レダック アラコキ奮闘記 陸前高田チョビボラ日記(5)

2015-08-05 21:15:49 | 日記
⑤ 被災者の「ちーむ 麻の葉」について
 仮設住宅を宿舎に借りているといっても、すぐに帰るボランティアたちが、交流を目的として接しないとそう簡単にコミュニケーションが図れるわけはない。ただ、私は初めての訪問で知った「ちーむ麻の葉」の方と連絡をとっており、今回それを主宰しているOkさんとあうことができた。「被災者による被災者支援団体」である。
 「仮設住宅のかあちゃんたちが、<手を動かしていれば気が紛れる・・>この一言で始まったプロジェクト」で、ドレスタオルや、「支援で送られてきた和服を、ほどいて、洗って、リメイクした」アクセサリー、ブックカバーなどを販売している。親しい人をなくした深い悲しみ、時間をかけても去らぬ喪失感、将来を考えることの難しい不安感等々にさいなまされている仮設住宅の「かあちゃん達の手が止まらないよう、イベント、バザー、お店等で販売」し、何がしかの資金をもとに日帰り温泉旅行に行き親睦を図っている。しかし、親睦だけでなく、その先、すなわち復興が進み高台への仮設住宅の集約・移転時のまちづくりを見据えた活動であるとは恐れ入る。
 デ、このOkさんもびっくりするほどよく喋る。Gさんと二人で喋りだすと止まらない。漫才やったらどうだろう、吉本を誇る関西人も唖然。合いの手を入れて止めなければならない。前回、ドレスタオルを送ってもらって何人かに販売?(まだ売れ残っている)したのだが、今回いろんな新しい品を見せられて、つい、お土産以上の数量を注文してしまった。
 私の意図としては、ボランティア活動などというものは、特別の場合を除いて、縁のあった機会にできることをしたらいい、それを露悪的に「自己満足」と批判する人にはさせといたらいい、と思っている。東北大震災に心痛めた人が、アクセサリー販売に遭遇し、私を知ってるばっかりに「しゃーないな、300円なら買うとこか」と決心し、「まだまだ復興まで大変なんやなあ」と一瞬でも被災者の心情に思いをはせて、「少しは何かお役にたてたかな?」と思ってくれたらそれでいいのだ。それもボランティアということだと考えている。
「陸前高田だけではないか?」「原発はどうするのか?」と問い続ける人もおられるだろう。
 行政じゃないんだから、市民の一人として偶然の出会いでできることをすればいい。これが絆。Okさんに、「寂しさをまぎらすために、よく文通友達になろうという呼びかけもあるようだが」と尋ねると、「母ちゃんたちは手紙を書くのが苦手」とのこと。
皆さーん「ちーむ麻の葉」のプリントつけますので、買ってくださーーい!!!

⑥ カモメネットの自然と猫の一家
6月中旬、東北は梅雨の訪れにはまだ早い。海の傍なので潮風が気持ちいい。避暑に来たようだ。カモメ、とんび、名も知らぬ鳥が飛び回る。それに、近くの木々に棲みついているのだろう、鶯が鳴く。固定観念で「梅の季節の朝方に」というのは当たらない。作業の最中に、腰を伸ばそうとしてたら「ホーホケキョ!」、午後にも「ホケキョ」が聞ける。たまに「ホケキョケキョケキョケキョ、ホケキョ」。戯れているのか発情しているのか、聞き飽きた、もういい、分かった!
 
カモメネットには猫軍団がいる。何でも去年、捨て猫であったものが、入れ替わり来るボランティアたちにかわいがられ棲みつくようになり、ためにGさんもペットフードを用意するようになった。デ、いつの間にか腹が大きくなり4匹の子猫が生まれたのである。Iさんも私も初対面であった。名前は無い。最初親猫に対し、Gさんが「ハナ」と名付け呼んでいたところ、近所のお婆さんから「私、ハナと言うんじゃが、やめてくれんかな」とクレームがついたので、よほどのことがないとGさんも「ハナ」と呼ぶことはない。3匹の子猫にも名がない。ただ、ずんぐりした姿格好の子猫だけにはGさんは「短足」と呼ぶ。それはないだろう、と思うが、個別に呼び寄せる必要性が僕には無いので、何も言わない。Iさんも私もペットを飼おうという気はサラサラない人だが、走り回るのが好きな子、臆病そうに様子をうかがう子など個性差があることに気付いて、初めて可愛いものだという気が起きた。ボランティアたちだけでなく、近所の子供が学校帰りに、孫とおじいさんが散歩の途中に、という具合で地域社会の人気者にもなっているようである。

 帰りは昼間にした。夜行はアラコキには無理であるということを思い知った。(了)

レダック アラコキ奮闘記 陸前高田チョビボラ日記(4)

2015-08-04 19:56:46 | 日記
④ カモメネットでの活動 ボランティアの生活
(活動内容)
 カモメネットの活動目標は津波に侵された土地の回復であるから、カモメネットの活動は花や野菜を育てる農作業が活動の中心である。ボランティアの中にはGさんのマネージメントを助けるため、PCの作業をする人もいる。
団体の場合は、あらかじめGさんが作業内容を計画しているが、個人の場合は、さまざまなスキルを持った人もいるのでGさんと相談しながら決めることが多い。具体的に、今回の私の作業を紹介しよう。
 到着した6月17日、近くのコンビニで買ったソーメン昼食の後、午後の作業をGさんと相談した。ベテランのIさんは、電動草刈機を使って除草、私は、この日は団体でボランティア活動に来ていた横浜のインターナショナル・スクールの数名と一緒にチューリップの球根堀りとなった。カソリック系のインター校は横浜からバスで気仙沼のボランティア活動に来ていたのだが、この日は受け入れ団体が休みなので、今日だけこちらに来たというわけだ。スペイン人の指導教員と4人ほどの外国人および3人の日本人および運転手という一行で、まるっきり英語で会話しているのはさすがというべきか。
 彼らは、咲き終わったチューリップ畑の草抜きを手で行う作業をしており、その跡地から球根を掘り出すのだ。結構高いもので、コーナンやコメリなどで買うと1つ100円ほどするらしい。スコップで10~20Cmほど掘り球根を見つけるわけだが、これが結構難しい。球根をスコップで傷つけ時には真っ二つにしてしまったりする。植え付けもボランティアの手作業なので、同じ深さ、順序良く並べているとは限らない。瓦礫が埋まっているところもある。インター校の男子生徒と、数日前からいるニート的立場の20代後半の男性との3人で行ったのだが、半分徹夜状態の老骨には腰が堪える(ジムで筋トレもやっているので、少々のスコップ使いはいいんだが、柔軟性もなく、体幹は一番弱いので腰が痛くなるのがうっとうしい)。
 マ、あまり無理はしないことをモットーにしているのだが、次の日にはインター校の生徒はいないし、上述の男性も午後には帰ってしまった。かくて3~5日目は、球根堀の孤独なお爺さんとなった。この球根は天日干ししてから使うそうだ。
 6日目は、Gさんが耕耘機をかけた後をキュウリの苗植をした。畝をつくり、その上に黒いビニールを覆いかぶせる。茂り具合から考えてGさんがおいていった苗の近くにカッターで丸い切込みを入れ小さなスコップで15~20Cm位の穴をほり、少量の顆粒肥料をやり、土をかぶせ苗を埋め込み盛り土する。最後にじょうろで水やり。Gさんに頼んでここに看板を立てさせてもらった。私の属していたクワイアが、先日コンサートをした時のカンパを寄付したからである。(8月下旬には収穫できるだろうけれど、旅費や送料を使うほどのものではなかろう)。
 最終日7日目は、花の移植をした。新たに畑にする予定地に、ポッポッっと以前撒いた
花・開花前の苗が散見される(名前は分からない。Gさんはもともと農業をやっていたわけではないので、「わしに聞くな」という。それにしても、野菜・花をよく育てている)。草刈→畝つくり→穴掘り→移植→水やり とパタンが分かってきたところで、今回の活動終了。途中までの球根堀りは、次のボランティアがやってくれるだろう?!
 
(1日の生活―衣食住)
 団体ならば宿の手配や食堂・弁当の手配が必要だが、個人の宿泊を伴う参加は、概ね、次のようなものだ。
3月から12月まで、東京から単身赴任(お仕事じゃないから赴任とはいわないなあ?)と同様の生活をしているGさんは陸前高田のN仮設住宅の二軒を借りている。仮設住宅でも満杯でないところのうち、このようなボランティア活動をしている人に目的外使用として認めているところがある。一軒1万5千円だからGさんは毎月3万円支払っているわけだ。ちなみにここの仮設住宅は、風呂・トイレ付の2Kである。
1室はGさんが使い、もう1室は男子ボランティアが泊まる。もう1軒は女性用だ(利用料1日700円)。どうしても足らない場合、各仮設住宅ごとに自治会が作られているので1軒は集会所が充てられており、自治会に申し込む。もちろん昼の活動に支障の無いよう、朝、借りた布団をもとのところに返し荷物一式とともにゴミも持ち出して原状復帰をする必要がある。最終日はシーツも持ち出し活動場所で洗濯しGさんが持って帰る。
 朝、7時半頃N仮設住宅を出発し、20分ほどでカモメネットに着く。朝食を仕入れるためにコンビニに寄ることもある。相前後して出発したGさんがカモメネットの鍵を開け、猫(後述)を解放し、水・ペットフードを与える。私とIさんは、朝食準備にかかる。といっても、Iさんはここに来た時は、卵かけごはんと決めているのでコンロに大きな鍋で湯を沸かし「サトウのごはん」(銘柄はサトウではなかったが)を温める。電子レンジなんどは無いので、プロパンガスのコンロを使う。2穴あるが、1穴の支え?五徳?は欠けており不安定だ。Gさんに「もっといいのを寄付してもらうか、買い換えることができたらいいのに」と言うと、「ボランティアがピカピカの物使っていたら、何やかや言う人もいるのでこれでいいの」と答える。へー!ソウナンダ。Iさんが名古屋から持ってきた梅干しと、スーパーで求めた海苔・インスタントみそ汁を出せば、準備完了。Iさんが卵かけごはんの仕掛け人だが、卵の黄身と白身が完全に混ざっていないと食べにくいと2分ほどかけてていねいに混ぜ合わせる姿が可笑しい。
 後片付けは使った食器を水道場で洗うとともに、日によってだが、穴を掘って焼却場にしているところでゴミはすべて燃やす。Gさんから仕事の段取りを聞き、9時前から作業開始。ノルマがあるわけではないし、アラコキ3人だから、休憩もとり、12時前には午前の作業終了。昼は①近所のコンビニ弁当を買いに行く。②3人1台の車で市内の食堂に食べに行く。③カモメネットで料理(後述)の3パタン。
 午後は1時前から作業をはじめ、4時ころには使った器具を洗ったり後片付けをする。火の後始末、猫の軟禁をして施錠。Gさんは役所の人や知人との連絡などで走り回ることが多いので、Iさんの車で2人で風呂に行く。2~30分ほどかかるが、「霊泉 玉の湯」というのがある。観光スポットとしても有名だ。入湯料500円だがボランティアと言えば300円にしてくれる・・・はずだった。ところが今年の4月からはそれは無くなったという。ウー残念。だから1日おきにして、早く仮設住宅に帰り、お家のお風呂で我慢しましょ。(目的外使用の身で、気楽なこといえないのだが、狭く、水切りが良くない。ついでに文句言ってしまうと、夜中バタンバタンという大きな音が聞こえる。屋根のトタン板が風の強い日にはめくれる音らしい?)
 夕食は3人で6~7時ころ、出かけて外食。意外なことにGさんは一滴も飲まない?!よくよく聞くと、若いころ痛飲しすぎて入院(コホン!)し回復するまでに長期間かかり、以降ピタッと止めたとのことだ。だから、私とIさんにとっては、遠慮なく夕食時の1杯が飲めるわけだ。もっともIさんも普段は奥さんと二人でビール1本空ける程度だから、どこへ行っても500円のジョッキ1杯でいい気分になるようだ。

 1日だけ宿舎で「自炊」した。21日、日曜日を活用しやはり同じN仮設住宅に住むNさんが畑作業にやってきた。春菊とルッコラなどの香草を収穫しにきたのだ。GさんがしきりにNさんに「天ぷらにしたらうまいぞ」と言う。このNさんは陸前高田にボランティア活動に来て、そのまま市の社会福祉協議会で働きだしたというスゴーイ女性で、オーストラリアなど外国にも長期滞在したことがあるそうだ。私も悪乗りして、「今日は父の日なのに、3人とも家を離れている。このアラコキを慰めてくれる人とていない。天ぷらを揚げてくれたら、僕がサラダでも作る」と口説いたら、嫌がらず??引き受けてくれた。主力の春菊・なすび・ちくわ・かき揚げの天ぷらを彼女がせっせと揚げ、私がスーパーで買い求めた鰹のたたきを、これも取り立てのオニオンスライスや香草であしらったマリネを作った。前に来ていたボランティアが残していった3本の発泡酒と少し残されていた銘酒で、4人でやった父の日パーティは、それなりに豪勢であった(Nさんありがとう)。
 しかし、調子に乗ると碌なことはない。Iさんは缶ビール1本でおしまい、残り二人は飲まない、という次第で私が缶ビール2本と残ったお酒を空けてしまった。普段ならどうということもないのだが、慣れぬ農作業で体力はへばり気味、ビールと天ぷらという取り合わせで翌日から胃酸過多、Iさんからもらったビオフェルミン(ア、これは整腸剤か、マアいいわ)のお世話になってしまったのでありました。
 なお、お米を炊いたのですが、おかずの豪華さに大量にあまり、朝食にもっていくとともに、昼の焼き飯として僕が苦労して料理した。玉ねぎ・キャベツ・卵はあっても人参や肉類はない。「そうだ、昨日Gさんが魚肉ソーセージを猫にやっていたなあ」と思い出し、冷蔵庫を捜索すると1本残っていて何とかそれらしきものをつくった。3人で完食。

レダック アラコキ奮闘記 陸前高田チョビボラ日記(3)

2015-08-03 09:48:44 | 日記
③ ボランティアたち 
(ボランティアとして来る人々)
 Gさんの呼びかけに応じて集うボランティアはどんな人たちか。
これについてもやはり「陸前高田カモメネット」のホームページから「陸前高田出身だ!」に入っていくと膨大な写真があるので参考にされたい。日帰り組と宿泊を伴う場合がある。大学生のサークルや市民団体など、グループ参加もあれば、個人として参加する場合もある。また、今や、学校の教育活動の一環として申し込んでくる場合も少なくない。現地のお花畑には、関西でいえば、西大和学園や大阪市立南中学校特別支援学級の看板が見える。

 私の観察では比較的長期にわたる者は、時間的余裕がある者なので、次の生き方を考えるまでのニート的立場の若者か、リタイア組であろうか(註1)
(註1 「ニート的立場の若者」という場合、私は否定的な意味合いで使っているのではない。ピースボートに乗船し、自分の生き方を考えようとしている多くの若者に出会った。今は学校・職場には所属していないが、様々な体験―トレーニングに挑戦しようとしている若者は「ニーNee」であってもニートではなく、むしろ閉塞状況の日本を切り開くことが期待できるのではないか、と思っている)

(アラコキの3人―私) 
かくいう私は定年退職後、民間企業に非常勤職員に勤め、比較的時間の余裕のあることから、2013年に東北個人旅行を計画し、ネット検索していると、未だボランティアを募集しているというので電話した相手がGさんであった。
(註2 Gooブログ「レダック ピースボートに乗る」の記事のうち「レダック紀行 東北編」および「同 その2」に掲載している)
 その後、昨年も訪問したが、サンデー毎日の日々となった上、所属小集団もなくなってい き、古希を迎える年になり少々心境の変化を感じる。社会的に不要、無用なのかという諦念、新たなことにチャレンジしようという意欲の欠如の一方で、それでも必要としてくれること・人・所はどういうことかということを考えているのである。ボランティア活動はそういった心の隙間を埋めてくれるアクティヴィティの一つなのだろうと思っている。

(アラコキの3人―Iさん)
 そこへ名古屋のIさんから絶好のお誘いがかかった。Iさんは校区の消防団で活動されておられるのだが、定年退職の2011年東北大震災が起こった。陸前高田と名古屋とは姉妹都市提携をしていたので、4月から消防団の一員としてボランティア活動にまい進することになったそうである。それ以降も陸前高田に出かけ、今回が6回目のベテランである。
 68歳の今も、前職の関係で週2日ほど勤めるとともに、校区消防団の活動を担っておられ、まだまだ元気だ。
 私の1回目である2013年にご一緒した。消防団の仲間と車で来られていた。段取りの良さ、細かなことに気が付き、自分でチャチャットと動かれる姿を2年前に見て、「あー、この人となら、うまくやっていけそうだ」と思っていたので二つ返事で提案を受け入れたのだ。

(アラコキ二人の877Kmドライブ)
 今回は消防団の仲間は来られないので、私が誘われたのであろうが、私は運転できない、Iさんが夜中に一人で運転するというが大丈夫であろうか? 妻がしきりに気にする。マ、日程的にも都合よかったのも巡り会わせであろうと、この話に&Iさんの車に「乗った」。
 かくて、6月16日、大阪から新幹線で名古屋下車、17時にIさんにひろわれ、家に立ち寄り、これまた心配げなIさんの奥さんの見送りを受け出発した。途中仕出し屋でとった夕食が隠れたグルメなみに旨いのにはもうけものであった。東名高速の名古屋インターをくぐったのは19時、ここから本当に長いナガーイ、ドライブが始まった。小休憩をとりながら順調に走っていったのだが、夜中に走る車は圧倒的にトラックが多いことを再認識、途中、雨に出会ったがSAで仮眠したりしてやりすごす。いよいよ東京に入る。
 いつの間にか首都高速渋谷線に替わっている。Iさんが言うには「埼玉県川口まで行って東北道に乗り換える。去年は中央道から来たが、東名からは初めてだ。C1からC2に乗り換える必要がある。」東京をあまり知らず、ましてや運転免許を持たぬ人間にはわけが分からない。そのうち、Iさんが呟きだした。「どうも違うかな。さっきのところ降りるのかな?」「でも、一方通行だしな」というわけで、首都高速を途中で降りることに。午前零時を回っている。止まって休憩しているタクシーの運ちゃんに道を聞き、めげずに川口に向かう・・。行けました。ヤレヤレということで、埼玉は蓮田というSAで半時間ほど仮眠したのはすでに1時半でした(名古屋ITからここまでメーターで計算すれば412Km、まだ半分も来ていないのです)。
 Iさんは少し元気を取り戻し、また走り出したのですが、私は北関東に来たことがないので、とっても長く感じました。眠気も襲ってきます。と思っていたら・・また雨が降りだし、今度はあれよあれよと言ううちに前方確認さえ困難というほどの豪雨・・、これはいかんとSAで避難休憩。そのうち眠さに勝てそうにないとの判断で1時間ほど眠りこけた。私もそう。緊張と起きていなければIさんに悪いと頑張ってたのですが、もう限界。・・・というようなことがあって何とか岩手一関のICで高速を降りたのが翌朝9時(同817Km)。コンビニがあったので、パンと120円コーヒーで朝食。今度は山道を抜けて、陸前高田のカモメネット活動場所に着いたのが11時になっていました(同877Km Iさん本当に本当にご苦労さん)。
 やっとGさんとご対面。彼が70歳、私が69歳、頑張って16時間運転してくれたIさんが68歳、ここに、ほとんど古希、アラウンド古希=アラコキトリオが集うことになったのです。

レダック アラコキ奮闘記 陸前高田チョビボラ日記(2)

2015-08-01 09:45:27 | 日記
② 「陸前高田カモメネット」の目標と代表Gさん
(「陸前高田カモメネット」とは、どういった団体なのか?)
詳しくは、この名でネット検索してほしい。最近(6月)、フェイスブックを使った資金集めの「Ready For」にエントリーしており、より端的に目標が述べられているのでそちらの一文を紹介する。
「陸前高田市で津波被害を受けた土地を農地に再生したい」。「私たちの団体は、自分たちの大切な故郷が東日本大震災の津波被害により、荒地状態になったままであることに耐えかね、再建を目指し立ち上がりました」。「被災直後から現在まで、荒地をボランティア(の手を借りて農地に再生しようと)・・(3月から12月まで活動し)・・・(は)国内外から延べ6千名以上に上っています」。(レディフォー 達成したようです 拍手👏)
 なお、「カモメネット」は団体名を指すとともに、その活動拠点、3坪ほどの建物と前の空き地やテーブル・トイレ等付属施設をも指す場合がある。


(代表Gさん)
Gさんから断片的に聞いていることをつなげると、陸前高田で生まれ育ち(父親は議員をしていたというからかなりの名家?)、建設の専門学校を出、長じては上京したという。しかし、未曽有の惨事に破壊されつくした故郷を再建すべく、震災直後から活動しはじめ、少しづつ福伏地区の土地再生の営みを始めるとともに、現在の活動拠点を手作りで作り上げたのが翌2012年だったらしい。
 デ、このGさん。御年70歳で、Gさんは爺さん、と言いたいところだが、何の何の、意気軒昂で、まだまだ元気な現役のヤッチャンに見える(失礼!)。しかも幼少のみぎりからこの地で過ごした期間は、相当なガキ大将、ゴンタであったようだ。だから、地元の人の多くを知っており、いたるところで挨拶を受ける。おまけに口数の多いこと、しかも口の悪いこと・・「東北人は寡黙で粘り強い」なんどと誰が言っているの?と思わせる。私たち相手の時、話によっては、のべつ幕無しに「この野郎」が乱発される。だから来訪したボランティアの中にも、唖然とする人が出てくるのはやむを得ないかもしれない。
 ところが、ボランティアのリピーターが絶えないし、支援者も多そうに見えるのは、Gさんのザックバランな性格とともに、目標実現に向けての、実に細かな気配りと、きっちりした仕事(?)ぶり、細やかな気遣いがあるからだ。もう5年目だ。雪の溶ける3月から12月まで単身赴任し、農作業を一手に管理し、ボランティア受け入れに関しても仕切らなければならない。植物を植え付ければ、雑草も伸びてくる。ボランティアがいてもいなくとも、草抜きは欠かせない。「来たい」と申し込んできた初めてのボランティアは迎えに行かなければならない、多人数の場合には、食事や宿泊施設の手配が必要だ・・・等々。
 それに、この年にしてよくマア、と感心させられることも多い。2年前に来た時はパソコンと格闘し、来訪ボランティアに助けられながら事務をこなしていたようだが、今回来たらReadyForの話だ。何のことかと聞くと、やりたいプロジェクトをフェイスブックの友人たちに呼びかけ資金調達するという何ともナウいことをやっているではないか。完全に旧人類はおいてけぼりだ。スゴイ!! 
陸前高田だけで津波は1700人の命を呑みこんだ。Gさんは声高には言わないが、その衝撃の深さはいかばかりか?そしてその復旧にかける活動は、いわばGさんの残りの人生をかけているように思われ、彼なりの津波へのリベンジであるかのようだ。