定年夫婦の暮らし方(店長日記)

盛岡に住む定年夫婦(昭和20年生)の暮らしを分ち合います。

シルクロードの旅(8)

2008年01月28日 | 思い出の旅行

10月30日(土)
 トルファン観光(カレーズ)オプション(葡萄栽培農家、交河故城)

 市内に戻り遅い昼食を取りカレーズ観光に向かう。葡萄畑がある集落に入ると小さな博物館があり、職員の説明を受ける。カレーズは万里の長城、長江と並ぶ世界3大工事の一つと言う。中国3大工事の1つの間違い?。中国人にとって中国一とは世界一と同義語と思っているのかもしれない。
 カレーズは1本の長さが20~30km,深いところで80m、全部で1000本で総延長は5000kmになるとのこと。計算が合わないがそれでもやっぱりすごい。砂漠の地下にはカレーズが何本も走っていると言うことである。水路が地上にあると3分の1は蒸発してしまうとのこと。天山山脈の水資源を無駄にしない合理的な灌漑施設である。しかし、そのための工事、メンテナンスは大変な苦労であったろう。方法はまず、20~30mの間隔で縦穴を掘り、更に横穴を掘ってつなげていく。20~30m先の縦穴めがけて掘り進むのはよいがどのようにして間違わずにたどり着けるのか聞くことはできなかった。穴は補強していないので陥没する事故もあったのではないか。閉所恐怖症の私は想像するだけで冷や汗が出る。博物館の庭にはカレーズ工事に使った巻き上げ機等展示されていたがまったくシンプルなもの。
 カレーズは直径90センチ程の大きさできれいな水が勢良く流れていた。奥をのぞくと先は真っ暗、次の縦穴までかなりの距離がありそうであった。穴の大きさから作業は膝をついて一人で掘り進めて行ったのであろう。それぞれ縦穴の両側から進めれば効率的であるからそうしたのであろう。


 ガイドがカレーズ見学で今日の日程は終わりだがまだ時間があるので別料金で葡萄栽培農家と交河故城見学をすると言う。今回のツアーを請負った現地の旅行代理店が利益を上げるために考えたものではないかと思った。はめられたとの思いがあったが折角ここまで来て交河故城を見ないで変えるわけにもいかず参加することにした。参加しない客は市内に戻り自由行動となる。
 参加しない客を乗せたバスが戻って来るまで近くにある葡萄農家の見学をする。未舗装の道路沿いにあった農家は庄屋クラスとのこと。門から入って行くと日除けの棚がある庭で数人のおばさんが干し葡萄の選別作業をしていた。打合せができていたらしく一段高くなったコンクリートの台の上にテーブルが置かれ葡萄、梨、スイカ、揚げパンが並べられる。皆くつろぎながらごちそうになる。この地域の特産である葡萄は甘みが強く美味しい。



 私は建物に興味があったので食後、室内を見せてもらう。居間はオンドルが設置され床が一段高くなっている。床と壁には派手な絨毯が使われている。食器棚があるが入っている食器は少ない。天井には明かり取りのための穴が中央にぽっかり空いていた、雨が少ないこの地域ではこれで問題ないのであろう。居間の隣は客間で同じように床と壁には絨毯があった。布団(ベットはなかった)が部屋の隅にきちんと畳まれカバーがかけられていた。豊かではないがしっかりした生活をしているように思えた。漆喰を施していない日干しレンガの壁や床には壁紙やフローリング代わりにそして断熱材代わりに絨毯が必需品であることが分かった。


 外にはかまどがあり、側にまな板と中華包丁があった。脇に石炭が積んであったが料理やオンドル用であろう。庭の中央にメーター付き水道が1本あった。我々が座ったコンクリートの台は地下貯蔵庫の屋根であった。冬はかなり温度が下がるので食糧の保存のために不可欠とのこと。
 トイレを借りるために裏手にまわると物置と家畜小屋があった。トイレは建物の奥の隅にあり、日本の農家のトイレと同じような配置であった。トイレは長方形の穴があるだけ、穴の下には大便が盛り上がっていた。紙を使った形跡はなかったので水を使っているように思えた。3面は囲われているが扉は無い、薄暗いトイレの穴から差し込む光だけがたよりである。
 庭先では我々を相手に乾燥果物の店が開いた。妻は干し葡萄と干し梅を買う。値段は町より高め、ガイドは品質が良いからと言い訳、日本人相手に高めに値段設定していると思われた。
 この農家の中学生の女の子が英語で話しかけてくる。4人兄弟でおじいさんもいるとのこと。貧しいけれどウイグルの中学生は目が輝き笑顔を美しかった。門の外では主婦が水路でおしゃべりをしながら洗濯、道ばたにはロバの糞、忘れていた風景であった。
 オプションに参加しない客を送ったバスがようやく戻ってくる。バスの中ではガイドの日本語が怪しく良く聞き取れないので「交河故城」が「レンガ工場」と聞こえ、「そんなところに行きたくないと思っていた」としゃべっている声が聞こえる。
 交河故城の入口にあった模型でここが二本の河に挟まれ天然の要塞であることが分かる。6世紀麹(きく)氏の出城であったが元時代にはさびれたとのこと。高昌故城より少し良い状態に思えた。明かり取りがついた部屋や広間がある役所跡、伽藍を誇った寺院群、井戸、門、通路を見て回る。驚いたことにこれらの建物や道路は掘って造られたとのこと。故城から川原にある小さな畑が見える。この風景だけは昔と変わっていないのではと想像してみる。



 オプションのおまけに予定になかったイスラム建築、蘇公塔(そこうぼ)を見学する。1779年トルファン王、蘇来満(スレイマン)が父親額敏(エミシ)を記念して建てたもの。額敏は当時の反乱を鎮圧した人物で清朝への忠誠の証でもあったと言う。
 レンガを積み重ねた砲弾型の造形は安定感と迫力がある。表面の抽象文様がシンプルで美しい。観光客にも開放されている隣接しているイスラム寺院を見る。床には絨毯が敷かれているだけで簡素なつくり。明かりとりもなく奥は真っ暗。裏手には幾何学的な墓石が
並ぶイスラム教徒の墓地があった。
 市内に戻りオプションに参加しなかった客と合流して夕食をとる。羊の臭いのせいかシシカバブーを食べる人は少なかった。少しなら良いが大量だと申し訳ない気がする。
 食後、トルファン駅に向けて出発、駅は市内からかなり離れており40分程かかった。
駅舎は大きく立派であったが駅周辺は薄暗い。乗車手続きまで時間があったのでバスの中で待機させられる。我々は駅周辺を散策する。10時近いが雑貨、食品、食堂が細々と営業していた。駅から少し離れると真っ暗、危険を感じたので駅に戻る。
 駅では空港と同じようにX線による荷物の検査があった。構内は列車を待つ客で一杯、家に帰るのか、これから働きに行くのか、皆大きな荷物を持っている。時折駅員がハンディマイクで注意すると行儀良く並び直す。明らかに乗せてやると言った態度であった。
 一方、我々は複雑な思いで暖房が効いた軟座(一等車)用待合室で列車を待つ。
 10時01分発西安行きに乗り込む。割り当てられたのは4人部屋で沖縄から参加した40代と千葉の60代の女性が同室となった。早速寝る準備をして酒を飲むことにする。我々夫婦はビール、沖縄の女性はウィスキー、今回の旅のこと、海外旅行の体験談、家族のこと等盛り上がるが私はもっぱら聞き役。
 寝る前にトイレに入る。トイレは水洗だが何故かプラスチックの桶が置いてある。この桶を使って水を流すのか、手を洗うのか、汚れたところを洗うのか謎であった。金属製のカゴもあって何に使うのか、汚れた紙を入れるのか、これも謎であった。だれか教えて下さい。
 洗面場近くで炎がガラスに映っているので何事かと思ったら車掌がボイラーの石炭の補充をしてるところであった。列車は敦煌めざしてひた走る。


 気になった人々
  高昌故城で遭った土産売りのウイグル人の少女
  葡萄栽培農家の家族
  列車に乗るために行儀良く並ばされていた人々
  いかめしい制服姿の女性乗務員


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« シルクロードの旅(7) | トップ | シルクロードの旅(9) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

思い出の旅行」カテゴリの最新記事