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初心者御朱印男子の歴史散歩ときどき撮り鉄ブログ

最近御朱印集めを始めたアラフォーのおっさんです。遺跡や歴史博物館巡り、寺社巡り、趣味の記録をアップします。

トンイやチャン禧嬪など7人の側室を祀る祠堂 七宮をご存知ですか?【ソウル・青瓦台そば】

2018-10-28 20:58:46 | 韓国の歴史・史跡
韓流ブームが過ぎ去り、今や韓流ドラマは定着しています。
韓国の大河ドラマを見たことがありますか?

ツタヤに行くと韓流ドラマや映画がたくさん並んでいますが、「宮廷女官チャングムの誓い」を皮切りに、人気に大河ドラマも多数登場しました。

その中で私の一押しは「トンイ」です。
トンイこと、李氏朝鮮の19代国王粛宗の側室で21代英祖の母、淑嬪崔氏(スクピンチェ氏)ら7人の側室を祀る、「七宮」という7つの祠堂が、景福宮と青瓦台のとなりにあります。淑嬪崔氏の下の名前の「トンイ」は、ドラマで作られた架空の名前ですが。



右から景祐宮(キョンウグン)、23代純祖の母、綏嬪朴氏(スビンパク氏)の祠堂。真ん中は禧嬪張氏(ヒビンチャン氏)を祀る大嬪宮(デビングン)、左は第14代宣祖の母、仁嬪金氏(インビンキム氏)を祀る儲慶宮(チョギョングン)です。



朝鮮王朝の三大悪女として知られるチャン禧嬪こと張玉貞(チャン・オクチョン)を祀る大嬪宮(デビングン)。トンイのライバルとしてイ・ソヨンさんが演じていたのを思い出します。

とはいってもそんなに韓流ドラマをたくさん見たわけじゃないので、ドラマで活躍した実在の女性に詳しいわけではありませんが。

もともと七宮の地には、母淑嬪崔氏のために英祖が命じて建てた毓祥宮(ユクサングン)があったそうですが、20世紀に入り他の6名の側室の祠堂もまとめて七宮にしたそうです。それぞれの祠堂は小さいのですが、中には側室の位牌が祀られています。



七宮は、青瓦台のエリアにあたり国防上などの理由で自由に入ることはできませんが、インターネットのサイトから申し込みをすれば誰でもガイドによる無料ツアーに参加できます。1日あたりも、特に週末は何回にも分けてツアーが催行されます。ただし、韓国語のツアーのみですがガイドさんは非常に親切で、日本人の私に気を使ってくれました。

私は、このツアーを「コネスト」という韓国の情報サイトで知りました。
2018年の七宮ツアーの概要を日本語で説明しています。
https://www.konest.com/m/spot_event_detail.html?id=22655

私の説明なんかより、はるかにわかりやすくて丁寧です。

韓国文化財庁のホームページから申し込むことができます
http://www.royalpalace.go.kr/content/guide/guide32.asp?l_year=2018&l_month=11&l_day=2

30分から40分ですので、青瓦台観光をしながら是非行ってみてください。

いつもブログを見ていただき、ありがとうございます。


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李氏朝鮮、清への服属の碑・三田渡碑【ソウル・松坡区】

2018-10-24 21:38:26 | 韓国の歴史・史跡
ソウルでも人気の観光地ロッテワールドなどがある蚕室駅(ちゃむしる)駅のそばに、「大清皇帝功徳碑」、三田渡碑という碑文があります。



この碑についての解説は、解説文をお読みください。



本文の通り、これは建国以来明に服属してきた李氏朝鮮が、清への服属を誓う盟約を結ばせられ、それを国民に知らしめるために清の命令で作らされた碑文です。屈辱的なものです。

清は満州族が支配した国です。そのため、碑文には漢文と満州語の両方で刻まれています。

漢文側




次満州語?モンゴル語?




李氏朝鮮は14世紀に建国以来、明の朝貢国でした。朝鮮王朝にとって北に隣接する女真族を力で抑えてきました。李氏朝鮮が女真族から朝貢を受けてきたわけです。

それが、現在の中国東北部の女真族が17世紀には力をつけ、モンゴルや周辺諸国を脅かすようになります。女真族を統一したヌルハチは、国名を後金(アイシン)と名乗り、後金の2代目ホンタイジはモンゴルに侵攻してモンゴルから降伏の際に元の玉璽を手に入れたことを機に、ホンタイジは皇帝を名乗るようになり、国号も中国風に大清に改めます。これは清がいずれ明を征服する意思表示とも言え、実際、ホンタイジは明への出兵を朝鮮に求めました。

ホンタイジは、朝鮮にも朝貢を求めるようになります。すでに明を脅かす存在にまで力をつけていた女真族。当時の朝鮮はこうした国際情勢をどのように認識してきたのでしょうか。女真族を野蛮と見下す物の中には、後金との主戦を唱えるものもいたようです。

当時の国王仁祖を支持する西人派は、従来は朝鮮に朝貢していた女真族の国への服属など考えられず、清の要求を拒否します。清を認めない態度をとりました。

これに怒ったホンタイジは、李氏朝鮮に報復として侵攻します(丙子の乱)。仁祖は南漢三城に立て籠もって抵抗したようです。猛烈な攻撃を受けた朝鮮は、侵攻から40日あまりで降伏したそうです。この際、仁祖はホンタイジに対して最も屈辱的な「三跪九叩頭の礼」で清の皇帝を公認する誓いをさせられました。

そして、ホンタイジは仁祖の過ちと自らの徳を称える碑文を漢文、満州語、モンゴル語で刻むように求められ、作らされたのがこの三田渡碑です。


石碑の台座の亀趺(きふ)をみてください。



手前のは石碑がなく、亀も少し小さめです。説明文によりと、おそらくこの亀趺にはそもそも石碑が置かれなかったものとも考えられています。というのも亀の小ささから、清側にもっと大きなものを求められたためとも考えられているからだそうです。

このような屈辱に満ちた碑を、清の滅亡後は2度埋めましたが、一度は日本の手で、2度目は光復後に洪水で出てきてしまいました。現在は、チャムシル駅そばの石村湖畔の公園にひっそりと立っています。

現在では、17世紀の漢文、モンゴル語、満州語を研究する上でも重要な資料となっています。歴史に興味がある方は、チャムシルのロッテホテルやロッテワールドに行ったついでにでも立ち寄ってみるといいと思います。



詳しい説明はかけませんが、ブログをご覧いただきありがとうございます。

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