日本史大戦略 ~日本各地の古代・中世史探訪~

列島各地の遺跡に突如出現する「現地講師」稲用章のブログです。

荏原台古墳群探訪【東京都大田区・世田谷区の古墳】(下)

2012-10-28 15:19:08 | 歴史探訪
 前回の記事はこちら

 多摩川台公園の古墳群を見た後は、田園調布の住宅街を北西方向に進みます。

 歩いていると、ここの住宅街からはとても富裕な雰囲気を感じることができます。

 そんな住宅街をカメラをぶら下げて歩いている私は、かなりの確度で不審者です。

 さてそういうわけで、田園調布の住宅街のなかの古墳を探してみようと思い、まずは観音塚古墳があったところに行ってみました。

 しかしそこは完全なる住宅街。

 次に、浅間様古墳です。

 ここも完全なる住宅街。

 そして、古墳ではないですが、上沼部貝塚の跡。

 やはりここも住宅街。

 形跡はまったくないです。

 喉が渇いていますが、この住宅街には自販機が一台もありません!

 しかもコンビニもありません!

 あー、ジュース飲みたい。

 やがて、大田区田園調布5丁目から世田谷区尾山台1丁目に入りました。

 大田区の探訪は以上になります。

 世田谷区に入った一発目は、宇佐神社にある八幡塚古墳を目指します。

 前方に鎮守の杜らしき緑が見え、近づくと宇佐神社でした。



 さっそく社地に入ります。

 社殿の裏が八幡塚古墳です。



 八幡塚古墳は直径約30メートル、高さ約4.5メートルの円墳です。

 築造時期は5世紀中頃と考えられています。

 さて、喉の渇きがかなり増してきましたが、相変わらず自販機もコンビニもありません。

 喉の渇きだけでなく、身体の方も段々疲労してきました。

 少し歩いて坂道を登っていくと、これも住宅街の中にこんもりと木々が茂っています。



 狐塚古墳です。

 狐塚古墳は、尾山台クラブ広場になっています。



 看板の横の急な階段を上がっていくと、頂部に着きました。



 狐塚古墳は直径約40メートル、高さ約6メートルの円墳で、5世紀後半の築造と考えられています。

 左脚のふくらはぎがつりそうになってきたので、少し休憩しようかと思いましたが、短気なので休憩せずに、次に行こうと思います。

 少し歩いて、坂を下り、多摩川の支流丸子川から北方に延びる支谷(現在は道路)に降りると、今度は上り階段になっている!

 階段を登るのはつらいですが、何とか登り切り、少し歩くと、次に御岳山古墳がありました。

 しかし!

 中には入れないようになっています。



 御岳山古墳は直径約57メートルの帆立貝型前方後円墳とする説が有力です。

 帆立貝型前方後円墳というのはこのあと訪れる野毛大塚古墳と同じ形です。

 御岳山古墳は、東側をさきほどの支谷に、西側を等々力渓谷の谷沢川に挟まれた、多摩川方面に向かって北から南に延びる舌状台地の先端にあります。

 当時は南の多摩川方面の眺望がすこぶる良かったものと想像できます。

 御岳山古墳からは、三角板鋲留式の短甲(三角形の鉄板を鋲で綴じ合わせた鎧)と横矧板鋲留式の短甲が一領ずつ出土しており、広瀬和雄氏は「並の古墳ではない。野毛大塚古墳につづいて、5世紀中ごろに多摩川流域を統治した首長の墳墓であることは動かない」としています(『前方後円墳の世界』)。

 さて、喉の渇きが極限に達しました。

 脚も相変わらずつりそうな状態です。

 この先の等々力渓谷には横穴墓(おうけつぼ)があるらしいですが、道路地図を見ると環八通り沿いにセブンイレブンのマークがあります。

 水分補給できる!

 ヘトヘトの体を引きずりながら、ようやくセブンイレブンに到達すると、スポーツドリンクを購入して、一気に飲み干します。

 ひゃあー、生き返ったー。

 一心地ついて、環八通りを西に向かうと玉沢橋のたもとに「都史跡 等々力渓谷三号横穴」と掘られた石碑があります。



 それではイッチョ、渓谷に降りてみますか。

 渓谷に降りると、1号横穴墓と2号横穴墓の跡があり(横穴はふさがっている)、さらに降りると、3号横穴墓がありました。



 中はガラス越しに覗けるようになっていますが、暗くてよく見えません。

 ここの横穴墓は、古墳時代末から奈良時代にかけて作られたそうです。

 さて、疲労はかなり蓄積されてきましたが、頑張って今日最後の野毛大塚古墳に行ってみましょう。

 脚は左足だけでなく、右脚もつりそうになっています。

 両脚をつってしまったら歩けなくなるので、つらないように慎重にゆっくり歩きます。

 なんで数時間歩いただけで脚がつりそうになるかというと、私は普段、スーパーへ買い物に行く程度しか歩いていないからです。

 ようするに日頃の運動不足がこういうときに効いてくるわけです。

 時刻は14時40分。多摩川台公園を出てから1時間歩いています。

 そろそろと玉川野毛町公園に入って公園内を少し歩くと、ありました!

 野毛大塚古墳です。



 野毛大塚古墳は、このように帆立貝型前方後円墳となっています。



 円形部は直径約68メートル、高さ約11メートル、前方部は長さ約15メートル、幅28メートルあり、帆立貝型古墳としては、関東地方では群馬県太田市の女体山古墳につぐ規模を持っています。

 墳頂には上がれるようなっており、そこからの眺めは良いです。



 四基の埋葬施設があり、色を変えて表示してあります。



 埋葬施設の第一主体部は、長さ8.2メートルの割竹形木棺を包む粘土槨で、三角板革綴衝角付冑と長方板革綴短甲・頸甲・肩甲がセットで出土し、たいへん貴重なものとなっています(それが現在どこで見れるかは分かりません。展示はしていないかもしれません)。

 次に墳頂から降りて、古墳全体を見渡せる位置に移動してみましょう。



 野毛大塚古墳は、三段築成となっています。



 なかなか良い眺めです。



 墳丘の周りには、周溝がめぐっています。



 造出部分があるのも特徴の一つです。



 野毛大塚古墳の築造時期は、5世紀前葉で、今日見てきた、宝莱山古墳、亀甲山古墳に続いて築造されたと考えられています。



 通常の前方後円墳でなく、帆立貝型前方後円墳になっている理由は、中央の大和政権によって規制がかかったためかもしれません。

 野毛大塚古墳の被葬者である南武蔵の王は、群馬の上毛野(かみつけの)政権と大和政権の両方の影響を受けていると考えられています。

 野毛大塚古墳が築造された5世紀前葉は、上毛野政権がまだ独立心を持っていたころなので、関東で勢力を伸張しようとする上毛野政権と中央で列島統一を目論む大和政権との勢力争いのなかで、野毛大塚古墳の被葬者である当地の王は、生き残りをかけて去就を選択しなければいけない状況にあったと考えられます。

 さて、以上で本日の荏原台古墳群探訪を終わりにします。

 4世紀から5世紀にかけての南武蔵の王の墓や、その後の当地の支配者の墓を見てきたわけですが、当時の大和政権や上毛野政権と絡めた群雄割拠図を想像すると非常にエキサイティングです。

 野毛大塚古墳の築造後、南武蔵の勢力がどうなったかですが、『日本書紀』には、安閑元年(534)、武蔵国造(くにのみやつこ)の笠原直使主(かさはらのあたいおみ)とその同族の小杵(おき)が国造の地位を争って長年決着せず、小杵は上野(群馬県)の上毛野君小熊(かみつけののきみおくま)に助力を求め、一方の使主は中央に直訴し、結果的に小杵は誅され、国造の地位は使主のものとなったと記されています。

 そして使主は国造の地位を確定できたのと引き換えに、自分の領内に屯倉(みやけ。大和朝廷の直轄地)を4ヶ所設置させられることになりました。

 国造というのは大和朝廷支配下の地方の長官で、地元の有力者が任命されました。

 一説には、使主は北武蔵の、小杵は南武蔵、つまり今日探訪した地域の支配者であったといわれていますが、それに反論する説もあるようです。

 4~6世紀の南武蔵の歴史を考えると非常に面白い物があるので、今度きちんと考察してみたいと思います。

 そういうわけで、今日はこれでおしまいです。

艦隊これくしょん

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