怖、労働ができないと判断されガス室送りにならないようにとの緊張感を持っていたからだ。

 

 

  

   アウシュビッツ周辺図(中谷剛「ホロコーストを次世代に伝える」から)

   強制収容所に収監されていた人々は周辺に立地していた軍需工場の労働者であった。

  

  入口付近、高校生の団体が訪れていた。(EUでアウシュビッツ強制収容所を見学することが望ましいとされているとのこと)

  

  入場券、無料ですがガイドを付けるとガイド料金がかかります。

  

  アプローチ、緊張する、先導するのは中谷氏

  

  収容所入口手前、有名な看板が見える。舗装されていない水たまりの道路を行く(ゲシュタポはわざとそうしたとの事)

  

  収容所の門 売店で購入したポストカード(ARBEIT MACHT FREI 仕事はあなたを自由にする)看板のBの文字が逆さになっています、これを作ったユダヤ人のせめてもの抵抗の印だったとのこと。この標語はヘス所長が自分の経験(かって刑務所に服役していた時、労働が収監の苦痛から解放してくれたことを前提にした様だ)

  

  雨の中、多くの団体が訪れていた。

  

黙々と見学する団体(高校生くらいの若者)

  

  整然と赤煉瓦の建物が並んでいる。収容所に見えなかった。

  

奥に「死の壁」がある門の前を通る見学者

  

 ゲシュタポの部屋

  

  トイレ(水洗のように見えました)

  

  洗面所(蛇口が並んでいたと思われます。)

  

  3段ベット(再現)と残された暖炉

  

  15ブロック

  

  14ブロック

  

  

高圧電気が流れる柵で囲まれた歩道、収容者はこの道を通って作業や工場に出かけた。

  

 21ブロック

  

 11ブロック地下飢餓監房No.18 マクシミリアン・コルベ神父が身代わりになってここで亡くなった。

 復活の蝋燭は教皇からの贈られた。(ここは撮影禁止になっています。代わりに売店でポストカードが売られています。)

  

  

  一見、立派な集合住宅に見えます。ゲシュタポは恒久的な施設として建設、第二収容所(ビルケナウはバラック造り)とは違う

  

炊事棟?

  

  奥の石の壁は死の壁と呼ばれている。ここで見せしめのため反抗したり脱走した囚人を銃殺した。

  

  死の壁は花が絶えない、壁には弾の跡が残っている。私たち夫婦は黙祷しました。

  

  絞首刑台、ここで収容されている囚人を集めて刑の執行を見せ、放置した。

  

  監視塔

  

  説明する中谷さん

  

  建物は立派なのに道路はこんな状態、凸凹で歩きにくい。

  

  チクロンB(殺虫剤)の空缶、これを天井の窓からシャワー室に投下

  

  焼却室の模型、左端に燃料のコークス置き場がある。

  

  焼却室

  

  かばんの山、自分の物と分かるように名前を書かせた。しかし、二度とかばんを手にすることは無かった。

  

  メガネ

   

  靴

  

  おしゃれな靴も見える

  

  食器(食事用だけでない必需品、これが無いと生きて行けない。)

  

  囚人服(労働をさせるため)

  

  ユダヤ教徒の布

  

15号棟

  

  売店で購入した本「アウシュビッツービルケナウ あなたが立っているところ・・・」

  当時の写真がどこで撮られたのか調査し、残っていた写真と現在の写真を並べた写真集、表紙は死の門を潜り列車が到着した様子と現在の様子を合成したもの、私たちをかってのアウシュビッツに連れて行ってくれます。

 

 

  

  中谷さんの著書「ホロコーストを次世代に伝える」*絶版、ネットで買いました。

  

  

  

  

  

  

  

  

 

 

 

  

 

 


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