⇒前回の記事はこちら
つづいて、おくま山古墳へ向かいます。
おくま山古墳は、さきほど国道沿いに看板があったのを見かけています。
地図を頼りに行ってみると、立派な墳丘がありました。
近くに車を停めて見に行きます。
横っ腹。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/02/feb530bab181b413a239bd73acbde772.jpg)
帆立貝型古墳だったと思っていたのですが、前方後円墳に近い形状です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/69/1998a8e65f72326cc4315f2231faca7c.jpg)
ここは説明板がありますね。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/48/5dab895dc503f9adad9407fc13b46610.jpg)
しかし、光が反射して読みづらい。
若干滅亡しかかっています。
説明板には62mの前方後円墳とありますね。
築造時期は榛名二ツ岳の火山灰の堆積具合からして、6世紀初めにはすでにあったということですが、後期古墳でしたらこのように前方部が低い前方後円墳は普通はあり得ません。
中期で前方部が低いといったら帆立貝型ですが、帆立貝型古墳と呼ぶには前方部が長すぎるし・・・
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/53/55/c3335070dd11a1bba4e68b952444d082.jpg)
というか、この墳丘図を見ると、前方部と後円部の比率やバチ型に開いた前方部、それに周溝の形状が前期の纏向型前方後円墳を彷彿とさせます。
ようこそ・・・
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/79/4d/48934f87422f2232a92aab5977ad4e51.jpg)
お出迎えしてくれたこの方々を見れば、築造時期は推定できるんじゃないでしょうか。
5世紀末であれば、まだ前方部が若干低い前方後円墳も造られたので、8期かなあ?
いや、もともとは前期の纏向型前方後円墳で、それを中期末に再利用して盾持ち埴輪を並べた「リサイクル墳」かも?
比企地方は県内最古級の古墳が集まっている地域なので、千葉県市原市の神門5号墳のような纏向型前方後円墳があっても良いんじゃないの?
ともかく、墳丘へ登ってみますよ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/00/68bde7a324f34dcf8f62352e587f406d.jpg)
ここも神社になっています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/19/1d/a111d2727441ea99d556768bf68dfe87.jpg)
社殿。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/74/eb083daafd746f9f0b85d08d23f6ae45.jpg)
墳頂からの眺め。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/92/86904a8d516041129d6e574e2ebb2df1.jpg)
あれも古墳かしら?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/7c/866a3e34fb4ede42a7690d1ffc46edf1.jpg)
おくま山古墳、なかなか良い古墳でしたね。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/81/414542a91ec17de31f7fbefa939a3860.jpg)
しかし本当に謎ティックな古墳です。
では、次に行きましょう。
⇒この続きはこちら
つづいて、おくま山古墳へ向かいます。
おくま山古墳は、さきほど国道沿いに看板があったのを見かけています。
地図を頼りに行ってみると、立派な墳丘がありました。
近くに車を停めて見に行きます。
横っ腹。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/02/feb530bab181b413a239bd73acbde772.jpg)
帆立貝型古墳だったと思っていたのですが、前方後円墳に近い形状です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/69/1998a8e65f72326cc4315f2231faca7c.jpg)
ここは説明板がありますね。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/48/5dab895dc503f9adad9407fc13b46610.jpg)
しかし、光が反射して読みづらい。
若干滅亡しかかっています。
説明板には62mの前方後円墳とありますね。
築造時期は榛名二ツ岳の火山灰の堆積具合からして、6世紀初めにはすでにあったということですが、後期古墳でしたらこのように前方部が低い前方後円墳は普通はあり得ません。
中期で前方部が低いといったら帆立貝型ですが、帆立貝型古墳と呼ぶには前方部が長すぎるし・・・
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/53/55/c3335070dd11a1bba4e68b952444d082.jpg)
というか、この墳丘図を見ると、前方部と後円部の比率やバチ型に開いた前方部、それに周溝の形状が前期の纏向型前方後円墳を彷彿とさせます。
ようこそ・・・
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/79/4d/48934f87422f2232a92aab5977ad4e51.jpg)
お出迎えしてくれたこの方々を見れば、築造時期は推定できるんじゃないでしょうか。
5世紀末であれば、まだ前方部が若干低い前方後円墳も造られたので、8期かなあ?
いや、もともとは前期の纏向型前方後円墳で、それを中期末に再利用して盾持ち埴輪を並べた「リサイクル墳」かも?
比企地方は県内最古級の古墳が集まっている地域なので、千葉県市原市の神門5号墳のような纏向型前方後円墳があっても良いんじゃないの?
ともかく、墳丘へ登ってみますよ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/00/68bde7a324f34dcf8f62352e587f406d.jpg)
ここも神社になっています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/19/1d/a111d2727441ea99d556768bf68dfe87.jpg)
社殿。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/74/eb083daafd746f9f0b85d08d23f6ae45.jpg)
墳頂からの眺め。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/92/86904a8d516041129d6e574e2ebb2df1.jpg)
あれも古墳かしら?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/7c/866a3e34fb4ede42a7690d1ffc46edf1.jpg)
おくま山古墳、なかなか良い古墳でしたね。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/81/414542a91ec17de31f7fbefa939a3860.jpg)
しかし本当に謎ティックな古墳です。
では、次に行きましょう。
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造り出しって円墳にあるんですね!
前方後円墳ではそれがあるかないかでそもそものお墓の作る動機と文化継承があるのかなど考えていました。
なので前方後円墳にそれが継承されているならばそれよりも早く作られそうな円墳にもあってもおかしくないって思ってましたので。儀式なり慰霊をする場所が必要だと思うしそれがあるなら造営の動機もやはり素敵ですよね。単純に真似とか規模のアピールだったらそこまでコストや労力かけないだろうと思うのが今現在でも同じように思う事ですから。
それからもう一つ興味あるのが方墳と円墳のミックスですよね。方墳の段上に数段積み重ねているものはもちろん技術が必要ですし、逆に円墳だってその形を作る上での技術が必要です。
であるならそれが両方なら両方得意な人が共通か?もしくはそれぞれが同じお墓に関わったか?ですからどちらにしても進化というか新しく局面なはずです。
興味ありますね。こんなに近場に色々あるなんてびっくりですよね。
大神神社の割と近くに茅原大墓古墳があるみたいです。箸墓も近いんで卑弥呼も関係してくるとみんな興味持ってくれるでしょうね。垂仁さんまさに関係してくるエリアですよね。
それから田原本町でもやはり出てますね。発想としても大事な方の殉死を避け埴輪でも守る精神性も本来の墓の意味ありそうです。
でそんな埴輪が埼玉にも出ているんですよ。
垂仁さんの周りには結構関東で神になっている方も多いですよね。
桜井と田原本町とそして埼玉と交流するなら中継地に愛知県がありそして東海神奈川で武蔵、歴史の各地の遺物は見えてこない繋がり埋めてくれるといいですね。
で遺物があるなら人や民族の交流もあったはず。
奈良の中でもちょっと特殊で見えずらい地域も研究されてますよ。持っている地域は持っている、住んでいたり近くにいると見えにくいんですね〜。
そうそう、盾持ち人物埴輪から円筒埴輪になっていくのかな?そうなるとヒレ付き円筒埴輪も少ないので盾持ち知っている民族が関わっていそうにも思うんで大阪岡山あたりにも繋がるかしら?何しろ一個粘土で作りそれを焼いて重ねたりくっ付けたりと手間がかかる物を大きく作る意味って純粋に信仰なり尊敬なり強制では続かないだろうとは思いますよね。今の世じゃあ出来ない事した古代人本当凄いですよ。