おでかけのーと

城跡めぐり、ガーデニング、編物。

丹後一色氏

2015-12-24 | 日記
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足利義氏-泰氏-斯波
--------渋川
--------頼氏-家時-貞氏-尊氏
--------相義-石塔
--------一色
--------上野
--------小俣
--------加古
承久の乱(1221年)で足利義氏は三河守護に任じられ、5男・公深は吉良荘一色郷の地頭となり、一色氏を称した。
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公深-頼行
---範氏-直氏
------範光-詮範-満範
公深の子らは、本家の足利尊氏に従い、九州落ちにも同行。
1337年(延元2)、頼行は九州探題となった範氏と共に、南朝方の阿蘇惟澄&菊池武重と犬塚原で合戦、するも大敗して討死。
1350年(正平5・観応1)、足利家の兄弟喧嘩が起こると、足利直冬が九州に入り少弐氏&大友氏と組んで勢力拡大。
幕府・南朝・直冬の3勢力が縄張り争い状態となるも、1352年(正平7・文和1)に足利弟が殺害されると直冬は中国に去る。
これを機に範氏は少弐頼尚を攻めたけど、針摺原の戦いで大敗。
1359年(正平14・延文4)、懐良親王は大保原の戦いで少弐軍を撃破。
範氏の長男・直氏が跡を継いだけど、九州は南朝に全域を支配される。
範氏の2男・範光が当主となり、三河・若狭守護&四職家の1つとなる。
範光の子・詮範は、明徳の乱(1391年)で尾張知多・海東2郡の分郡守護にも任じられ。
孫・満範も丹後守護となり、八田守護所建部山城を築いて領国を統治した。
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満範1――義貫2――義直4――義春5
**1――**2――**4――義秀6
**1――**2――**4――義季-――義清8
**1――**2――義遠-――義有7
**1――持信-――教親3――義幸9――義道10――義定11
**1――**2――**4――**5――義清12
力をつけすぎた一色氏は、1440年(永享12)5/15、将軍6足利義教の命を受けた側近に義貫を謀殺され。
将軍の近習だった弟の子・教親が家督となる。
三河は細川持常、若狭は武田信栄のものに。
教親が急死すると、義貫の遺児・義直が家督を取り戻す。
が、応仁の乱(1467年)で山名組に入ったため、細川組の将軍に丹後・伊勢守護を没収された。
丹後で新守護・武田信賢vs一色氏守護代・延永氏、伊勢で新守護・土岐政康vs一色氏守護代・石川道悟、細川成之の領国・三河には弟・一色義遠が尾張知多郡から攻め入り、激しい合戦となった。
1474年(文明6)4月、乱を終了する和議で丹後&伊勢守護を回復し、義直の子・義春が家督に。
国司・北畠政郷が北伊勢を渡さず合戦となり、負ける。
1476年(文明8)、三河守護も回復したけど、細川成之が抵抗。
細川守護代・東条国氏を自害に追い込んで優勢に戦いを続けるも、2年後に放棄。
1484年(文明16)9月、病死した兄に代わり義秀が継承。
幕府が足利義稙&日野富子vs足利義澄&足利義政&細川政元で対立すると、丹後でも義稙派の義秀&石川vs義澄派の延永&伊賀が対立。
1498年(明応7)5/29、義秀は晋甲山で敗れ自害した。
義有が跡を継ぐ。
1505年(永正2)、若狭武田氏に加勢して管領・細川政元も攻め入ったけど、政元が養子Aに暗殺され落着。

1512年(永正9)7月、義有の死去。
石川直経は国人の反対を押し切って強引に義清を後継にする。
1514年(永正11)3月、義清支援に若狭勢が普甲山を攻める。
1515年(永正12)、守護代・延永春信は三河一色氏から後継者を迎えようと画策。
守護所を追放された義清は加悦城に籠城。
1517年(永正14)6月、延永春信は城を陥し、若狭へ追撃して砕導山城・逸見国清を味方につけ小浜へ迫る。
も、幕府の援軍を得た武田軍にボコられ没落。
武田氏は八田守護所&建部山城を占領し、義清の領国経営をバックアップ。
跡を継いだ義幸が武田勢を押し返して八田守護所&建部山城を取り返す。

義幸の子・義道は、比叡山焼き討ちで追い出された僧を匿うなど信長と対立し、1578年(天正6)、明智光秀&細川藤孝に侵攻される。
翌年、丹後国人の離反が相次ぎ、籠城した建部山城も落城。
但馬山名氏へ亡命する途中、身を寄せた中山城・沼田幸兵衛に裏切られ、自害した。
http://d.hatena.ne.jp/rina-chan/20151110 伊久知城
http://d.hatena.ne.jp/rina-chan/20151111 岩滝城、男山城
義道の子・義定は、残党を率いて弓木城で抗戦。
明智光秀の助言で藤孝は娘との政略結婚で和議を結び、以後、丹後国を分割統治した。
山崎の戦い(1582年)では、直属の上司・明智光秀に味方し。
乱後、秀吉の意図で細川忠興に宮津城で謀殺された。
叔父・義清(前出とは別人)が跡を継ぎ細川軍と戦ったけど、1582年(天正10)に殺され、丹後一色氏は滅亡。