日本史大戦略 ~日本各地の古代・中世史探訪~

列島各地の遺跡に突如出現する「現地講師」稲用章のブログです。

安部山1号墳および牧野古墳|奈良県北葛城郡広陵町 ~押坂彦人大兄皇子の墓との説もある17mもの長大な石室を備えた大型円墳~

2021-06-08 11:27:39 | 歴史探訪
 

3.探訪レポート                         


2020年9月5日(土)



この日の探訪箇所
狐井稲荷山古墳 → 狐井城山古墳 → 領家山古墳群 → 築山古墳 → かん山古墳 → 新山古墳 → 安部山1号墳 → 牧野古墳 → 佐味田宝塚古墳 → 三吉2号墳 → 巣山古墳 → 狐塚古墳 → 倉塚古墳 → 一本松古墳 → ナガレ山古墳 → 乙女山古墳 → 池上古墳
 ⇒前回の記事はこちら

 美味しい酢豚を食べて元気を取り戻し、午後の探訪を開始します。

 次は、見事な横穴式石室を備えた牧野(ぼくや)古墳を目指しますよ。

 牧野って書いて「ぼくや」と音すると、中国で紀元前11世紀に殷の紂王と周の武王が戦った「牧野の戦い」を想起する方も多いと思います。

 その戦いで殷が滅びて周が中国大陸を代表する王朝になったんですね。

 殷の紂王は「酒池肉林」を催したことで有名な暴君ですが、日本書紀の武烈天皇の記述のモデルにもなったんじゃないかと思っています。

 ※後日註:帰宅後に知りましたが、ランチを食べた中華屋さんのすぐ北側には、式内論社の於(うえの)神社があり、その南には以前は墳丘長37mの帆立貝形古墳である於古墳があったそうです。

 西へ向かって歩いていくと、右手に公園が現れました。



 西谷公園。

 この辺りはいわゆるニュータウンで、丘を削って住宅地にしていますが、地図を見てみると公園も結構多いようです。



 なんか古墳が残っていそうな雰囲気がしますよ。

 公園の中を散策してみましょう。

 この地膨れは古墳かなあ?



 公園の北側にある駐車場からの景観。



 公園の中央に大きめの丘があり、こちらは古墳のような佇まいを感じさせます。



 でも説明板とかはないので分からないですね。

 職業柄、公園に来たら必ず確認。



 職業柄というのは、掃除ではなくナビゲーターの方ですよ。

 うーん、怪しい公園でしたが先へ行きましょう。

 ※後日註:帰宅後に『広陵町遺跡分布調査概報』(広陵町教育委員会/編・1989年)で調べてみたところ、公園中央の丘はやはり安部山1号墳という墳丘長42mの後期後半の前方後円墳で、上の写真の向かって左側(東側)が後円部です。さらにその周辺には安部山2号墳から7号墳までの6基の小規模な円墳があることから、上の写真の円墳らしきものは、その中の1基かもしれませんがご存じの方がいらっしゃったら教えてください。

 前方に古墳の森らしきものが見えてきました。





 いったん少し広い道路に出ます。



 またも公園が現れました。



 公園の名前を示すようなものは見当たりません。

 念のため公園内を歩いてみます。

 旧地名を示す標柱。



 どこもそうですが、ニュータウンとして造成されると地名もハイカラな名前に変わってしまいます。

 とても残念なことなのですが、こうやって旧地名が分かるように表示してあるというのはとても良いですね。

 ここの大字は「三吉(みつよし)」ですが、馬見丘陵公園の南側南端部分と同じ字名で、ここと公園南側入口は直線距離で2㎞ありますから、三吉の範囲は結構広いかもしれません。

 この公園内にも地膨れがあります。



 でもここの場合は、土塁状になっているのもありますね。



 単に公園にしたときに削り残してデザインの一部にしているだけかもしれませんが気になります。



 ここにも旧地名表示が。



 大垣内という字名は気になりますね。

 先ほど見た通り、土塁状の物もありますから、そういったものが昔からあって地元の人が「大垣」と呼んでいた可能性は無いでしょうか。

 と、まったくのよそ者が適当なことを考えています。

 さらに15分ほど歩き、ようやく牧野古墳がある公園に到着しました。



 牧野史跡公園という名前になっていますね。



 公園の説明板は少し滅亡しかかっています。



 これが牧野古墳の墳丘ですね。



 牧野古墳の説明板がありました!



 ちゃんと石室の画も書いてあっていいですね。

 ここに書いてある通り、牧野古墳は径55mの大型の円墳です。

 時代的にはもう終末期になりますから、その時期までこの周辺が葛城氏の墓域として使われていたら、この古墳の被葬者は間違いなくその時点での葛城氏の最有力者です。

 ただし、この古墳の被葬者は押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)ではないかという説が結構強いんですね。

 押坂彦人大兄皇子は、第30代敏達天皇の第一皇子で、母は息長真手王の娘・広姫ということで、蘇我氏全盛の6世紀末において、蘇我氏と血縁関係ない王族として独特な地位にいたと考えられます。

 蘇我馬子や厩戸皇子(いわゆる聖徳太子)と同時期の人で、蘇我系ではないためか歴史の表面にあまり出てこないのが残念です。

 石室が開口していますよ。



 残念ながら石室内には入れません。

 カメラを突っ込んで撮影してみます。



 説明板の図に書かれている石棺らしきものが遠くにあります。

 おっと敵機襲来!

 かなりの数の藪蚊が襲ってきました。

 写真撮影中は応戦できない!



 多少の被弾は覚悟で写真を撮る!

 全長17mもある横穴式石室ということで、玄室まではなかなか見通せないです。



 花崗岩でできた石室なので、花崗岩独特な模様がありますね。

 馬見古墳群は横穴式石室が見られる古墳がほとんどないため、油断して懐中電灯を持ってきませんでした。

 では、周辺、というか古墳の上の丘を歩いてみます。



 牧野古墳は山寄形なので、背後に丘が続いています。

 背後の丘も前方後円墳に見えてしまいますねえ。





 西側かな?眺望がきいています。









 こちらは草茫々であまり近所の人たちも来ないエリアなのかもしれません。



 では、ここからは東にある馬見丘陵公園へ向かいますが、その途中で佐味田宝塚古墳を見ておきたい。

 ⇒この続きはこちら


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