お盆休みは戦争の話しが多いです。
母は空襲経験者で色々聞いてました。
私は今・・・何歳だ?
56歳でした(;゚ロ゚)
びっくり。
私がまだ小さいとき、つまり50年ぐらい前は、戦後25年ぐらいの時ですよね。
例えば上野公園とか行くと、戦争で腕や足をなくした方が戦争中に来ていたような服を着て座ってたり、音楽を・・アコーデオンとか?ハーモニカだったか、とにかく音楽を鳴らして、お金を集める・・・・みたいなことしていました。
上野公園だけじゃなくて、渋谷とかにもいた?
あの時は、すごく怖かったんです。
怖くて見れなかった。
今思うと、本当に犠牲者ですよね。
政府からの援助があったのかなかったのか分からないけど、本当にただただ犠牲者。
ほとんど人が、見ないようにして無視してその場を通り過ぎていたんです。
おそらく助けた人もいたんだと思うけど。
私の父も戦争行ってました。
途中病気で死ぬ思いをして、お腹には雑な縫い方の傷跡がありました。
その話も何度か聞いていました。
TVのドラマでも戦争中の話を見るけど、本当に犠牲になってる。
以前、母と母の妹(おば)が阪神淡路大震災のニュースとかを見ていてこう話していました。
ごめんなさい、本当にイヤな思いする人いると思いますが、事実を書きます。
母とおばは「恵まれてるよね、戦争の時なんて食べ物をくれる人なんて誰もいなかった。毛布だって水だって食べ物だって、なんにもないんだから。誰も助けてなんてくれないし、着るものもなにもなかった。医者やクスリなんて全くないよ。」と。
母とおばは東京大空襲の時、港区に住んでいました。
かなりのお屋敷でしたが、焼夷弾が何発も突き刺さり、全焼。
母は焼夷弾が落ちてくる音をずっと覚えていました。
命からがら、青山墓地へ逃げたそうですが、母は一人で青山墓地へ逃げたんだけど、道がなくなってて、家も建物も何もかもなくなってて方向が分からなくて困っていたら、たまたま近所の人に声をかけられて青山墓地へ逃げることが出来たそうです。
当時、青山当たりの人は、明治神宮か青山墓地へ逃げると決まっていたそうなんだけど、ちょっと遠い青山墓地へ行けと母の父から言われたそうです。
実際、明治神宮は空気の流れのせいか、火がめぐって、そこへ逃げた人はほとんど亡くなったと聞きました。ホントかどうかは知らないけど母がそう言っていた。
青山墓地へ逃げても3日ぐらい家族と会えなくて、母は近所の人と過ごしていたそうです。
やっと母の父が探して会えたそうだけど、その時、スゴく怒られたと。
食べ物も水もなく、着るものも、当然寝具もない。
焼け跡、そして死体。
母が言うには、まっ黒になって男か女か、大人か子供かさえも分からない。
それが溝にいっぱいある。
死体を見て私が怖くなかった?って聞いたら、焼け焦げた死体を怖いとかそんな場合じゃなかったと。
母は昭和2年生まれなので、終戦は17歳ぐらいだったのでしょう。
母の妹は6歳年下なので11歳。
母は軍事工場に行ってたそうです。
なにを作っていたかを忘れたけど、母が死ぬ間際、だいぶ呆けていて、時間がさかのぼっていたんですが、最後の方、手を動かして、何かを必死に作る作業をしてました。
おそらく、その軍事工場での作業を思い出して手を動かしていたんだと思いました。
もうその時は、あんまり話が通じない時だったので、敢えて聞かなかったけど。
もう何十年も前のことで、さらに戦争は数年。
それを80を過ぎた年で、その軍事工場で働いていた作業を覚えて手を動かしていた。
母や父にもっと聞いておけばよかったと、本当に思うけど、本当にイヤなことはなかなか話せないんですよね。
父は戦友会をとても楽しみにしていました。
戦友を本当に大事にしていました。
生死を共に生きていたのだから、やはり特別なんだと思う。
戦争って犠牲があるから、反対。
話し合いとか、他の方法で解決できるのが・・・一番良いよ。
と、思う。
犠牲と、例え残ったとしても、キズが大きすぎる。
名もなく看取られることもなく、遺体も分からずに亡くなった方が沢山いた。
その方々達にも人生があって、それが犠牲になった。
ご冥福を祈らずにいられない。
命が助かっても、何かを失ったり、大事な人を失ったり、犠牲をみんな受けて生きていた。
戦争は・・・犠牲しかない。
代償が大きすぎる。
もう気づいて欲しい。
母は空襲経験者で色々聞いてました。
私は今・・・何歳だ?
56歳でした(;゚ロ゚)
びっくり。
私がまだ小さいとき、つまり50年ぐらい前は、戦後25年ぐらいの時ですよね。
例えば上野公園とか行くと、戦争で腕や足をなくした方が戦争中に来ていたような服を着て座ってたり、音楽を・・アコーデオンとか?ハーモニカだったか、とにかく音楽を鳴らして、お金を集める・・・・みたいなことしていました。
上野公園だけじゃなくて、渋谷とかにもいた?
あの時は、すごく怖かったんです。
怖くて見れなかった。
今思うと、本当に犠牲者ですよね。
政府からの援助があったのかなかったのか分からないけど、本当にただただ犠牲者。
ほとんど人が、見ないようにして無視してその場を通り過ぎていたんです。
おそらく助けた人もいたんだと思うけど。
私の父も戦争行ってました。
途中病気で死ぬ思いをして、お腹には雑な縫い方の傷跡がありました。
その話も何度か聞いていました。
TVのドラマでも戦争中の話を見るけど、本当に犠牲になってる。
以前、母と母の妹(おば)が阪神淡路大震災のニュースとかを見ていてこう話していました。
ごめんなさい、本当にイヤな思いする人いると思いますが、事実を書きます。
母とおばは「恵まれてるよね、戦争の時なんて食べ物をくれる人なんて誰もいなかった。毛布だって水だって食べ物だって、なんにもないんだから。誰も助けてなんてくれないし、着るものもなにもなかった。医者やクスリなんて全くないよ。」と。
母とおばは東京大空襲の時、港区に住んでいました。
かなりのお屋敷でしたが、焼夷弾が何発も突き刺さり、全焼。
母は焼夷弾が落ちてくる音をずっと覚えていました。
命からがら、青山墓地へ逃げたそうですが、母は一人で青山墓地へ逃げたんだけど、道がなくなってて、家も建物も何もかもなくなってて方向が分からなくて困っていたら、たまたま近所の人に声をかけられて青山墓地へ逃げることが出来たそうです。
当時、青山当たりの人は、明治神宮か青山墓地へ逃げると決まっていたそうなんだけど、ちょっと遠い青山墓地へ行けと母の父から言われたそうです。
実際、明治神宮は空気の流れのせいか、火がめぐって、そこへ逃げた人はほとんど亡くなったと聞きました。ホントかどうかは知らないけど母がそう言っていた。
青山墓地へ逃げても3日ぐらい家族と会えなくて、母は近所の人と過ごしていたそうです。
やっと母の父が探して会えたそうだけど、その時、スゴく怒られたと。
食べ物も水もなく、着るものも、当然寝具もない。
焼け跡、そして死体。
母が言うには、まっ黒になって男か女か、大人か子供かさえも分からない。
それが溝にいっぱいある。
死体を見て私が怖くなかった?って聞いたら、焼け焦げた死体を怖いとかそんな場合じゃなかったと。
母は昭和2年生まれなので、終戦は17歳ぐらいだったのでしょう。
母の妹は6歳年下なので11歳。
母は軍事工場に行ってたそうです。
なにを作っていたかを忘れたけど、母が死ぬ間際、だいぶ呆けていて、時間がさかのぼっていたんですが、最後の方、手を動かして、何かを必死に作る作業をしてました。
おそらく、その軍事工場での作業を思い出して手を動かしていたんだと思いました。
もうその時は、あんまり話が通じない時だったので、敢えて聞かなかったけど。
もう何十年も前のことで、さらに戦争は数年。
それを80を過ぎた年で、その軍事工場で働いていた作業を覚えて手を動かしていた。
母や父にもっと聞いておけばよかったと、本当に思うけど、本当にイヤなことはなかなか話せないんですよね。
父は戦友会をとても楽しみにしていました。
戦友を本当に大事にしていました。
生死を共に生きていたのだから、やはり特別なんだと思う。
戦争って犠牲があるから、反対。
話し合いとか、他の方法で解決できるのが・・・一番良いよ。
と、思う。
犠牲と、例え残ったとしても、キズが大きすぎる。
名もなく看取られることもなく、遺体も分からずに亡くなった方が沢山いた。
その方々達にも人生があって、それが犠牲になった。
ご冥福を祈らずにいられない。
命が助かっても、何かを失ったり、大事な人を失ったり、犠牲をみんな受けて生きていた。
戦争は・・・犠牲しかない。
代償が大きすぎる。
もう気づいて欲しい。