日本史大戦略 ~日本各地の古代・中世史探訪~

列島各地の遺跡に突如出現する「現地講師」稲用章のブログです。

見瀬丸山古墳|奈良県橿原市 ~日本一の長さの横穴式石室を内蔵する奈良県一位の墳丘規模の前方後円墳~ 【独りオプションツアー ③】

2018-09-24 16:02:11 | 歴史探訪
 ⇒前回の記事はこちらです

 歩きだしてから50分ほど経過しました。

 太陽も昇り、今日は一日とても良い天気になりそうですよ。

 それではいよいよ、本オプションツアーで最も楽しみにしている見瀬丸山古墳へ向かいます。

 植山古墳と同じ丘の上に建つ春日神社。



 神社も寄りたいですが、今日は割愛です。

 おー、なんとも風情のある路地ですね。



 細い路地の両側のお宅は軒並み立派な門構えです。

 こういう路地こそ不審者と間違えられる可能性が高いので、入念に「挨拶作戦」を実行しながら歩きます。

 しまった!

 先に挨拶されてしまった!

 警戒されているな・・・

 したがって、とても良い路地なのですが、写真は撮れません。

 小路を抜け低地に出ました。

 ここにも神社。



 へー、「八咫烏(やたがらす)大明神」ですか!



 他では見たことがありませんが、こちらでは普通なのでしょうか。

 別にサッカー日本代表チームの神様ではありませんよ。

 さて、いよいよ見瀬丸山古墳に近接します。



 後円部からのアプローチです。

 周溝も広い・・・



 楽しくて笑いが止まりません。

 墳丘の上の方に説明板が立っているのが見えるので、まずはあれを目指しましょう。

 どこから登るのかな?

 藪化していて道がないなあ・・・

 仕方ない、藪漕ぎします。

 ところが、まだ早朝ということもあって、先ほどの植山古墳と同じで、草は濡れており、少し歩いただけでズボンの膝から下がビショビショになってしまいました。

 靴はトレッキングシューズなので大丈夫そうですが、何しろこのあとお仕事がありますので、これ以上みっともない格好になるのはまずいです。

 慎重に歩く箇所を選んで、最小限の被害で説明板の前にたどり着きました。



 しかし説明板はボロけている・・・



 ここに書いてある通り、全長310mの前方後円墳で、奈良県で最も大きく、全国でも6位の古墳ですよ!

 巨大古墳や超巨大古墳の墳丘に登れることは珍しく、私が墳丘に登った古墳では多分最も大きい古墳になると思います。

 この時代、大きいことは権力の証ですよ。

 ちなみに古墳の大きさベスト10を示すと以下のようになります(出典:堺市のHP)。

 1位 ・・・ 仁徳天皇陵古墳(大山古墳) 486m(ただし、最近の調査で500mを越えることが判明) 大阪府堺市堺区大仙町

 2位 ・・・ 応神天皇陵古墳(誉田御廟山古墳) 425m 大阪府羽曳野市誉田

 3位 ・・・ 履中天皇陵古墳(石津ヶ丘古墳) 365m 大阪府堺市西区石津ヶ丘

 4位 ・・・ 造山古墳 350m 岡山県岡山市新庄下

 5位 ・・・ 河内大塚山古墳 335m 大阪府羽曳野市南恵我之荘・松原市西大塚

 6位 ・・・ 五条野(見瀬)丸山古墳 310m 奈良県橿原市見瀬町・五条野町

 7位 ・・・ ニサンザイ古墳 300m以上 大阪府堺市北区百舌鳥西之町

 8位 ・・・ 渋谷向山古墳(景行陵) 300m 奈良県天理市渋谷町

 9位 ・・・ 仲姫命陵古墳(仲津山古墳) 290m 大阪府藤井寺市沢田

 10位 ・・・ 作山古墳 286m 岡山県総社市三須

 ※280mの箸墓古墳は11位

 大阪府の古墳が多いですが、ヤマト王権が大阪平野に墓域を営んでいたころが、全国的に見ても「巨大全後円墳の時代」と言えます。

 なお、東日本で最大の太田天神山古墳は210mで、上述の堺市のHPでは28位としています。



 ここは陵墓参考地。



 後円部の中心に立ち入ることはできません。



 景色もいいですね。



 前方部も見てみたいので、墳丘から降りずにこのまま前方部へ向かいます。



 この高さの部分は最近下草刈りをしてくださったようで歩きやすいです。



 ただ、前方部の墳頂方面は草ぼうぼうで、これ以上は濡れたくないので今日は諦めます。

 周溝跡を見おろします。



 では、下に降りましょうか。

 墳丘から周溝跡へ降りるとかなりぬかるんでいます。

 ここにも説明板が。



 陵墓参考地としては、天武天皇とその妻の持統天皇ということになっていますが、説明板に書いてある通り、近年では欽明天皇か蘇我稲目ではないかといわれています。

 稲目の墓だったらいいな。

 蘇我氏の墓が日本で6番目の規模だったら気持ち良いじゃないですか!

 一方で、欽明天皇の墓の可能性を探るとこうなります。

 欽明の妃・堅塩媛(きたしひめ)を檜隈大陵(ひのくまのおおみささぎ)に改葬した際、本日の最初に訪れたホテル近くの「丈六」交差点(「軽の巷」)にて、堅塩媛に対する誄(しのびごと)が奏上されたということはすでにお伝えしました。

 「軽の巷」で誄が奏上された場合、どの古墳に向けての儀式かというと、やはり、この見瀬丸山古墳と考えるのが素直だと思います。

 そうなると、「檜隈大陵イコール見瀬丸山古墳」となり、堅塩媛の夫は欽明天皇ですから、夫の葬られていた「檜隈大陵イコール見瀬丸山古墳」に堅塩媛は改葬され合葬墓となったと考えられるわけです。

 普通考えると、檜隈大陵という名前の墓は檜隈という土地にあったはずなのですが、檜隈は現在の明日香村なので、軽からはちょっと距離があります。



 墳丘の大きさもさることながら、発見された横穴式石室の全長は28.4mで、現在判明している石室の中では日本一の長さを誇っています。

 この古墳の石室が発見された経緯が面白くて、1991年に豪雨によって石室が開口していたのを近所の少年が見つけ、それをお父さんに話したところ、お父さんがはりきってカメラをもって出勤前に訪れ、中に入って写真を撮影し、それを報道機関に送ったことにより発覚したのです。

 今はもちろん、石室には入れなくなっています。



 道路へ脱出しようと思って周溝跡を歩いていると、ついに靴の中も湿ってきました。

 しかも異様に地面がヌルヌルして気持ち悪い。

 何とか舗装されたアスファルトの道路に脱出しました。

 やれやれ、という感じですが、以前から見たかった見瀬丸山古墳に登ることができて嬉しいです。

 さて、ここまでで古墳を3つ見ましたが、最後にもう一か所寄ります。

 先ほどは孝元天皇のお墓を見ましたが、今度はその宮殿の跡を訪れてみます。

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