おでかけのーと

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若狭武田氏

2015-12-23 | 安芸・若狭 武田一族

本家を継いだ信時は甲斐&安芸守護として、長門へ向かい蒙古襲来の防衛にあたった。
霜月騒動(1285)の時に両守護を解任され、北条得宗家と親しかった弟・政綱が甲斐守護となり、武田本家扱いをされる。

義清-清光-信義-信光-信政-信時-時綱-信宗-信武
**-**-**-**-**-政綱-信家-貞信-政義

鎌倉幕府を倒した足利方に属した信宗は、1336年(延元1)に安芸守護に任じられ。
後醍醐方に転じた政義に代わって、1337年(延元2)に甲斐守護にも任じられる。
氏信が本家&安芸守護を、信成が甲斐守護を継いだ。
観応の擾乱に安芸で直冬党を担当したけど戦況が思うように展開せず、氏信は守護から外される。
10年後の1378年(永和4)、安芸分郡守護に。

信武―信成(甲斐)
**―氏信(安芸)―信在―信繁―信栄1(若狭)
**―******―**―**―信賢2
**―******―**―**―国信3―元信4―元光5―信豊6―義統7―元明8
**―******―**―**―**3―**4―信高
**―******―**―**―元綱―元繁(安芸)

1440年(永享12)5月、大和永享の乱に出陣していた信栄は、将軍・足利義教に命ぜられて一色義貫を暗殺し、若狭守護&尾張国智多郡をもらう。
も、7月に亡くなり、弟・信賢が継いだ。
小浜には一色氏の拠点があり、牢人が土一揆と結んで度々蜂起する。
安芸にもつ分郡でも、大内氏と度々戦いが。
1469年(応仁3)、応仁の乱で山名組に入ってた一色氏の丹後守護が、武田氏のものに。
1470年(文明2)、兄が急逝し、国信が跡を継ぐ。
1477年(文明9)、応仁の乱が手打ちになると、講和の一環として将軍・足利義政から一色氏へ丹後守護を返還するよう命ぜられた。
けど、丹後戦線に深く関わってきた家臣・逸見宗見は合戦を止めず。
国信が援軍を送らなかったため、武田軍は全滅した。
安芸を担当した元綱たちが、独立目指して反幕府について迷惑をかけるんで、1515年(永正12)春、安芸分郡を完全分離。

一色氏残党が暗躍するため、1506年(永正3)、細川氏の応援を得て一色義有が支配する丹後へ侵攻。
したけど、細川政元が養子Aに暗殺される。
丹後一色氏の家督争いに介入。
1519年(永正16)11月、跡を継いだ元光は、それまで京に住んでたのをやめて後瀬山に築城し、山麓に守護館を移す。
細川家内乱にC高国に味方したけど、1527年(大永7)、三好勝長&柳本賢治らと京都西郊で戦って大敗。
1540年(天文9)2月、家老・栗屋元隆が信高を後継者にしようと反旗を翻したのを、朝倉氏の支援で鎮圧。
信豊が跡を継いだ。
B'晴元方として、1542年(天文11)3/17、大平寺の戦いに参じたり。
1553年(天文23)、丹後&丹波で三好党の松永長頼と戦ったりもしーの。
1556年(弘治2)10/5、義統と組んで兄を引退に追い込もうとしてた信高、討たれる。
六角氏を頼って近江に逃げた信豊は、1558年(永禄1)、復活を期して戦う。
義統は朝倉氏に支援を求め、鎮圧。
1558年(永禄1)7月、義統が家督を継いだ。
1561年(永禄4)、朝倉氏を頼りまくる義統に、国吉城・栗屋勝久&砕導山城・逸見昌経が、丹波八木城・松永長頼の支援を受けて反乱。
鎮圧しても、何度も反乱。
8月、足利義昭が頼って来たけど、内紛で弱体化してるためアテにならんと、すぐに朝倉さんちへ。
1567年(永禄10)11月、父の死去に伴って元明が家督を継ぐ。
粟屋勝久が国境で朝倉氏と激闘を繰り広げるも、1568年(永禄11)、元明を拉致られた。
反朝倉の被官人は織田信長に通じて、1570年(元亀1)、朝倉氏攻めに参じ。
1573年(天正1)、朝倉義景は滅亡。
若狭は丹羽長秀に与えられ、元明は神宮寺に蟄居した。
1582年(天正10)6月、本能寺の変を起こした明智光秀に加担して佐和山城を攻め落としたけど。
近江海津で自害を強いられ、若狭武田氏は滅亡した。