日本史大戦略 ~日本各地の古代・中世史探訪~

列島各地の遺跡に突如出現する「現地講師」稲用章のブログです。

剣池嶋上陵(孝元天皇陵)|奈良県橿原市 【独りオプションツアー ①】

2018-09-24 13:39:58 | 歴史探訪
 朝飯の時間は6時半からなので、5時から行動を開始して6時半までにホテルに戻ってこようと思い、昨晩寝るときに目覚まし時計を4時半にセットしたところ、自然と3時45分に目が覚めてしまいました。

 そして5時になり、窓の外を眺めると、まだ真っ暗。

 こちらは東京よりも少し日の出が遅いのは知っていますが、まさか真っ暗だとは思いませんでした。

 仕方がないので部屋で待機していると少し空が白み始めたので、5時半に行動を開始します。

 まずは8代目の天皇である孝元天皇の墓へ向かいますよ。

 早朝のホテル「THA KASHIHARA」。



 建物には「DAIWA ROYAL HOTEL」とあります。

 ホテルは近鉄の橿原神宮前駅の駅前にあるのですが、すぐ東側の道は古代の下ツ道です。

 南の飛鳥方面を見ます。



 北の方角は、このまままっすぐ進んだ方向に平城宮の大極殿があります。





 ※「Yahoo!地図」より加筆転載

 日本の都城は、694年に造られたわが国初の都城である藤原京を始めとして、平城京や平安京など数多くありますが、それらはそれ以前からあった道のラインに規制されて造られています。

 ですから、この道は都づくりをする際の重要な基準線だったわけです。



 ※『古代の道路事情』(木本雅康/著)より転載

 薄暗い中を歩きだしてすぐ、下ツ道の「丈六」交差点へやってきました。



 おや、何やら道しるべのようなものが立っています。

 おっと、これから向かう孝元天皇の墓を指し示す道標じゃないですか。



 孝元天皇の墓は「剣池嶋上陵(つるぎのいけのしまのえのみささぎ)」という名前が付けられていますが、覚えにくいですね。

 『日本書紀』の推古天皇20年(612)2月20日の条によると、推古の母・皇太夫人堅塩媛(きたしひめ。蘇我稲目の娘で先の天皇欽明の妃)を檜隈大陵に改葬し、軽の巷(かるのちまた)で誄(しのびごと。死者を悼む詞)を奏上したとありますが、その「軽の巷」は、下ツ道と阿倍山田道が交わるこの場所と言われています。

 あ、猫ちん!



 追いかけます。



 振られました・・・

 はい、本題へ戻ります。



 史跡の案内板がありますよ。





 ホテルを出て10分ほどで、石川池にたどり着きました。

 池の堤防に登ります。



 空の雲が池の水面に映っていますよ。



 池の向こうのあの小山が孝元天皇の墓でしょうか。



 大きな前方後円墳が森の中に眠っているように見えますね。



 大きな石灯篭があります。



 では、古墳の入口へ行ってみましょう。



 当然ながら宮内庁が管理する「陵墓」です。



 丘の上に続く小路を100mくらい登っていくと拝所がありました。



 さきほど池の向こうから見たときは森の中に大きな前方後円墳が佇んでいるように思えましたが、実は孝元天皇陵は中山古墳群という28mの小さな前方後円墳と円墳2基がこの丘の上に並んでいる場所を指します。

 陵墓ということもあり詳しいことは分かりませんが、時代的には古墳時代の前半ということはあり得ないので、仮に孝元天皇が実在の人物だとしても時代はまったく合いませんね。

 孝元天皇などのいわゆる「欠史八代」に関しては別のページで考察しています。

 それでは次は、植山古墳を見てみましょう。

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