日本史大戦略 ~日本各地の古代・中世史探訪~

列島各地の遺跡に突如出現する「現地講師」稲用章のブログです。

古宮遺跡(伝推古天皇小墾田宮跡)|奈良県明日香村 ~蘇我氏の庭園跡か~

2020-08-09 10:55:48 | 歴史探訪
 *** 本ページの目次 *** 

1.基本情報
2.諸元
3.探訪レポート
4.補足
5.参考資料

 

1.基本情報                           


所在地


奈良県高市郡明日香村大字豊浦



 

2.諸元                             



 

3.探訪レポート                         


2019年3月8日(金)


 毎度のことですが、出発前にあまり準備ができなくて、いつも歩く前に用意している「マピオン」の「超印刷」機能を使った地図は、プリントだけしておいて貼り合わす時間がなかったため、出発前にホテルの部屋で作成することにします。

 耳の部分を切って糊で付けるので、糊とカッターとカッター台まで持ってきて余計に荷物が多くなりました。



 はい、完成!



 ここにさらに情報を書き込んでいくのです。

 さて、準備ができたので朝ご飯を食べにいこうかな。

 東横INNの朝ご飯はお店によって内容が違って、今朝の新大宮店では黒米のご飯が出ました。



 昼ご飯を食べる時間がないかもしれないので、ご飯は3膳食べておきます。

 以前、個人的に飛鳥へ行ったときは雷電號でめぐったのですが、あそこは車は不向きですね。

 今日は歩きますよ。

 新大宮駅から近鉄奈良線に乗り、次の駅の大和西大寺駅で近鉄橿原線に乗り換えです。

 電車が来るまでの間、近鉄を撮ろうっと。















 橿原線に乗り、橿原神宮前駅に到着。

 東口に出ます。



 それでは、ここを起点に歩き始めますよ。

 今日はスロースタートで開始時刻は10時になってしまいました。

 歩きだしてすぐ、「丈六」交差点に出ます。

 昨年(2018年)の9月22日から23日に、クラツーにて奈良のツアーを案内したのですが、そのときは2日目の早朝、一人でここを起点とした歴史探訪をしました。

 ⇒そのときの探訪の様子はこちら

 「丈六」交差点の南北の道は、古代の下ツ道ですよ(※下の写真は北方向を向いています)。



 ここから北へ一直線に行くと、平城宮の大極殿のど真ん中にぶち当たります。

 平城京はそれ以前の飛鳥時代の道を基準にして造られているのです。

 そしてこの辺りは、古代においては軽衢(かるのちまた)と呼ばれる交通の要衝で、軽市という市場があったといわれています。

リアル日本書紀!

 『日本書紀』の推古20年2月20日条によると、すでに亡くなり埋葬されていた堅塩媛(きたしひめ=欽明天皇の皇后)を檜隈大陵(ひのくまのおおみささぎ)に改葬し、軽衢において誄(しのびごと)が行われました。

 なお、『新装版 日本古典文学大系 日本書紀(下)』(以降、「文学大系本」と称す)の注によると、軽衢の「衢」は、日本書紀の岩本、宮本ともに「術」に作り、それを「ミチ」と訓じ、「術」は邑中の道路のことをいうそうです。


 昨年も歩いた道を東へ向かいます。



 あの日は剣池のところを右折しましたが、今日は直進してひたすら東へ向かって歩きますよ。

 剣池。



 一般的な地図には石川池と記載されています。

 説明板があるので読んでみましょう。



 こういうふうに、説明板の前にフェンスが有ったりすると読みづらいし、写真を撮って後で見ても字が隠れていたりするので嫌ですね。

リアル日本書紀!

 説明板に書かれている通り、応神天皇11年10月条に、剣池・軽池・鹿垣池・厩坂池を作るとあります。

 剣池はこの池のことだろうと言われていますが、それ以外の3つに関しては定まった説はないようです。

 また、皇極3年(644)6月6日条に、剣池の蓮の中に、一つの茎から二つの萼(はなぶさ)が生えているものがあり、豊浦大臣(蘇我蝦夷)は、「是、蘇我臣の栄えむとする瑞なり」と言い、金泥で経を写し大法興寺の丈六の仏に奉ったとあります。

 翌年には有名な乙巳の変で蝦夷は息子の入鹿とともに滅びますが、このときの蝦夷は自身がそんな結末を迎えるとは思ってもみなかったでしょう。

 ただし、これは想像なんですが、蝦夷は息子の入鹿のやり方を危ぶんでいる様子があるので、親としての直感として、良くないことが起きるんじゃないかと感じていたかもしれません。

 それと、この日は訪れていませんが、剣池の南西側にある浄土宗本明寺は、「文学大系本」の注によると、敏達13年是歳条に見える蘇我馬子の「石川宅(いしかわのいえ)」があった場所との説がああります。

 つまり、すでにこの辺は蘇我氏のコアゾーンなわけですね。


 あ、ダスキンさん!



 お仕事お疲れ様です!

 ターミ(害虫獣駆除部隊)のようです。

 左手(北側)の宅地が更地になっており、向こうを望むと地形が落ちていますね。



 この場所は、わずかながら高い場所のようです。

 「橿原和田」バス停のうしろにお堂があります。



 奈良県知事選が邪魔してる!

リアル日本書紀!

 帰宅後に知ったのですが、このバス停の脇の道を北へ2分くらい歩くと、和田廃寺跡とされている場所に着き、田んぼの中に塔の基壇の一部が残っているようです。

 敏達天皇14年(585)2月15日条によると、蘇我馬子が塔を大野丘の北に建て、入手していた舎利を塔の柱頭(塔心礎か)におさめたとあります。

 従来は、和田廃寺跡の基壇がその塔跡で、大野丘というのはこの辺の微高地であるという説が唱えられてきましたが、『蘇我氏を掘る』によると、発掘調査の結果、その基壇は7世紀後半に作られたことが分かり、馬子が建てた塔とは時代が合わず、葛木寺跡とみる説が有力となりました。

 そうすると、馬子が建立した塔はどこにあったのでしょうね?

 ちなみに、このように仏の道に邁進した馬子でしたが、塔建立と同じ月の24日に病になってしまい、さらにちょうどこのタイミングで国に疫病が起こってしまったことにより法難に見舞われます。


 おや、何かのツアーでしょうか、団体さんが私と同じ方向へ向かって歩いていくのが見えますよ。



 橿原市から明日香村に入りますよ。



 はい、まずは最初の目的地である、小墾田宮(おはりだのみや)跡といわれている古宮遺跡に来ました。

 周囲の風景を見てみましょう。

 振り返ると遠くに畝山が見えます。



 北側。



 遠くの方に綺麗な三角形の耳成山が見えていますね。

 北東側。



 塚のようなものがありますが、あれが古宮土壇と呼ばれているものでしょう。



 説明板とかないかな?

 ありました!





 説明板によると、以前はここが推古天皇の小墾田宮の候補地だったのが、雷丘東方遺跡が小墾田宮跡と考えられるようになったため、ここは蘇我氏に関する庭園の跡と言われるようになったとあります。

 この駐車場からは7世紀前半、同後半、そして8世紀の遺跡が出ているんですね。



 7世紀前半の遺構が最も古いとすると、時代的には稲目の子の馬子の関連遺跡かもしれません。

 『蘇我氏を掘る』によると、寺院の遺構はないものの豊浦寺と同形式の軒丸瓦や小型鴟尾(しび=屋根頂部の両端につける飾り)の破片が出土しているので、比較的小規模な仏堂が建てられていた可能性があるそうです。



 なお、『日本書紀』には、蘇我氏四代の初代・稲目の邸宅が小墾田にあったと記されており、ここには稲目関連の施設があったのかもしれません。

 観光案内板があります。



 本日めぐる予定のエリア。



 古宮遺跡のバックには生駒山が見えます。



 ※帰宅後に知りましたが、古宮土壇は発掘調査の結果、中世の塚であることが判明したそうです。

 南東に低い丘が見えますが、あそこが甘樫丘(あまかしのおか)です。



 つづいて、豊浦(とゆら)寺跡の向原寺へ向かいますよ。

 ⇒この続きはこちら

 

4.補足                             



 

5.参考資料                           


・『新装版 日本古典文学大系 日本書紀(上)』 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋/校注 1993年
・『新装版 日本古典文学大系 日本書紀(下)』 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋/校注 1993年
・『蘇我氏を掘る』 橿原考古学研究所附属博物館/編 2016年


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