日本史大戦略 ~日本各地の古代・中世史探訪~

列島各地の遺跡に突如出現する「現地講師」稲用章のブログです。

川口古墳|東京都八王子市 ~楢原勢力と拮抗した川口勢力の有力者の墓か~

2020-04-23 16:05:48 | 歴史探訪
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 一本松古墳を発見してニコニコしながら住宅街を歩きます。

 つぎの川口古墳は一本松古墳から900mくらい離れていますが、確か川口古墳も湮滅していたと思います。

 いったん秋川街道に出て、楢原町の交差点で私の家の方向へ向かっている高尾街道を横断、「東京都遺跡地図」にプロットされている場所の近くに来ましたが、普通の民家のようです。

 民家の敷地内を道路から積極的に覗き込むとかなりの不審者なのでチラ見しますが、結局これも不審者ですね。

 段丘の下へ続く坂道を少し下って坂上を見上げます。



 この辺のはずなんですがねえ。

 まあ、ここは湮滅していることを知っているので、現況の確認だけでOKとしましょう。

 『新八王子市史 資料編1 原始・古代』(八王子市市史編集委員会/編)によると、川口古墳の石室は、河原石積みの横穴式石室で、大きさは4.3m×1mほどで、玄室と羨道の区別のない無袖型式の長方形、奥壁から2.7mの範囲の床面には扁平な河原石が敷き詰められており、これが玄室としてのスペースであると考えられます。

 昭和31年に発掘調査がなされ、玄室スペースの南端部で鉄鏃10本と刀子4点が出ています。

 鉄鏃は単なる鉄製の矢じりですが、これが便利なことに編年が確立されているので、それによって6世紀末葉から7世紀初頭の築造と推定でき、市内では鵯山古墳と同時期とされます。

 またその時期より少し後の鉄鏃も出ているため、7世紀前半代に追葬が行われたと想定されています。

 ところで、私の推定では、さきほのど一本松古墳のあたりまでは、楢原古墳群と通称してよいような群集墳が展開しており、少し間をおいて、この川口古墳からまた別のグループの古墳群になるのではないかと思います。

 川口古墳があったと思われる場所のすぐ東には「松枝小学校西」の交差点があり、面白いのはそこが現在でも楢原町と川口町の境界になっているんですよね。



 この境界線は、実はもう1300年くらい前にはあったのかもしれませんよ。

 天気は相変わらず曇り空ですが、雨は降りそうな感じがしつつも何とか持っています。

 このまま川口町内をさらに西へ向かいますよ。

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