前編はこちらです。
志村城跡を見た後、都営三田線の志村三丁目駅まで戻り、電車に乗って西高島平駅に移動します。
西高島平駅に着いたのは12時の少し前だったので駅前でランチにしようと思いましたが、見たところ店が全然なく、ラーメン屋が一軒あるだけでした。
とりあえず飯は後にして、赤塚城跡を見よう。
駅の西側の高速5号池袋線を横切る大きな歩道橋を渡り、高速の脇の道を南に向かって歩きます。
食べ物屋さんはないです。
10分少し歩くと、公園がありました。
ここの公園内には、赤塚城跡があり、郷土資料館と美術館があります。
まずは美術館前のバス停に行って、成増駅行きのバスの時間をチェックします。日中は1時間に2本です。
美術館の裏手は台地になっており、その台地上に赤塚城跡があります。

台地下から城跡に上る階段があったので登ってみますが、雪がまだ残っており、滑って危険です。
ようやく上まで登ると、そこには台地の先端部分の主郭(近世城郭でいうところの本丸)が展開しました。

実は赤塚城跡には10年くらい前に訪ねたことがあって、今日は二度目の探訪になります。
15世紀の中ごろ、下総の広範囲を統治していた千葉実胤・自胤兄弟は、内紛によって一族の馬加(まくわり)氏にその座を追われ、扇谷上杉氏の家宰・太田道灌を頼って武蔵に逃れてきました。
兄の実胤は石浜城に拠り、弟の自胤は赤塚城に拠って下総奪還を目論みますが、その一方で太田道灌の有力な武将として活躍します。
文明9年(1477)4月13日、道灌が豊島平右衛門尉泰明が拠る平塚城を攻撃したところ、泰明の兄の勘解由左衛門尉泰経が石神井・練馬両城(練馬区)の兵を率いて、道灌の軍勢を側面から攻撃しました。
道灌はすぐそれに対応し、両軍勢は江古田・沼袋ヶ原(中野区)で戦い、このときここ赤塚城主の千葉自胤が戦っています。
結果は道灌勢の勝利で終わりました。
武蔵千葉氏は弟の自胤が引き継いだのですが、自胤のあとは、盛胤、良胤、惟胤と続き、後北条氏に従って存続します。
天正18年(1590)の後北条氏滅亡の際は、赤塚城には松戸越前守が拠っていましたが、千葉氏の指揮下にありました(以上、『日本城郭大系』)。
さて、小室栄一氏の『中世城郭の研究』(昭和40年刊行)の縄張図(城の平面図)によれば、主郭と二郭の間に空堀が記されていますが、現在はその形跡は残っていません。
現在二郭は梅園になっています。

赤塚城は東側と西側を谷で挟まれており、南側の台地との接続部分には往時は空堀があったと考えられますが、現在はこちらは宅地化されており何も残っていません。
それでは次に、城跡から降りて、板橋区立郷土資料館に行ってみましょう。

こちらは、1階の常設展示は写真撮影がOKだということで、写真を撮らせていただきました(もちろんフラッシュは禁止)。

まずは旧石器時代です。
来る前に調べたところでは、茂呂遺跡の石器が展示してあるということでしたが、入って右手に展示してある何点かの石器が茂呂遺跡のものかどうかは分かりません(この日は考古担当の学芸員の方がお休みということで聴けませんでした)。入って左手には茂呂遺跡の石器の模造品が展示してあり、本物は御茶ノ水の明治大学博物館に展示してあります(ちなみに、明治大学博物館はすごく面白い入館無料の博物館です)。
次に縄文時代です。
板橋区は稲荷台式土器が発掘された場所です。
稲荷台式土器は加賀小学校(旧稲荷台小学校)付近で発掘された、縄文時代早期前半の撚糸文土器群に含まれる土器です。
土器の破片と、土器の完形の模造品が展示してあります。
あと、ここにもありました!
土偶です!

私は土偶が好きなのだ。
この土偶は赤塚城址貝塚から出土した土偶です。
※1月24日追記:本日郷土資料館に電話で聴いてみたところ、こちらの土偶はレプリカであることが分かりました。実物は、立正大学博物館(吉田格コレクション)か江戸東京たてもの園にあるのではないかということです。なお、展示には特にレプリカであることは明記されていません。
板橋区は比較的縄文時代の遺跡が少ないのですが、次の弥生時代になると遺跡の数は都内でもトップクラスを誇るようになります。
板橋区は前野町式土器が発見された場所です。
前野町式土器の複製が展示してあります。
弥生時代というと、コメ作りが北海道と沖縄を除く日本全体に広がった時代と認識している方も多いと思いますが、東京では水田の遺跡が一件もみつかっていないのです。
紀元1世紀ごろには東京地方にも稲作は伝播していたと考えられますが、それにしても水田の跡が見つからないというのは不思議ですね。
しかしそのなかで、石包丁という穂積み具がわずかに都内で3例出土されています。
そしてその貴重な石包丁の一つが板橋区から出ているのです!

さすが、弥生遺跡のメッカ・板橋区ですね。
これは大変貴重なものなので、これを見るだけでも板橋区立郷土資料館を見学する価値があります。
※1月24日追記:こちらもレプリカであることが分かりました。展示にはとくに明記されていません。
さて、次の古墳時代ですが、探訪の後知ったのですが、志村にも古墳群があったそうです。しかし、見つかったのは戦前の話で、それに関連する展示はありません。
前編でも少しお話しましたが、観応元年(1350)10月17日付の「志村親義着到状」というものが展示してあり(ただし複製)、南北朝時代には志村氏が志村の一帯を治めていました。

足利直義と高師直の対立の際、志村親義は師直に属し、信太荘上条攻めに参加しました。
あと、赤塚城跡出土と伝わる刀も展示してあります。

以上の時代以降は、近世・近代の展示と連なっていき、戦前・戦中の展示もあります。
屋外には旧田中家住宅という江戸時代後期の古民家が展示してありますが、今日は雪が屋根に積もって落ちてくるので危険だということで、近づかないように言われました。

納屋の奥に見えるのは赤塚城跡です。

私は資料館や博物館の展示を見るのはもちろん好きなのですが、もうひとつ好きなこととして、そこで売っている図書を購入することが挙げられます。
興味がある本を3冊購入しました。
これを帰ってから読むのがまた楽しいのだ!
さて、時刻は13時過ぎ。
バスの時間が13時22分だったので、板橋区立郷土資料館の見学を終えてバス停に向かいます。
時間になってバスが来たところ、てっきりガラガラだと思っていましたが、結構人が乗っていました。
バスに乗って東武東上線の成増駅に向かいます。
成増に着いて、今日はまだ昼ごはんを食べていないので、何か食べようと思って見渡したところ、日高屋(ラーメン屋)がありました。
お腹が空いていたので、坦々麺(580円)に半ライス(100円)を付けます。
日高屋のラーメンは麺がちょっと難しいのですが、まあ値段が安いので仕方がないですね。
でもスープは美味しかったです。
お腹一杯幸せ気分になったあとは、東武東上線に乗って上板橋駅を目指します。
上板橋駅に到着し、ホームで缶コーヒーを飲みます。
今日初めてのコーヒーを飲んで満足した後は、駅を降りて次なる目的地栗原遺跡を目指します。
南口銀座を抜けて、川越街道を横断し、都立城北中央公園を目指していくと、区境を越えて、練馬区に入りました。
練馬区は昭和22年に板橋区より分離してできました。
ところで、段々風が強くなってきました。
結構寒くなってきましたが、こちらは高尾に比べたらまだ寒くありません。
辛うじて手袋もいらないくらいです(道路地図の本を持ちながら歩いているので手袋をしているとページがめくれない)。
朝から半日歩いているので、足が段々痛くなってきました。
でもまだ歩けます。
都立城北中央公園に入り、公園の中を捜すと、前方に竪穴住居が見えてきました。

ここが栗原遺跡です。

栗原遺跡は複合遺跡で、旧石器時代の石器や縄文時代の土器が見つかり、弥生から平安にかけての竪穴住居が発見されました。
復元された竪穴住居は8世紀初め(奈良時代初め)頃のものだそうです。
奈良時代の初めというと、都がある奈良では華麗な文化が花開いていましたが、目を地方に転ずると、まだこのような竪穴住居に人は住んでいたのですね。
でも竪穴住居は思いのほか、夏は涼しく、冬は暖かいそうですよ。
遺跡の東側には今日何度も登場した石神井川が流れています。

次はいよいよ、東京の旧石器時代遺跡の聖地である茂呂遺跡に行ってみましょう。
⇒茂呂遺跡の探訪レポートはこちらに移動しました。
⇒茂呂遺跡に続いてこの日最後に訪れた根ノ上遺跡の探訪レポートもこちらに移動しました。
志村城跡を見た後、都営三田線の志村三丁目駅まで戻り、電車に乗って西高島平駅に移動します。
西高島平駅に着いたのは12時の少し前だったので駅前でランチにしようと思いましたが、見たところ店が全然なく、ラーメン屋が一軒あるだけでした。
とりあえず飯は後にして、赤塚城跡を見よう。
駅の西側の高速5号池袋線を横切る大きな歩道橋を渡り、高速の脇の道を南に向かって歩きます。
食べ物屋さんはないです。
10分少し歩くと、公園がありました。
ここの公園内には、赤塚城跡があり、郷土資料館と美術館があります。
まずは美術館前のバス停に行って、成増駅行きのバスの時間をチェックします。日中は1時間に2本です。
美術館の裏手は台地になっており、その台地上に赤塚城跡があります。

台地下から城跡に上る階段があったので登ってみますが、雪がまだ残っており、滑って危険です。
ようやく上まで登ると、そこには台地の先端部分の主郭(近世城郭でいうところの本丸)が展開しました。

実は赤塚城跡には10年くらい前に訪ねたことがあって、今日は二度目の探訪になります。
15世紀の中ごろ、下総の広範囲を統治していた千葉実胤・自胤兄弟は、内紛によって一族の馬加(まくわり)氏にその座を追われ、扇谷上杉氏の家宰・太田道灌を頼って武蔵に逃れてきました。
兄の実胤は石浜城に拠り、弟の自胤は赤塚城に拠って下総奪還を目論みますが、その一方で太田道灌の有力な武将として活躍します。
文明9年(1477)4月13日、道灌が豊島平右衛門尉泰明が拠る平塚城を攻撃したところ、泰明の兄の勘解由左衛門尉泰経が石神井・練馬両城(練馬区)の兵を率いて、道灌の軍勢を側面から攻撃しました。
道灌はすぐそれに対応し、両軍勢は江古田・沼袋ヶ原(中野区)で戦い、このときここ赤塚城主の千葉自胤が戦っています。
結果は道灌勢の勝利で終わりました。
武蔵千葉氏は弟の自胤が引き継いだのですが、自胤のあとは、盛胤、良胤、惟胤と続き、後北条氏に従って存続します。
天正18年(1590)の後北条氏滅亡の際は、赤塚城には松戸越前守が拠っていましたが、千葉氏の指揮下にありました(以上、『日本城郭大系』)。
さて、小室栄一氏の『中世城郭の研究』(昭和40年刊行)の縄張図(城の平面図)によれば、主郭と二郭の間に空堀が記されていますが、現在はその形跡は残っていません。
現在二郭は梅園になっています。

赤塚城は東側と西側を谷で挟まれており、南側の台地との接続部分には往時は空堀があったと考えられますが、現在はこちらは宅地化されており何も残っていません。
それでは次に、城跡から降りて、板橋区立郷土資料館に行ってみましょう。

こちらは、1階の常設展示は写真撮影がOKだということで、写真を撮らせていただきました(もちろんフラッシュは禁止)。

まずは旧石器時代です。
来る前に調べたところでは、茂呂遺跡の石器が展示してあるということでしたが、入って右手に展示してある何点かの石器が茂呂遺跡のものかどうかは分かりません(この日は考古担当の学芸員の方がお休みということで聴けませんでした)。入って左手には茂呂遺跡の石器の模造品が展示してあり、本物は御茶ノ水の明治大学博物館に展示してあります(ちなみに、明治大学博物館はすごく面白い入館無料の博物館です)。
次に縄文時代です。
板橋区は稲荷台式土器が発掘された場所です。
稲荷台式土器は加賀小学校(旧稲荷台小学校)付近で発掘された、縄文時代早期前半の撚糸文土器群に含まれる土器です。
土器の破片と、土器の完形の模造品が展示してあります。
あと、ここにもありました!
土偶です!

私は土偶が好きなのだ。
この土偶は赤塚城址貝塚から出土した土偶です。
※1月24日追記:本日郷土資料館に電話で聴いてみたところ、こちらの土偶はレプリカであることが分かりました。実物は、立正大学博物館(吉田格コレクション)か江戸東京たてもの園にあるのではないかということです。なお、展示には特にレプリカであることは明記されていません。
板橋区は比較的縄文時代の遺跡が少ないのですが、次の弥生時代になると遺跡の数は都内でもトップクラスを誇るようになります。
板橋区は前野町式土器が発見された場所です。
前野町式土器の複製が展示してあります。
弥生時代というと、コメ作りが北海道と沖縄を除く日本全体に広がった時代と認識している方も多いと思いますが、東京では水田の遺跡が一件もみつかっていないのです。
紀元1世紀ごろには東京地方にも稲作は伝播していたと考えられますが、それにしても水田の跡が見つからないというのは不思議ですね。
しかしそのなかで、石包丁という穂積み具がわずかに都内で3例出土されています。
そしてその貴重な石包丁の一つが板橋区から出ているのです!

さすが、弥生遺跡のメッカ・板橋区ですね。
これは大変貴重なものなので、これを見るだけでも板橋区立郷土資料館を見学する価値があります。
※1月24日追記:こちらもレプリカであることが分かりました。展示にはとくに明記されていません。
さて、次の古墳時代ですが、探訪の後知ったのですが、志村にも古墳群があったそうです。しかし、見つかったのは戦前の話で、それに関連する展示はありません。
前編でも少しお話しましたが、観応元年(1350)10月17日付の「志村親義着到状」というものが展示してあり(ただし複製)、南北朝時代には志村氏が志村の一帯を治めていました。

足利直義と高師直の対立の際、志村親義は師直に属し、信太荘上条攻めに参加しました。
あと、赤塚城跡出土と伝わる刀も展示してあります。

以上の時代以降は、近世・近代の展示と連なっていき、戦前・戦中の展示もあります。
屋外には旧田中家住宅という江戸時代後期の古民家が展示してありますが、今日は雪が屋根に積もって落ちてくるので危険だということで、近づかないように言われました。

納屋の奥に見えるのは赤塚城跡です。

私は資料館や博物館の展示を見るのはもちろん好きなのですが、もうひとつ好きなこととして、そこで売っている図書を購入することが挙げられます。
興味がある本を3冊購入しました。
これを帰ってから読むのがまた楽しいのだ!
さて、時刻は13時過ぎ。
バスの時間が13時22分だったので、板橋区立郷土資料館の見学を終えてバス停に向かいます。
時間になってバスが来たところ、てっきりガラガラだと思っていましたが、結構人が乗っていました。
バスに乗って東武東上線の成増駅に向かいます。
成増に着いて、今日はまだ昼ごはんを食べていないので、何か食べようと思って見渡したところ、日高屋(ラーメン屋)がありました。
お腹が空いていたので、坦々麺(580円)に半ライス(100円)を付けます。
日高屋のラーメンは麺がちょっと難しいのですが、まあ値段が安いので仕方がないですね。
でもスープは美味しかったです。
お腹一杯幸せ気分になったあとは、東武東上線に乗って上板橋駅を目指します。
上板橋駅に到着し、ホームで缶コーヒーを飲みます。
今日初めてのコーヒーを飲んで満足した後は、駅を降りて次なる目的地栗原遺跡を目指します。
南口銀座を抜けて、川越街道を横断し、都立城北中央公園を目指していくと、区境を越えて、練馬区に入りました。
練馬区は昭和22年に板橋区より分離してできました。
ところで、段々風が強くなってきました。
結構寒くなってきましたが、こちらは高尾に比べたらまだ寒くありません。
辛うじて手袋もいらないくらいです(道路地図の本を持ちながら歩いているので手袋をしているとページがめくれない)。
朝から半日歩いているので、足が段々痛くなってきました。
でもまだ歩けます。
都立城北中央公園に入り、公園の中を捜すと、前方に竪穴住居が見えてきました。

ここが栗原遺跡です。

栗原遺跡は複合遺跡で、旧石器時代の石器や縄文時代の土器が見つかり、弥生から平安にかけての竪穴住居が発見されました。
復元された竪穴住居は8世紀初め(奈良時代初め)頃のものだそうです。
奈良時代の初めというと、都がある奈良では華麗な文化が花開いていましたが、目を地方に転ずると、まだこのような竪穴住居に人は住んでいたのですね。
でも竪穴住居は思いのほか、夏は涼しく、冬は暖かいそうですよ。
遺跡の東側には今日何度も登場した石神井川が流れています。

次はいよいよ、東京の旧石器時代遺跡の聖地である茂呂遺跡に行ってみましょう。
⇒茂呂遺跡の探訪レポートはこちらに移動しました。
⇒茂呂遺跡に続いてこの日最後に訪れた根ノ上遺跡の探訪レポートもこちらに移動しました。
奈良と関係があるのか?超先の楽しみが増えましたよ。
あと栗原遺跡って栗付くんですね!
ここもドン!なんか私にも関係しそうです。
石包丁、いいですね。まだ平和な弥生があったのかも?そこから大変な世に。
そうそう太田道灌さんがお城落としたんですね。
そこは複雑です。ただ太田さん薬師信仰持ってたみたいなんでそれがこちらの反省もあるならいいなあと。栗なんて縄文の代表格の木です。
で栗に原が付くと太田道灌にはなりそうですよ、戦いに強くなる。
やっつけたんではなく率いいれたならいいのになあ。ただ石清水系だと青なんでどうかな?
両方うまく出来るのが太田さんだと思ってたんですけどね。
そうそう、稲用さん。大森貝塚の辺りも結構凄かったです。池上のあたり。
地形で好きそうな場所はだいぶ分かったので見つけたらお知らせいたしますね。7018
栗の木と太田道灌の繋がりはちょっとピンときませんが・・・