私の轍 WatashiのWadachi 第9回

2022-04-08 21:15:50 | 日記
私の轍 WatashiのWadachi 第9回

     
第2章 教員生活

2 結婚 家庭

 初めての教員生活と、結婚とは同時だった。後先するが、妻とは先述したボランティア団体で知り合った。1971年の韓国でのワークキャンプに日本から5人参加したが、その中に二人はいた。また、国内でのワークキャンプでも児童養護施設の改修によく参加した。学園闘争時代はそれぞれの大学で活動したが、これらの活動の中で、男女の結びつきは、これまでのような家父長制に収れんするような方向のものではなく、対等であるべきだという意見は一致していた。政治変革は挫折したが、足元からの文化革命は実践できるという信念があった。私の就職が決まり、大学卒業後1年働いていた妻が、理学療法士を目指す専門学校に合格したのを機に、新年度から共同生活をする約束をした。しかし、アパートや文化住宅を借りる敷金はない。父親に相談したら「そんなふしだらな」と𠮟られ、結婚することとなった。
それが3月のはじめ、急遽親戚に、仲立ちの使者を頼み、妻の家を訪問したのである。式は親族の顔を立てつつも、結婚式文化のありようは自分らで決めたいという思いから、第一部は親族中心の人前結婚、夜は第二部 友人中心の披露宴風宴会とした。4月当初というあまりにも急なことであった。第一部は結婚式場でなく、レストランの一室を借り切り二人の決意を読み上げ。夜は新地の料亭で行った。私は昼から飲み続けたため、帰りの環状線の中から酩酊状態で、どうやって帰り着いたかも記憶になかった。第一夜から「指導」対象であった。
 新居は大阪市大のあるJR阪和線の杉本町駅、大和川沿いの文化住宅で父に出してもらった20万円が敷金、家賃が1万円であったと記憶している。勤め先の学校の方でも、突然のことであるから戸惑いながらも、親睦会の幹事から「初めてお会いしますが、規定ですから結婚お祝いを」いただいた。また、社会科の先輩教員から、「特休をとってもらわんといかん」と言われた。特休(特別休暇)という言葉さえ知らず、学年の当初から休みをとることや、ましてや新婚旅行など考えてもいなかったのだが、急遽先輩の顔をたてるため、旅館を探した。当時はまだ土曜日は課業日だったので、半日だけ特休、行先は限定されてくる。妻が丹波の立杭焼に行きたいというので、特急ではなく快速電車で笹山に泊まり立杭に行った。その後我が家の食器として活躍する丼などを買った。無計画なので、バスの便は1時間ほどなく、結構重い焼物の丼を抱えて歩き出した。ヒッチハイクで無事帰還できた・・

 翌1972年、わたしが堺市工2年目、妻が理学療法士の専門学校2年生。12月長男が生まれた。妻が学業を続けるためには、私の実家の母の助力が不可欠のため、守口に引っ越した。家の条件のいい所を紹介してもらい、さらに2回引っ越しを繰り返した。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿